9th. 暴きたいもの


 執務室に戻ったオスヴァルトは、自分用の椅子に深く腰かけると、静かに目を瞑った。


「残すは、指輪か……」


 吐息とともにこぼれた声は、どこか疲労の色が滲んでいる。もう何日、まともに寝ていないだろう。監視を欺きながらの日々は、知らぬ間に疲れを蓄積させていたらしい。

 

「殿下、どうぞ」

「ああ」


 フィンの淹れてくれた紅茶が湯気を立てる。すっきりとした香りが鼻腔を抜け、手から伝わる温もりに心がほっとした。一口、飲み下す。喉を通って、温もりが体に沁みわたる。


「お疲れですね」

「仕方ない。こうなることを分かっていて選んだ道だ。大変なのは、むしろこれからだろう」

「お供いたします」


 どこまでも生真面目に応えるフィンに、オスヴァルトは苦笑する。

 子供の頃から仕えてくれているフィンは、オスヴァルトにとって兄のような存在だ。今年三十を越えたはずだが、彼はまだ結婚していない。全ては、オスヴァルトの謀に付き合わせているせいで。


「ひと段落ついたら、おまえの婚約者を見繕わないとな」

「私よりも殿下です。全てが終われば、あなたは自由なのですから」

「自由、か」


 カップを置いた。なかの紅茶が揺れている。見つめているのは、自分でも分からない何か。凄惨な過去か、不透明な未来か。

 そのとき、ふと、浮かんだ顔がある。


「アンネは怒っていたか?」

「エルフリーデ殿ですか?」


 突然出てきた名前に、フィンはどうしてそんなことを訊くのかと、不思議に思いながら答えた。


「彼女は常に何かに怒っているような気がしますが」

「怒らせているのは私だ」

「いえ、あれは殿下のせいではないでしょう。元からの性格ではないかと」

「まあいい。それよりも、私がキスしたことに、怒っていなかったか?」


 これには虚をつかれて、フィンは目を丸くする。なぜオスヴァルトがそんなことを気にするのか。

 彼は皇太子だ。しかも誰もが認める美形である。むしろ、そんな彼からの触れ合いは、喜びこそすれ、怒るなんてとんでもない。と、フィンは思っている。

 だから、勘違いしないよう、わざわざ彼女に忠告したのだ。


「申し訳ございません。私もすぐにあの場を離れましたので」

「いや、いい。ただ少し、気になっただけだ」

「……殿下、ひとつだけ、よろしいでしょうか」

「ん?」


 フィンには不思議なことがあった。それは、そもそもの前提、どうしてオスヴァルトがキスなんかしたのかということ。

 彼を色狂い皇子たらしめる、側室の存在。オスヴァルト自身も、ある目的のため、噂を積極的に否定しない。積極的に肯定もしてこなかったが。

 その側室たちに対してすら、彼は指一本触れていない。驚くことに、たまに向こうから迫ってくるときもあったが、それでもオスヴァルトは、やはり一度として触れることはなかった。

 だというのに、彼女には違った。彼女――アンネには、こめかみとはいえキスまでしている。

 そんな主に、どうして側近フィンが危機感を覚えずにいられるだろう。


「恐れながら殿下は、エルフリーデ殿をどのようにお思いで?」

「アンネを?」

「はい。あの場面で、殿下ならキスなどせずとも、上手く切り抜けられたのではないかと私は思っております」

「つまり、他の方法があったのに、なぜキスという手段を取ったのか、と?」


 はい、とフィンが頷く。キスなんかして、勘違いされるほうが煩わしいはずだ。良くも悪くも、彼は自分を客観視できる。自分の魅力を分かっていないはずはないのだから。


「さてな。私にも分からない」

「え?」

「気づいたらアンネの顔がそこにあった。あの紫の瞳に、吸い込まれるような感覚がした」


 それは、フィンも予想外の答え。そしてオスヴァルト自身、不可解な感覚。

 けど思えば、初めて彼女を見たときから、オスヴァルトはその感覚に陥っていた。白金色の髪を波立たせ、透き通るほど綺麗な紫の瞳を、この目で見たときから。その瞳に宿る意思の強さに、なぜか目が離せなかった。

