21st. 複雑な心
アンネは怒っていた。
それはもう、ドスドスと足音を立てるほどには、怒っていた。けれど心にぽつりとできた染みは、怒りのせいじゃない。まるで、一粒の雫が落ちてできた、小さな波紋のように。怒りの中に、違う感情が存在している。
認めたくないアンネは、ぎゅっと強く手を握った。
「別に、悲しくなんてない。あんな奴、大っ嫌いで、どうなろうと構わない」
そのひとり言は、誰が聞いても、自分に言い聞かせているようだった。眉尻が垂れ下がっていることに、アンネは気づかない。
「くそっ、思ったより元気だったじゃないか。心配して損した。いや違う、やっぱり心配なんてしてない」
感情が、汚い物置のようにごちゃごちゃしている。片付けようと思っても、あまりに乱雑なありさまだから、手のつけようがなくて苛々する。
「ああもうっ。なんでわたしがこんなことで悩まなきゃならないんだ⁉︎」
ついに感情が爆発した。叫ばないとやっていられない。ついでにそのせいで、アンネは絶賛迷子中だ。怒りに任せて飛び出したのが、たぶん、いけなかった。
「だいたい、広すぎなんだよここは!」
完全に八つ当たりである。
でも実際、城の敷地は広大だった。地図がほしいくらいに。
「仕方ない、妖精にでも頼むか」
と、そこで。アンネは視界の端に、人影を見つけた。反射的に隠れようかと思ったが、しっかり認識したその人は、木に手をついてうずくまっていた。一目で体調不良が窺える。迷うことなく駆け寄った。
「おい、大丈夫か? 気分でも優れないのか」
うずくまっているのは女性だ。ドレスに身を包んでいる。色んな意味で目が肥えているアンネは、そのドレスの生地がシルクであることに気づいた。高級生地だ。いわば、貴族御用達の。
顔はやや青白く、手先も同じ、青白い。貧血かもしれない。そう思ったアンネは、周りをぱっと見渡した。木々だらけだ。そう都合よく、ガゼボのようなところはないらしい。
「悪いが、寝転がすぞ。応急処置だ。あとで文句を言うなよ」
アンネがそう言うと、女性は意識はあるようで、小さく頷く。
自分が羽織っていた外套を敷き、そこに女性の頭を寝かせた。貧血のときは足を高くしたほうがいいから、アンネは草の上に座ると、自分の膝上に女性の足を置く。欲を言えば、女性にかける毛布が欲しかった。でも、代わりになるものさえ持っていない。
周りに人気はなく、仕方ないので、アンネはその状態で女性の回復を待ってみた。
「――……ありがとう。だいぶよくなったわ」
しばらくすると、女性がそう言って起き上がろうとするので、アンネは待ったをかける。
「起き上がるなら、ゆっくり起きろ。急に起き上がるとまた倒れるぞ」
「まあ、それは大変だわ。ゆっくりね、分かったわ」
女性は、アンネより少し年上に見える。しかしアンネの態度に怒るわけでもなく、すんなりと受け入れている。
綿毛のようにふわふわとした灰白色の髪で、おっとりとした印象だ。世間の荒波など知らない、深窓のお姫様。それが、ぴったりと当てはまるような人だった。
本当に回復したらしく、顔には血の気が戻っている。
「もう良さそうだな。気分は?」
「大丈夫よ。あなたのおかげだわ。対応が慣れていたけど、もしかしてあなた、宮廷医?」
「いや、わたしもまあ、経験があるだけだ。医者ではない」
「そうなの。ねぇ、よかったらお名前を教えていただける? わたくし、ちょうど気分転換がしたかったの。ここにもそのために来たのよ。せっかくだから、お話相手になってくださらない?」
「でも、わたしは今から帰るところで……」
「少しくらい大丈夫よ。ね、お願い」
うるっとした瞳で見つめられて、アンネは言葉に窮した。実はアンネは、基本的に押しに弱い。尊大な態度をとるけれど、それはエルフリーデとして、相手になめられないためにだ。だから、オスヴァルトの願いも、結局は押しに負けたと言ってもいい。
自分では気づいていない弱点をつかれ、アンネはたじろいだ。見た目に反して、どうやら女性のほうは強引なところがあるらしい。
「この先にね、わたくしのお気に入りの場所があるの。小さな噴水がかわいいのよ。そこに行くときは、侍女も護衛もつけないの。だから、安心して?」
にこ、と人懐こい笑顔を向けられる。けれどアンネは気がついた。この女性が、見た目ほどおっとりしているわけではないことを。
――"だから、安心して?"
