19th. 変化
幼い頃、アンネが外に出たがらなかったのは、
わずか七歳で母を殺され、それまで生活していた街は炎の海と化した。外に出ると、そんな光景がまぶたの裏に蘇る。同時に仄暗い憎しみを、アンネは抱かずにはいられない。それは、戦争を仕掛けてきたエルディネラ皇族と、そして、自国の王族に。
けど、そんな暗闇の中に沈んでいた彼女を、救ってくれた人間が二人いる。一人はマルティナだ。幼いアンネを育て、たくさんの愛情をくれた。彼女はアンネの第二の母だ。
そしてもう一人は、文字通り命の恩人。けれどアンネは、その人が誰だったのか未だに知らない。覚えているのは、戦火の中、ぐったりしていたアンネを抱きかかえ、必死に「死ぬな」と走ってくれたこと。朦朧とする意識の中、ぼんやりと見えた、彼の赤黒い髪だけだった。
(あの頃の夢を見たのは、久々だな)
前は、毎夜のように見ていた夢。母がアンネを助けて、敵の凶刃に倒れる場面ばかりが繰り返される。最近は、全く見なくなった夢だった。
たぶん、十年という時の流れが、アンネの心を徐々に癒してくれたからだろう。今日だって、その夢を見たわけじゃない。
今日は、命の恩人の夢を見た。
(誰だったんだろうな、あの男は。分かるのは、そいつがものすごく馬鹿だってことだが)
十七歳になり、大人になったアンネだから気づいたこと。彼はエルディネラ帝国軍の軍服を着ていた。それが何を意味するかは、今のアンネなら簡単に察せられる。
だから恩人を見つけようとは思わなかった。願わくば、彼がアンネを助けたことが、他の人間にバレていなければいい。
(今さらこんな夢、見たってなぁ)
と思いながら、アンネは勢いよく斧を振り下ろした。――ダンッ。
「相変わらずいい腕してるねぇ、アンネは」
「ふん、当然だ」
満足気に答える。ダンッ、とどんどん薪を割っていった。
実は、これもエルフリーデとしての仕事である。依頼人である白髪の老人は、毎月決まった頃合いにやってくる。依頼は様々だが、今日は薪割と雑草刈りのようだ。
「いやあ、あんなに小さかった子が、もうこんなになっちゃって。時の流れは早いねぇ」
「そりゃあ十年も経てばな。それよりじいさん、マルティナに会いに来たんだろ? わたしでよかったのか?」
「あーあ、いつからそんな呼び方になってしまったのか。昔は『じいじ』と呼んでくれてたのに……」
よよよ、と泣き真似をされる。それに騙されたりはしない。けど、良心は痛む。なぜならこの老人は、アンネにとって父親のようなものだから。マルティナが第二の母なら、父を知らないアンネにとって、彼こそが父だった。
老人は、マルティナのお得意様だ。それだけじゃなく、マルティナに好意を持ってもいる。と、老人が自ら教えてくれた。
――マルティナには、秘密だよ?
そう言いながら楽しそうに微笑んだ彼は、まるで青春真っ盛りの少年のようだった。だから、恋を知らない幼いアンネでも、きっとそれは素敵なものに違いないと思った。
でも、老人にはかわいそうだが、マルティナは彼の気持ちに気づいている。そうして、黙っている。たぶん、マルティナがそうしていることを、老人もまた気づいているのだろう。
アンネにはよく分からない関係が、二人の間にはあるようだ。マルティナだって、老人のことを憎からず思っているようなのに。
「なあじいさん、いい加減、この屋敷から引っ越したらどうだ?」
毎月アンネがマルティナと手伝わされるのは、屋敷の清掃だ。貴族が持つ、広い屋敷の。
けれどここに住んでいるのは、もうこの老人――レナルド・グリエット前公爵だけだった。家族はおろか、使用人さえいない。かつてあっただろう全盛期を思わせぬほど、廃れてしまった屋敷である。
アンネはもう何度も、引っ越しを勧めていた。彼の別居している家族も、この屋敷からの引っ越しを勧めているようだった。それでも頑なに動かないのは、思い出があるからだと。
「わしも何度も言うが、引っ越しはしないよ。一人ででも、この屋敷を守ると約束したからね」
「それが誰との約束か訊いても、いっつも答えてくれないよな」
「何を言うんだい。答えているよ。わしの初恋の人だ」
「じいさんの初恋の人なんか、わたしが知るわけないだろ」
アンネは半目で老人を見やる。でもレナルドは、楽しそうにからからと笑うだけだ。
ここは、この屋敷は、その初恋の人の生家らしい。
「まだまだだねぇ、アンネは」
いつも決まって言われるそれに、いつもどおりムッとした。何がまだまだなのか、アンネにはよく分からないからだ。
「おまえも恋をすると分かるよ。たとえ一緒になれなくても、貫き通したい想いというものを」
レナルドは、それを口癖のように言っている。アンネに聞かせているはずなのに、まるで自分に言い聞かせるように。その横顔を、いつも寂しそうだと思いながら見つめていた。
「まあでも、おまえが恋をしたら、わしは泣いてしまうかもしれないねぇ」
よよよ、とまた泣き真似をされる。アンネははぁと息を吐き出した。
「心配しなくても、そんな相手はいない。じいさんも知ってるだろ?」
「ああ、知っているとも。だからアンネや、どうか老い先短い老いぼれのために、今はまだわしらのかわいいアンネでいてくれるかい?」
「分かってるって。耳タコだ」
「それくらい心配なんだよ。おまえが悪い男に引っかからないか。どうやら最近、おまえにお得意様ができたらしいし。しかも泊まったらしいね? おまえのところに」
「ぶっ」
いきなりぶっ込まれた話題に、アンネはわなわなと震えた。顔が異常に熱い。心臓も急に速まった。原因は分かっている。あの男、オスヴァルトだ。
ある夜、様子のおかしかった彼は、勝手にアンネの膝上で眠っていった。眠気に勝てなかったアンネも、そのまま眠ってしまったのだが、次に目を覚ましたときには、彼はもういなくなっていた。そしてアンネは、自分のベッドの上にいたのである。
誰かに抱きかかえられて、額にキスされて、「おやすみ」と耳元で囁かれたのは、どうやら夢じゃなかったらしい。
おかげでアンネは、ふとしたときにちらつく顔に、なんとも言えない衝動が込み上げてくるようになってしまった。
「アンネ、言いにくいかもしれないが、無理やり
「なっ――違う! 無理やりもなにも、されてないから!」
「うんうん。いいんだよ、隠さなくて。じいじに言ってごらん。隠居してしまったけれど、まだそれなりに使える権力は残っているからね。もし無理やりなら、貴族だろうと懲らしめてやれるよ。どこの馬鹿息子だい?」
皇帝の馬鹿息子だ、とはもちろん言えない。そもそも、本当に何もなかった。ちょっと求婚されて、ちょっと膝枕をして、そしてあれが夢じゃないなら、ちょっと額にキスされただけである。
(あれ、これって何もされてないのか……?)