 綺麗なだけの人間なら、オスヴァルトはたくさん知っている。気が強そうなだけの人間なら、オスヴァルトはたくさん見ている。でもそうじゃない。彼女の強さは、美しさは、単体ではない。

 彼女の内面こころの強さが表にも滲み出て、彼女を美しく彩っているのだ。

 

「あの瞳を見て、おまえは何を思った? フィン」


 紫の、、、瞳を見て。

 決して、綺麗なだけではない瞳。その色は、リンテルン王国では重要な意味を持つ。

 答えを言い淀んだフィンに、オスヴァルトは小さく息をついた。ここで言い淀むということは、フィンも同じことを思ったに違いない。


「では、私が言葉にしよう。彼女はおそらく、どこかの貴族の落胤だ」


 フィンが息を呑む気配が伝わってきた。可能性として考えていたことを、他でもないオスヴァルトが言葉にしたことで、現実味が出たからだろう。

 このエルディネラ帝国においては、あまり意味を成さない紫の瞳。しかし北にあるリンテルンでは、わけが違った。

 それは、高貴な血を継いでいる証だ。


「元は、王族の瞳らしいな」

「そのようですね。それが、王女たちの降嫁により、貴族の中にも紛れたと聞き及んでおります」

「そうだ。確か何世紀か前の王家――アルテアン家だったか。そのときには、王家全員が紫眼だったらしい。もう薄れてしまったようだが、それでも、紫眼は今でもリンテルンの貴族にとって意味のあるものだ」

「エルフリーデ殿は、リンテルン出身でしたね」

「母と子の二人で生きてきたと、報告書にはあった。父の存在については分からなかったらしい」

「調べますか?」


 逡巡する。調べれば、おそらく予想と違わない結果を得られるだろう。彼女は自分が北国出身だとバレても、紫眼については何も言わなかった。もしかしたら、彼女自身は父親について何も聞かされていないのかもしれない。それを勝手に暴いてもいいものか、逡巡する。

 ――"調べたというのは、どこまで?"

 頭に蘇った声は、どこか緊張を孕んでいた。何かを恐れてもいるような。


「そうだな、調べてくれ。ただし誰にもバレないように」

「かしこまりました」


 フィンが恭しくこうべを垂れる。


(こんなことをするから、余計に嫌われるのかもしれないな)


 今だって、どう前向きに考えても、面倒な依頼人としか思われていないのに。そこに加えて、勝手に彼女の素性を暴こうとしている。

 ――なぜ、暴こうとしている?

 一瞬だけ浮かんだ疑問は、すぐに放棄した。考えても答えが出なさそうだと、なんとなく感じたからだ。

 それに、彼女については、もうひとつ疑問がある。


「"エルフリーデ"とは、何者なんだろうな」

「え?」

「どうやら妖精の眼を持っていても、できるのは妖精との等価交換こうしょうだけらしい」

「そうなんですか?」


 フィンが初めて知ったという声を上げる。オスヴァルトも、最初は彼女が瞳持ちだから、あんな人間離れした力を使えるのだと思っていた。

 けれど、どうやら違うらしい。


「今朝届いた手紙の中に、そう書かれていた」

「手紙? どなたからのですか」

「教皇だ」

「!」


 オスヴァルトは簡単に言ったが、それはなかなか危ない橋を渡ったといえる。教皇と皇帝の仲の悪さは、庶民も知るところだ。

 そして、表向きは皇帝に従っているオスヴァルトも、教皇にはあまりいい顔をされていない。むしろ、オスヴァルトからの手紙に、教皇が返事をしたためたことに驚愕である。


「むろん、私の名前は使っていない。色んな人間の手を経由している。聞いたことも、瞳の所持者についての一般論で、興味を持った市井の子供を装った。が、あの方のことだ。気づいてはいるだろう」