つまりこの女性は、アンネが
「……わたしが言うのもなんだが、もうちょっと警戒心を持ったほうがいいんじゃないか」
「ふふ、大丈夫よ。だってわたくしには、あなたが悪い人には見えないもの。悪い人なら、さっきは助けてくれなかったでしょう?」
返事に困っていると、女性が微笑みながら続ける。
「なによりも、わたくしがあなたのことを気に入ったの。だってこんな珍妙な子、初めてなんだもの」
アンネは引きつる頬を抑えられなかった。アンネとしても、ここまで正直な人間は初めてだ。邪気がないとか、そういう問題はとうに越えているような気がする。
「実はわたくし、お友達が少ないの。夫も子供も、誰も遊んでくれないのよ。だから寂しくて」
「え? 夫に、子供?」
――って言ったか、今?
思わず目を瞬いた。次いで、女性の顔を凝視した。失礼なのは分かっている。それでも、じっと見つめずにはいられなかった。
これも失礼だが、とても子持ち妻とは思えない見た目だ。
「夫と子供って、夫と子供、か……?」
「夫は夫で、子供は子供よ。二人とも、わたくしを仲間外れにして、二人で仲良くやっているの。酷いわよね」
確かに酷いのかもしれないが、そんなことより女性の年齢が不詳すぎて困惑する。
「だからね、二人の代わりに、あなたがわたくしの相手をして。そうしたら見逃してあげるわ」
「うっ……ここでそれを持ち出すのか」
「うふふ。使えるものは使わないと」
やはり、彼女はいい性格をしている。
苦い顔をするアンネを見ても、彼女の笑みは消えなかった。むしろ、新しいおもちゃをもらった子供のように、目をきらきらと輝かせていた。
「わたくしはグレース。グレース・モルガンよ。あなたは?」
「……アンネ」
「ではアンネ、こちらに来て」
こうしてアンネは、貴族の暇つぶしに付き合わされることになったのだった。
*
あれからアンネは、〈妖精の庭〉ではなく、約束通りレナルドの屋敷に戻っていた。厳密に言えば、レナルドの初恋の人の屋敷だ。今は彼が一人で住んでいる。
といっても、通いの使用人はいるらしく、アンネが屋敷に着いたとき、おいしそうな匂いが鼻をくすぐった。ちょうど夕食ができあがったのだろう。疲れた身体は、すでに空腹を訴えている。
「いらっしゃいアンネ。今日はおまえの好きなものを揃えさせたからね」
「……かぼちゃのスープも?」
「もちろんだとも」
温かい笑顔で出迎えてくれたレナルドに、アンネは心が安らぐのを感じる。たった一日で、色々と疲れてしまった。おもに心が。
いつもの食堂で、いつもは三人で囲っていた夕食を、今日は二人で囲う。レナルドとのこの時間は、月に二回ほどある。毎回穏やかな会話が繰り広げられ、アンネはその時間が好きだった。
けど今日は、会話が耳に入ってこない。完全に上の空だ。自分でも気づかないうちに、大きなため息が出ていた。さっきから二人の人間に、頭の中を占拠されている。
一人は分かる。グレースは、アンネに無茶を振ってきた人物だ。また会いたいと涙目で訴えられた。なんとか逃げたが、悩むのも仕方ない。
けれど、もう一人は。
(なんで、まだあいつが出てくるんだ)
漆黒の髪に、夜空のように深い青の瞳。冷たい印象を人に与えるけれど、その声は月夜のように優しく穏やかだ。
今までは、本当にあの残虐帝の息子かと疑うほど、冷たいところは見なかった。でも今日は、初めてそれを感じさせられたほど、氷点下の眼差しを向けられた。
前と今で、態度が変わった。違うのは。
(前はわたしに、願いを叶えてもらわなければならなかった。でも今は、それももう終わった)
だから、用なしとばかりに切り捨てられたのか。じゃあ今日のオスヴァルトこそ、本当の彼なのか。
(あいつのくせに、なんでこんな、わたしが傷つ――)
カンッ。ローストビーフを切るナイフが、皿にあたった。
(……待て、ちょっと待て。わたしはもしかして、傷ついてるのか……?)