だんだん疑問に思えてきた。いや、でも、オスヴァルトがアンネに求婚してきたのは、恋がどうのとは無関係だと知っている。彼が興味を引かれたのは、あくまでエルフリーデだ。アンネじゃない。不思議な力を扱うエルフリーデを、手元に置きたかっただけだろう。
そう思うと、なぜか心は重く沈んだ。
「……大丈夫だよ、じいさん。本当に、何もなかったから」
「アンネ?」
いつもの強気な態度がなくなっていることに、アンネは気づかなかった。
その後は、黙々と雑草を抜いた。無心になれるこの作業は、正直とてもありがたい。ちなみに、いくらエルフリーデの依頼といっても、こういうことに彼女の力は使えない。できないのだ。レナルドもそれを知っているが、彼はあえて依頼を変えたりはしない。
おそらく、マルティナと長い時間を過ごしたいからだろう。
アンネはラストスパートに入った。が、そこで、静かな庭に騒がしい客人が現れる。
「ああ見つけた! こんなところにいたよ、代理人」
「もうっ、探したじゃないか」
現れた二匹の妖精に、アンネは首を傾けた。人型でも、動物型でもない。物語に出てきそうな、アンネの指ほどの大きさの妖精たちだ。羽をばたつかせ、焦らせるようにアンネの人差し指を引っ張ってくる。いったい何事だろう。
「まずは用件を話せ。急になんだ?」
「大変なんだ。とにかく来て」
「僕らのオスヴァルトが大変なんだ」
「はあ?」
つい大きな声が出てしまう。妖精から聞こえた名前に、聞き覚えがありすぎた。ひくりと口角が引きつる。
「これだから愛し子は……」
正直、勘弁してくれと思う。アンネはもう二度と彼に関わりたくない。関われば関わるほど、自分でもよく分からない感情に支配されるから。
だいたい、願いはもう叶えたのだ。アンネがこれ以上何かしてやる義理はない。……はずなのに。
「オスヴァルトが倒れちゃった。毒を盛られたって、人間が話してた」
「それでね、オスヴァルトが『アンネ』って呼んだんだ」
「毒?」
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。額のキスを思い出したときとは、明らかに違う鳴り方だ。
「オスヴァルトが代理人を呼んだ」
「だから来て。早く」
人差し指をさらに強く引っ張られる。アンネは立ち上がった。少し離れたところにいたレナルドが気づく。
「アンネ、どうしたんだい?」
「じいさん、その」
いつになく不安そうな顔をしているアンネに、レナルドは何か気づいたらしい。彼は妖精の眼を持っていない。けれど、さすがマルティナと長年一緒にいるだけあって、察する能力には秀でていた。
「妖精がまた難題を持ってきたのかな。いいよ、行っておいで」
「でも……」
「わしのことなら大丈夫だ。代わりに、今夜は一緒に夕食でもどうだい?」
「っああ、すぐ戻ってくる。待っててくれ」
「気をつけて行っておいで」
レナルドが言う間にも、アンネの背中は遠ざかっていく。小さな背中は、今はもうあんなに大きくなってしまった。「じいじ」とかわいくおねだりしてくれた子は、育ての親のせいで、多少口が悪い。でも、そんなの気にならないくらい、素直で優しい子に育ってくれた。
だから、心配になる。
「あの子があんな顔をするなんて……」
おそらく、本人は気づいていない。血の気が引いていた。あんなに焦った様子でどこかに行ったということは、何かよくないことでも起きたのだろう。たとえばマルティナに何かあったのなら、アンネのあの様子も理解できる。しかし、今マルティナが不在であることを、レナルドは知っていた。
そうなると、考えられる可能性は。
「……まさか。いや、まさかそんな……。でも、そうだとしたら……なんてことだ……っ」
レナルドは両手で顔を覆った。「マルティナ」と愛しい人の名前を呼ぶ。
自分の甘さが、いや、自分たちの甘さが、いずれあの子を傷つけるかもしれない。その未来の可能性に、レナルドは唇を噛み締めた。
「だめだアンネ。おまえは……おまえも、誰とも結ばれてはいけないのに」
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