決別・11


 ラウルの告白は、最悪の結末を迎えた。

 彼は、すぐにエリザの後を追おうとした。だが、そのままバランスを崩し、床に倒れてしまった。

 長い時間、手と片足で体を支えて立っていた。杖を持っていなかった。

 あまりに慌ててしまい、そのことを忘れていたのだ。

 ラウルは、まず床を這いずって、松葉杖を手にしなければならなかった。

 一本手に入れて、立ち上がった時、もう一本が差し出された。

 ジュエルが取ってくれたのだ。

 たとえ人間であるとしても、恐るべき存在であるとしても、ラウルはジュエルを好きになっていた。

 昔は、あれほど恐れたのに、長く一緒に過ごすと愛情がわいてくるものだ。

「ありがとう、ジュエル。留守番を頼むよ」

 そう言って、ラウルはジュエルの頭を撫でると、松葉杖の足で走り出した。


 外に出てみると、既にエリザの姿はない。

 白い陶器の壁が、妖しく月明かりに浮かび上がっているだけで、人の気配がない。白い壁に、静かに……だが、激しく流れる雲の影が虹色に映るだけだ。

 家の前の広場を抜けてしまうと、どの小路に走り去ったのか、あしあとすらなく、感じる気もない。

 エリザが行きそうなところ。

 ラウルには、ただ一カ所しか思い当たらなかった。

 だが、残念ながら外れてしまった。

「エリザ? 来ていないけれど……」

 ララァの返事に、ラウルはガックリと肩を落とした。

「そう……」

 夏の終わり、秋にさしかかり、雨が降り出していた。早く見つけてあげたかった。

 だが、ラウルの足では、探すのに限度があった。

 ロロが祈り所を探しに行ってくれ、ロンがその他の行きそうな場所を探してくれた。

「どうしちゃったの? あんなに仲がよかったのに。喧嘩するなんて」

 ララァが、温かい薬湯を入れてくれた。

 ラウルは、濡れた髪にタオルを掛けたまま、ため息をついた。

「実は……僕が悪いんだ。こういう大事な話を、一気にしてしまうなんて……」


 ――いや。

 ラウルはわかっていた。

 最初から、エリザはこの話に反対するだろうと。

 だから、なかなか言えなかった。


 ラウルの話をララァは真剣に聞いていた。そして一言。

「いい話だと思う」

 もちろん、ムテにとって勇気のいる決断だ。

 だが、採石師として誇りを持って仕事をしていた弟が、もう二度と行けない山の頂上を見上げながら、日々を重ねたいと思うだろうか?