その事実に、ようやく気づく。もしかしなくても、アンネは傷ついていた。オスヴァルトの、急変した態度に。
嘘だろ、と頭の中はさらに困惑する。
「アンネ? さっきからどうしたんだい。何か悩み事でもあるのかい?」
「べ、別に悩みなんか」
「そんなわけないだろう。帰ってきてから、心ここにあらずだよ。話してごらん。わしでよければ聞くよ」
子供の頃から変わらない温かい眼差しに、アンネは無性に甘えたくなる。昔から、この老人はアンネを甘やかすのが上手だった。マルティナに甘やかしすぎだと怒られても、その態度は今日まで変わっていない。
だからアンネも、安心して甘えられる。
「じ、じいさんは、その、今までは普通だったのに、急に冷たくされたことは、あるか?」
「急に? 態度が変わったということかな? そうだねぇ……うん、あるよ」
「あるのか⁉︎」
「あるよ。あるから、ちょっと落ち着こうね。あまり前のめりになると、服や髪にソースがついてしまうよ」
「あ、ああ」
これは恥ずかしい。ちゃんと座り直した。
「話を戻そうかね。それで、それがどうしたんだい?」
「た、たとえばだぞ? たとえば、そのとき、か、悲しいって思ったり、傷ついたりするのは、普通のこと、なのか?」
「急に冷たくされて、悲しくなったり傷つくのは、普通のことかって? うーん、なるほど。誰だい、アンネにそんな思いをさせたのは」
「ちがっ、今はわたしのことじゃなくてっ」
「はいはい、分かってるよ」
一生懸命誤魔化そうとするアンネに、レナルドは苦笑した。こんなアンネを見るのは、この十年で初めてのことだ。マルティナが幼かったアンネをどこからか連れてきて、もう、それほどの月日が流れた。
「そうだね。そのときは、悲しくて、心が引き裂かれそうなほど痛くて、どうしてって思ったよ」
「! じゃあ、こう思うのは、別に普通ってことか?」
レナルドは首を横に振る。彼がそうされたのは、マルティナだった。
「わしの場合は、相手が大切な人だったからだ。大切な人だったからこそ、前兆もなく突き放されて、酷く傷ついたんだよ。相手に嫌われたくないと、そう思っていたからね」
「嫌われたくない……」
「何も思ってない人間に突き放されたところで、わしは痛くも痒くもないからねぇ」
「そういうものか?」
「わしはね」
アンネは黙り込む。レナルドに言われたことを、真剣に考える。確かに、たとえばフィンに突き放されたところで、アンネは別に自分が傷つくとは思えなかった。けどマルティナやレナルド、〈妖精の庭〉のみんなにされれば傷つくだろうとは、簡単に予想できる。彼らはアンネにとって、大切な人間だ。
(じゃあ、つまり、あいつのことも?)
自分は、大切に思っているのだろうか。だから心が痛くて、悲しいと思ってしまったのだろうか。
(そんな、わけ……)
気づいた感情に、なぜか無性に泣きたくなった。
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