28th. 意地っ張り
――オスヴァルト‼︎
焦る声。伸ばされる手。抱きとめられた、その温もりが。
偽りでなければいいと、オスヴァルトは目を閉じた。
「……から、……ないって……」
「それはこ……ので、あな……、……さい」
誰かの言い合う声に、オスヴァルトの意識がゆっくりと浮上する。ぼんやりとする頭を、なんとか働かせた。
確か頭を冷やすため、噴水のある場所へと向かっていたはずだ。そこは昔、母が教えてくれた秘密の場所である。
けど、その途中から記憶がない。あまりの寝不足に倒れてしまったのだろう。寝起きの頭でそう分析できるほど、ここ最近はまともに寝た記憶がなかった。
でもおかげで、いい夢も見られた。アンネが自分を心配して、分け目もふらずに駆け寄ってくれた夢だ。そのとき感じた匂いは、偽物とは違う、仄かな薔薇の香りだった。
「いい加減にしろっ。さっきからなんなんだおまえは! 人を偽物呼ばわりした挙句、殺人者にもする気か⁉︎」
「殺人未遂の容疑者です」
「どっちも同じだろうが!」
だんだんはっきり聞こえてきた声に、オスヴァルトは無意識に口を開く。
「アン、ネ?」
その瞬間、ぴたりと言い争う声が止まった。聞こえなくなった声に不安を覚えて、もう一度呼ぶ。
「アンネ」
「なんだ、ちゃんとここにいるよ」
意外にも優しい声音が落ちてきて、オスヴァルトは一瞬、偽物を疑う。
けど、起きようとする自分を寝かせるためか、アンネが肩を押した。そのとき掠めた匂いが、本物と同じで。
「ほらみろ、おまえのせいで起きたじゃないか。おまえが出て――」
考えるより早く、その華奢な身体を抱き寄せた。
「ちょ、なに」
「アンネ、私の妻になってくれ」
「いきなりだな⁉︎ そして却下だ!」
全力で断られたのに、オスヴァルトの口端は意図せず緩む。いっそう腕に力を込めて、アンネが逃げないよう搦めとる。
「おい、本当になんなんだ! 寝不足で倒れた奴が、なんでこんな強いんだ⁉︎」
必死に逃れようとしても、オスヴァルトの拘束は
そんな、今までと違う主の様子を見たフィンは、久々に顔を青ざめさせた。
「で、殿下、まさかその人、本物なんですか?」
「ああ」
オスヴァルトが短く答える。けどその声音は、どこか嬉しそうだった。
「だから本物とか偽物とか、意味が分からん。わたしは一人しか――ってちょっと待て。おまえこれ……」
何かを確かめるように、アンネもオスヴァルトの背中に手を回す。まるで抱きしめ返しているようだ。
が、実際はオスヴァルトに
それを知らないオスヴァルトの心は、喜びに震えた。今までアンネから抱きしめ返されたことはない。背中に回る小さな手が、これほど嬉しいものだとは思わなかった。
「っぐ、ちょ、なんかさっきより、力がっ」
「アンネ……」
とろりと甘い声で名前を呼ばれて、途端、顔が発熱する。口をパクパクと開けて、文句を言いたいのに、出てこない。恥ずかしさに言葉を失ったのだ。フィンも色んな意味で言葉を失っていた。
そんな二人に構うことなく、オスヴァルトはするりとアンネの頬を撫でる。
「ああ、やはり本物は違う。あなたが一番落ち着く。あなたが一番欲しい。……せっかく逃したのに、戻ってきたのはあなただからな、アンネ」
「〜〜っ」
わけが分からず、アンネはとにかく羞恥に悶えた。甘い空気が耐えられない。赤裸々な告白が耐えられない。なんでいきなり、こんな状況になったのか。自分はただ、倒れたオスヴァルトを見捨てられなかっただけなのに。
――毒を盛られている。
そう思った。囁かれる耳から、触れる肌から、脳を麻痺させる毒が、じんわりと染み込んでいく。
オスヴァルトの態度に傷ついたはずなのに、怒っていたはずなのに、その全てがどうでもよくなっていく。思わず彼の温もりに従順になってしまいそうだ。でも、
「アンネ、私の妻になってくれ」
繰り返された言葉に、アンネは夢から覚めた。
「……妻、だと? ふざけるな! わたしはな、おまえに怒ってるんだ。突き放したくせに今さらなんだ? 二度と来るなと言ったのはおまえじゃないか。だからわたしも、二度とおまえに会うつもりはなかったんだ! ここには別の依頼で……だいたい、わたしがどれほど傷ついたか、おまえは知らないくせにっ」
一気に捲し立てる。余計なことも言ってしまった気がしたが、そんなことはどうでもよかった。早くこの温もりから逃げなければ、身を預けてしまいそうだ。まさか人の腕の中が、こんなにも心地いいなんて知らなかった。