 挑んで破れた屈辱を抱いて、それでも明るく振舞ってきたラウルは、本当に今までがんばってきたと思う。

「大丈夫よ。エリザは、きっとラウルの気持ちをわかってくれる。そして、一緒に、どこにでもついてきてくれるよ。安心して」

 姉のララァは、いつも楽天的なのだ。

 ラウルは、残念ながら、そこまで確信が持てなかった。


 唇を重ねてしまえば、わかってしまう。

 ――エリザの心には、別の人が住んでいる。




 ぽつぽつと雨音……。

 それにまぎれたノックの音。

「うーん……。リールベール。もう祈りの時間ですか?」

 サリサは、目をこすりこすり起き上がった。

「いいえ、まだ夜中ですけれど、ちょっと事件が……」

 話を聞いて、サリサの目はぱっちりと開いた。


 昔から興奮すると、何をやらかすかわからない人だと思っていたが……。


 この雨の夜、薄着で霊山を目指すなんて、何を考えているのだろう。

 しかも、開きっこない門の扉の下で、うずくまっているなんて。

 この夜、門の番の係が、書類の仕え人で本当についていた。そうでなければ、エリザは雨の中、凍え死んでいたかも知れない。

 サリサが慌ててやってきた時には、門番用の小さな小屋の中で、毛布にくるまって震えいていた。

「あなたっていう人は……」

 さすがのサリサも、あきれて一言目がこれだった。

 エリザは、ぐすぐす泣くばかりで、何も言葉がなかった。


 四人もいれば狭苦しい場所である。

 だが、仕事上退席するわけにも行かず、二人の仕え人は背後に立ったままだった。

 火鉢と薬湯のポットがあれば、ますます部屋は狭かった。

「いったいどうしたのです? 言ってごらんなさい」

 毛布の上からきゅっと抱きしめて、サリサは優しい声で聞いた。

 仕え人たちは、正直あきれていたのだが、最高神官のやることである。黙っていた。

「……ラウルなんか……大嫌い」

 やっと出てきた言葉は、これだった。

「痴話喧嘩ですか」

「静かに」

 思わず書類の仕え人が呟いた言葉を、リールベールがたしなめた。

 その言葉を聞かなかったのか、エリザは泣きじゃくりながら、ぽつぽつ話し始めた。

「ジュエルのこと、ひどく言うの……。ムテじゃないって……」

 サリサを含めて、皆、ぎくりとした。

 ラウルがその情報をどこで仕入れたかはわからないが、本当のことである。

 思わず仕え人二人は、チャンスとばかりに「そうです、そうです」と、心の中でサリサをけしかけた。

 ところが、サリサのほうは『嫌い』のリストに名を連ねたくないばかりに、嘘をつくのだ。

「それは……ひどいですね」

「それに、へんな人が、ラウルをエーデムにさらって行こうとしているの。ラウルは、おかしくなっちゃったのよ」

 仕え人二人は、シビルの手紙を知っていた。だから「へんな人ではありません、へんな人ではありません」と、心の中でサリサをけしかけた。

 ところが、それ以上エリザを興奮させたくないサリサときたら、とぼけるのだ。

「それは……心配ですね」

 仕え人二人は、顎が落ちそうなくらいにあきれ果てていた。


 家を飛び出したエリザは、サリサのもとしか行くあてがなかった。

 ララァに、ジュエルのことを相談したことがない。祈り所の闇は嫌い。だから、ただ、まっすぐに霊山への道を目指し、サリサにジュエルを承認してもらいたかったのだ。

 とはいえ、夜だった。朝、門があくまで待つつもりだった。

 でも、雨が降ってきて……眠くなって……。

 気がついたら、仕え人に頬を叩かれていた。

「今、サリサ様をお呼びしていますから」

 そう言われて、顔から火が出るくらい恥ずかしかった。


「本当に困った人ですね。門の下で死ぬつもりだったのですか?」

「ごめんなさい……。サリサ様」

「今度はちゃんとバンバン叩いて……」

「……はぁ……?」

「いくら私でも、夜は眠るんですから。ちゃんと起こしてくれないと」

 ばかばかしくて、聞いていられない会話である。

 リールベールが咳払いした。

「こほん! まさか、そのようなお話を朝まで続けているわけではないですよね?」

 その声で、エリザは再び興奮した。

「ああ、そうなんです! このままだと、ラウルは騙されて、きっとジュエルも連れ去られて……」

「そんな馬鹿なこと……」

 リールベールの言葉を、サリサが遮った。

「エリザ、大丈夫です。とりあえず、そのおかしな商人の身元を確認しますから。霊山に呼んで、私が直々確かめますから……。それでどうです? 安心できますか?」

 エーデム貴族の身柄を拘束? エーデムとムテの力関係を考えたら、あまり望ましい話ではない。ましてや相手は礼を尽くしているのに。

「! あの、サリサ様……」

 書類の仕え人が驚いて声をあげたが、サリサはそれも遮った。

「それから、すべて決めてもいいでしょう? どうですか?」

「……そう……ですね……」

 なぜか、エリザの瞼は再び重くなっていった。

 リールベールが入れた薬湯は、眠りを誘う成分が含まれていたのだ。



 散々、エリザを探したのに、見つからない。

 ラウルは、明け方近くに諦めて家に戻った。

 もしかしたら、帰ってきているかも? と、かすかな希望を持ちながら。

 家を開けてくれたのは、エリザではなく、ジュエルだった。

 だが、彼はニコニコしていた。

「母様、帰ってきたよ」

 急いで家に入ると、ベッドの中で眠るエリザの姿を見つけた。

 ほっとして、ラウルはエリザの頬に口づけしようとした。すると、かすかに香り苔の香りがした。

 ふと、エリザの枕元を見ると、小さな香り袋があった。

「あのね、しゃりしゃしゃまが、母様を連れてきたんだよ、本当だよ」

 ジュエルの言葉に、ラウルは思わず硬直してしまった。

 なんと、こんなときでさえ、エリザは最高神官を頼るのだ。

 霊山までの道は、さぞや大変だっただろう。最高神官も、この雨の中、エリザを送って、わざわざここまで来た。

 一の村中、ラウルは必死で人手を借りてまで、エリザを探したというのに。

 ラウルは、香り袋を握りしめた。この安らかな香りが、ラウルを苛つかせる。

 この家に、もっともそぐわないいらない物だ。

 ぎこちない動きで窓に走りより、雨に濡れる窓を開け放った。そして、そこから袋を捨ててしまった。

 ラウルの中で、最後の糸がぷつっ……と切れた。

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