25th. 翻弄
――あの子にはね、味方がほとんどいないの。
グレースが最後に言った言葉を思い出しながら、アンネは城の西棟を歩いていた。
オスヴァルトが息子ということは、グレースは皇后だ。「あれが?」と思ってしまったのは、大目に見てほしいと誰にともなく言い訳する。もっときつめの女性だと思っていたのだ。
立ち止まり、アンネは肺の底から空気を吐き出す。
「はあああ。すっごく、面倒くさい」
両手で顔を覆って、壁に頭を預ける。心を占めるのは、後悔だ。聞くんじゃなかった。彼の過去なんて。
「どうするんだ、ますます見捨てられなくなった」
だから、面倒くさい。凄惨な過去を聞いてしまったせいで、余計に放っておけなくなってしまった。
たぶん、これは同情だ。三歳で殺されかけ、その後も何度も殺されかけ、実の父には駒のように扱われている、皇太子への。
そんな茨の道を歩んできたようには、全く見えなかった。だって、それでも彼は、純粋な心を失っていない。性格が歪んでもおかしくない環境で、彼の心はなお輝かしい。
だから、アンネは彼を見捨てられない。たとえ自分が拒絶されていても。
面倒くさいのは、自分のその感情だ。
「残虐帝の息子なら、それらしく振舞っとけ……馬鹿者め」
ぽつりと呟く。気持ちを切り替えるように、アンネは自分の両頬を思いきり叩いた。いつまでもこうしてはいられない。もともと、アンネは彼の願いを叶えると決めている。拒絶されようが悲惨な過去を聞かされようが、アンネのやることは、願いを聞き届けたその日から変わらない。
「さて、やるか」
再び歩き出す。目指すは、皇族の住まう東棟だ。アルミンは妖精王の気配に反応していた。それに間違いはないだろう。なぜならあのときのアルミンは、正気を失っていたからだ。失っていたからこそ、本能は王の気配を敏感に感じとったに違いない。
だから、本物の指輪も、必ず皇帝の寝室にある。間違えたのはアンネだ。おそらく本物の指輪に、オスヴァルトの気配は残っていない。
(自分の息子にも触らせないとは、用心深い皇帝だな。だが、俄然やる気が出てきた)
これで皇帝の鼻を明かせると思えば、なんだか楽しくもなってくる。母を殺されたばかりの頃は、どす黒い炎が腹の底で燃えていたけれど。
今は復讐よりも、指輪を見つけてやりたい思いのほうがずっと強い。
見つけて、オスヴァルトに渡したなら、どんな顔をするのだろう。残念なのは、その顔を見られないことだ。
(もう二度と、あそこには行かないと言ったからな)
だから指輪を見つけたら、妖精にでも届けさせよう。あの男ならきっと喜ぶ。
繋ぎの間にやってきたアンネは、慣れた手つきで白薔薇を咲かせた。
***
次から次へと積み上がっていく書類の山を、オスヴァルトは淡々と崩していた。今は何かをしていないと、ふとアンネのことを思い出してしまう。怒ってオスヴァルトの宮殿を出て行った彼女は、なぜか泣きそうにも見えた。
「殿下、ツェルツェから献上の品が届いております。こちらが目録です」
「そこに置いておいてくれ」
書類から目を離し、文官に指示を出す。
十年前、国境に接しているツェルツェの町を落としたのは、他でもないオスヴァルトだ。実際は皇帝の横槍があったけれど、それは些細な問題だろう。過程がどうあれ、結果はオスヴァルトが最高指揮官だ。
あれ以上の侵攻を止めるべく、ツェルツェ側は早い段階で降伏を示した。それ以来、自治を認める代わりに、宗主国であるエルディネラに献上品を捧げる約束だ。
本当は、ツェルツェの王族からも、人質をとる予定だった。皇帝は完全にそのつもりだった。しかし、相手側に女性王族がいなかったのと、オスヴァルトが用意した代替え案のおかげで、なんとかそれは免れた。さすがにツェルツェの正妃を人質にとれば、世界各国からどんな批判を受けるか分からない。
オスヴァルトは、ゆくゆくは人質全員を、そうやって彼女たちの本国へ帰そうと考えていた。
そしてそのためには、やることが山ほどある。なのに。
(アンネ……)
心はすぐに、彼女のことを考えてしまう。何度も何度も最後のあの場面を思い出しては、激しい後悔に襲われる。決して彼女を怒らせたかったわけじゃない。彼女を傷つけたかったわけでもない。
きっと彼女は、せいせいすると言って、不敵な笑みを見せると思ったのだ。
(なのにどうして、あんな顔をした?)
同じ疑問が繰り返される。そのとき部屋の扉がノックされて、文官が応対に出ていった。少しのやりとりの後、一人のメイドが入ってくる。
「殿下、お茶をお持ちいたしました」
聞こえてきた声に、オスヴァルトは弾かれたように顔を上げた。その声は拒絶したはずのアンネのものだった。信じられなくて、近くで紅茶を淹れる彼女の姿に、オスヴァルトは釘付けになる。
「なぜ……」
意図せずこぼれた呟きに、アンネがわずかに反応する。それは、苦笑いのような、とにかく反応に困ったような表情だった。
「なぜ、と言われてもな。おまえに会いたかった、それだけじゃ、だめか?」
息を呑む。そこから呼吸を忘れた。無意識に彼女の細腕を引き寄せようとして、文官の声に我に返る。
「では殿下、こちらの決裁済みの書類をいただいていきます」
「あ、ああ」
彼が一礼して出て行くと、執務室には二人きりだ。伸ばした手は、誤魔化すようにカップを持ち上げる。動揺した心を静めようと、一口飲み下した。湯気を立てる紅茶は、味が全くしなかった。
「疲れているな」
驚いたことに、アンネが心配そうにそう言う。手が伸びてきて、冷たい感触が額に触れた。
「アン、ネ?」
「顔色が悪い。寝ているのか?」
「いや、あまり」
色々な衝撃が重なって、オスヴァルトはつい正直に答えてしまう。
もう一度彼女を拒絶するには、まだ冷静さが足りていない。
「なら寝ろ。仮眠室はないのか」
「あるにはあるが……」
言いながら、一つの扉を一瞥する。アンネは頷くと、オスヴァルトの腕を引っ張って無理やり立たせた。
困惑しながらも、アンネにされるがまま、オスヴァルトは隣室へと入っていく。そこには仮眠用の寝台が置かれていた。ここを使うのは初めてだ。それでもシーツは新品のように整えられ、埃一つかぶっていない。
オスヴァルトは戸惑いの瞳をアンネに向ける。
「どうした? ほら、少し休め。ちゃんと起こしてやるから」
「いや、そういうことではなく」
躊躇っていると、アンネは何かに気づいたように「ああ」と声を上げる。
「一緒に寝たほうがいいか?」
「⁉︎」
これにはさすがのオスヴァルトも
焦ったのはオスヴァルトだ。
「待て、アンネ。そういうことでもない」
「じゃあなんだ? おまえは、わたしに何をしてほしい?」
紫の瞳でじっと見つめられる。両頬にそえられた華奢な手を、オスヴァルトは拒絶できなかった。
「教えてくれ。わたしは、おまえの願いを叶えたい」
まるで、そうするのが自然なように、二つの影が重なった。
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