「わたしはおまえなんか――」
「アンネ、泣いているのか?」
かすかに目を瞠ったオスヴァルトに、無理やり顔を上向かせられる。あまり表情が変わらない彼の、珍しい変化だ。ぼんやりとそれを眺めていたけれど、言われた意味を理解して、今度はアンネが目を見開いた。
気づいていなかったのだ。自分の目から零れ落ちた、透明な液体に。
沈黙が落ちる。しばらく二人は見つめ合っていた。アンネは自分が泣いていることが信じられなくて、いつのまにか怒りも飛んでいた。
「すまない。まさか泣くほど傷つけていたなんて」
そっと目元を拭われる。事実を言葉にされて、アンネの羞恥心が再燃する。
「ち、違う! 別にこれは、傷ついて泣いたわけじゃ……っ」
「だが、私のせいだろう?」
「これはその、あれだ、息が、息が苦しくて出た涙だ! だから離せっ」
「なら、それもやはり私のせいだ」
「あーもうそういうことでいいからとにかく離せ!」
アンネは耳まで真っ赤だった。その原因が自分にある。そう思うだけで、オスヴァルトは胸に沸き上がる感情を抑えるのに苦労した。支配欲。独占欲。汚いこの欲で、彼女を汚してしまいたい。誰にも持っていかれないように。
自然とそう考えてしまった自分に、オスヴァルトは驚いた。その拍子に隙ができる。アンネは必死の思いで彼の腕から抜け出した。
「まったく、油断も隙もないな」
「油断も隙もないのはあなたのほうです、エルフリーデ殿」
「は?」
逃げた先に待ち構えていたのは、フィンである。寝不足で倒れたはずのオスヴァルトより、その顔色は蒼白だ。口元は痙攣したようにひくついていた。
「あなた、いつのまに殿下に取り入ったんですか」
「取り……?」
「いつのまに、殿下に抱きしめられて頬を染めるようになったんですか!」
「な、染めてない!」
反射的に叫ぶ。とんだ言いがかりだ。誰がそんな、恋する乙女みたいな反応をするものか。
(え……恋……?)
ぱっと浮かんだその単語に、アンネの思考は奪われる。恋ってなんだ、と口を開けて固まった。
恋ってあれか、偶然街で見かけた、他人の目を気にせず甘々な空気を醸し出す、目に毒な男女のことか。
(いやいやいや。ない。それは絶対にない。あんな直視できないほどきらきらしたもの、わたしは持ち合わせてなんかない)
だって、オスヴァルトのことを思うとき、アンネの中に生まれるのは決して輝かしい感情じゃない。それは少しの痛みと、苦みを、アンネに味わわせる。あんなに幸せそうに微笑む自分なんて、全く想像できなかった。
(うん、だから恋じゃない。この不可解な感情は、恋以外のものだ)
本当はその答えが知りたいのに、教えてくれそうなマルティナはまだ戻らない。
「アンネ、訊いていいか?」
「え? あ、はい」
混乱していたアンネは、なぜか敬語で応えていた。オスヴァルトの雰囲気がどこか真剣味を帯びていたことも、その一因かもしれない。
「ふと気になったんだが。さっき、別の依頼であなたはここにいると言ったな。それは誰のために?」
「? そんなこと聞いてどうする」
「いいから答えてくれ」
少し強めの彼の言葉に、アンネはなぜかムッとした。自分でもどうして苛立ったのか、よく分からない。
けれど、偽物の指輪のことだったり、彼はアンネにたくさんの隠し事をしている。対して彼のほうは、アンネのことを聞き出そうとするなんて、なんだか理不尽だと思ったのだ。
グレースからは、別に秘密にしてほしいとは言われていないけれど。
「断る。わたしにだって守秘義務がある。秘密だ」
「……人間の男か?」
「さあな。とにかく思ったより元気そうだし、わたしはもう行く。二度と来るなと言われていたし」
最後のは嫌味ったらしく吐き捨てて、アンネはさっさと出口に向かった。その背中をオスヴァルトは追いかけようとしたけれど、アンネが扉のところで急に振り返ったために、動きが止まる。
「一つだけ、もう一度忠告する。わたしは、負けず嫌いなんだからな!」
「え?」
呆気にとられたオスヴァルトを放って、アンネは「ふんっ」と再び歩き出した。
後に残されたのは、どうしてそんなことを忠告されたのか分からない、朴念仁共だけだった。
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