「なんて危ないことを……! 陛下に勘付かれでもしたらっ」


 今までの苦労が、全て水の泡となる。

 今までたくさんのものを犠牲にして、己のことさえも犠牲にしてきたオスヴァルトだ。まだ夢半ばだというのに、そんなことのために、全てを台無しにだけはしてほしくない。


「慌てるな。陛下には気づかれていない。もちろん、あの人、、、にも」

「そういう問題ではありません。とにかくエルフリーデ殿については、そこまで深く調べる必要性はないかと。素性さえ怪しくなければ問題はないと存じます」


 強く言い張る側近に、オスヴァルトは苦笑に近いため息を吐いた。確かに、フィンの言うとおりだ。

 

「でも、気になるんだ」

「殿下」

「彼女はどうして、憎いと言った皇族私たちを殺さないのだろう? あんな力があるのに」

「殿下!」

「おまえも、本当は不思議なんじゃないのか?」

「それは……」

「だから、素性だけは調べようとしてくれる」

「そうです。万が一を考え、素性を調べておくに越したことはありません。ですが、それまでです。エルフリーデ殿はあなたが興味を持たなくてもいい人間です」


 むしろ、興味を持つべきではないと。


「殿下は、彼女が物珍しいから興味を持たれたようですが、かような者に心を砕いてはなりません。力は災いの元。手元に置けば、必ず目をつけられます。だからこそ、殿下も今は従順なふりをしていらっしゃるのでしょう?」


 問われて、オスヴァルトはうんともすんとも言わなかった。

 でも、フィンの言っていることは正しい。従順なふりをしている。皇帝の、命令するがまま。警戒心の強い皇帝は、自分の子供さえ信用しない。だからオスヴァルトに未婚のまま、側室なんてものを作らせた。事実無根の噂を流布し、息子が力を持たないように。


「おまえの言うとおりだ、フィン」


 その言葉に、フィンは「では」と期待の眼差しを向ける。

 けれどすぐに、その期待は裏切られた。主の、夜空のように静かな瞳に。そこに迷いは見受けられない。


「それでも私は、彼女の真実が知りたい。どうして憎しみを持ちながら、殺さないでいられるのかを」


 いっそ憎しみのまま、オスヴァルトに殺意を持ってくれれば、ここまで彼女に興味なんて持たなかった。

 彼女が育った町ツェルツェに攻め入ったときのことは、よく覚えている。皇帝に出し抜かれ、自分が前線に立つ前に、自軍はすでに容赦なく町を焼いていた。女も子供も関係なく。オスヴァルトが到着したときには、もう、どうにもならない状況だった。

 おそらく、戦を仕掛ける先々で、ルールに則った戦い方しかしない息子に、皇帝が焦れた結果だろう。戦とは、好き勝手に民を巻き込むものではない。

 綺麗事だと、戦に巻き込まれた人間は言う。その通りだ。けれど、その綺麗事すら忘れてしまえば、自分は父帝と同じ人間に成り下がる。それだけはオスヴァルトの矜持が許さなかった。反抗できるものならとっくにしていた。むしろそれが、オスヴァルトにできる小さな反抗だった。

 けれど、周りはそんなオスヴァルトを知らない。知ったとしても、憎しみの前にはどうでもいいと吐き捨てるだろう。いったいどれほど大勢の、そんな殺意に狙われてきたことか。

 オスヴァルトの身体には、そうしてできた傷がたくさんある。


「彼女のような人は、初めてなんだ」


 それは、懇願にも似た声音で。

 いつだってオスヴァルトは、己の願いを殺してきた。殺さざる、を得なかった。


「殿下……」

「安心しろ。私だって、殺されたいわけじゃない」

「もちろんです。殿下は、この国になくてはならないお方です」

「……おまえは、全てが終われば、私は自由になると言ったな?」

「はい。彼の方から解放されます。あなたの思うまま、行動できるようになるでしょう」

「確かにそうだろう。父の呪縛からは解放される。けれど、それで本当に私は自由なのだろうか」

「殿下?」

「自由と聞いて、私はアンネを思い浮かべた」


 どこまでも不遜な、あの少女を。

 なぜ? とフィンが怪訝そうに眉根を寄せる。そんな側近を見て、オスヴァルトは小さく微笑んだ。


「彼女ほど、自分の感情に素直な人間はいないだろう?」


 それこそが、オスヴァルトの考える"自由"だったから。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る