決別・13
エリザが異国のお客様に狼藉を働いた……という事態で、霊山は大騒ぎになった。
リューマ族がエリザを取り押さえようとしたが、彼女は既に意識不明。代わりに、シビルが申し訳なさそうな顔をしていた。
「まさか、素手だなんて。ものすごい迫力だったから、思わず反応しちゃって……。私の結界なんて、普段はなまくらですのに、どうしてこういうときだけ、効くんでしょうね?」
エーデム族の結界は、ムテのそれに比べて強烈だ。剣まで砕く場合もある。
シビルは、エーデム王族の濃い血を持つが、普段はそれほど力が出ないらしい。たまたま、エリザが迫力満点だったので、つい、古代の力が強く働いた。
「シビル様、本当に申し訳ないことを……」
一度は彼を見送ったサリサが、慌てて戻ってきて、取りなした。
その頃、エリザは医師の部屋に運ばれていた。
だが、エリザが目覚めた時、医師はいなかった。シビルに怪我があるかもということで、呼び出されていたのだ。
かわりにその場にいたのは、大きな目をした女性だった。
どこかで見た事がある……と、エリザは思った。それはそうだ。実に、自分によく似た女性だった。
「あら? 気がついた。よかったわね」
女性は美しい微笑みを浮かべた。
「あなた……誰?」
「私は、巫女姫のマヤ。あなたはエリザでしょう?」
こくり……とうなずくと、マヤはまた微笑んだ。
「やっぱり? 私に似ているって言われているから、きっとそうだと思っていたの。きっと、こういう顔がサリサ様の好みなのね」
少しはしゃぐように、マヤは手を叩いた。
エリザは、顔を上げようとしてしかめた。右腕が、全く感覚がないほど痛い。
「どうしたの? 大丈夫?」
マヤは心配そうにエリザを見つめた。
「ええ、大丈夫」
とても大丈夫ではない。骨が折れているのかも知れなかった。
マヤは申し訳なさそうに言った。
「私、癒してあげたいところだけど……。ごめんなさい。一度、流産していて、お腹の子供に障るから、無駄な力を使わないように言われているの」
「……」
「でも、安心したわ。サリサ様は、あなたが心配で、霊山に戻ってきて欲しいと思っていらっしゃるようなの。あなたなら、霊山に戻ってきても、私、仲良くできそう。今は、元巫女姫の仕え人もいないから、出産の時が不安で。手伝っていただけたら、私も安心だわ」
「……」
エリザは、ぼうっとマヤのおしゃべりを聞いていた。
悪意はなさそうだけど、なぜか心にちくちく突き刺さる。
「あ、何だか誰か戻ってくる……。こんな所にいたら、怒られちゃう。それじゃあ、また後で……」
そう言って、微笑みとともにマヤは姿を消した。
マヤの言葉とは裏腹に、しばらく誰もエリザの前には現れなかった。
エリザは、再び意識を失った。
――なぜ、私ここにいるのかしら?
右腕が、ものすごく痛いわ……。
次に気がついた時、エリザの手はサリサの手と繋がっていた。
長い髪の重みに負けて髪飾りが緩んでいた。エリザの角度からは、サリサの表情は見えなかったが、少し物寂しげに感じた。だが、伝わる気は温かだった。
癒しの力が伝わり、あれだけ痛かった右腕がよくなってゆく。
最高神官は、普通、癒しを行わないのに……。
「サリサ様……。ごめんなさい」
エリザは、ぽろぽろ泣きながら謝った。
考えてみれば、とんでもないことをした。エーデムの貴族をはり倒そうとしたのだから。下手をすれば、外交問題である。
だが、サリサは責めることはない。
あなたが悪いなどと、一言も言わず、ただ黙々と腕を癒してくれるのだ。
「どうですか? 動きますか?」
それが、サリサの一言目だった。
「ごめんなさい。私、本当にどうかしていたんです」
「大丈夫ですよ。シビル様も怒っている様子はありませんでしたから。むしろ、お見舞いしたいと……。お断りしましたが」
断るだろう。今のエリザは、何をやらかすのかわからない。
「私……。ラウルに目を覚ましてもらいたくて」
「エリザ。ラウルは、両目を開けています」
そう言うと、サリサは医師の机に向かって何かを書き始めた。
さらさらとしたためた後、懐から印を出し、紙に押した。
エリザは、ベッドに横たわったまま、その気配を感じていたのだが……。
「エリザ。あなたがなぜ来たのか、もうわかっています。ジュエルとあなたが、ムテを出ることを許可します」
その言葉で、思わず飛び起きてしまった。
「……い、嫌です。サリサ様」
ムテ以外の土地で、結界の外で暮らすなんて、絶対に無理だ。
「嫌なら、これは捨てて下さい。そこは、あなたの意思で」
――どうして、だめだと言ってくれないのだろう?
最高神官が許可しなければ、エリザはエーデムに行けない。エリザが行かなければ、ラウルだって押し留まってくれるかも知れないのに。
ムテを離れなくてもすむのに……。
「サリサ様。お願い。ラウルを止めて欲しいんです。霊山の守りの外でなんか、絶対に生きていけない!」
「ラウルは、生きていけます。あなたもジュエルも。でも、行きたくなかったら行く必要はない。ラウル一人で行かせなさい」
「ラウルは、私を捨ててなんか行かないわ!」
「あなたが選ばないと、彼は一人でもいきます」
最後の味方だと思っていた最高神官にまで裏切られて、エリザは泣き出した。
せっかく手に入れた幸せが、ガラガラと音をたてて崩れてしまう。
「どうして? 私の夢が……!」
「ラウルの夢とは違ったのですよ。あなたは、ラウルか夢か、どちらかを選ばなくては……」
「どちらも叶うはずだったわ!」
エリザが叫んだとたん、サリサは天井を仰ぐようにして、小さく息をついた。
「もしも、ラウルを愛しているなら……ついて行ったほうがいい」
そんなはずはない。
エリザの夢は、穏やかで幸せな結婚だった。
ラウルとならば、その夢が叶うと思ったから……。
エリザはベッドから飛び出して、机の紙の承諾書を奪おうとした。
「私は、絶対にムテを離れない! ラウルも行かせない!」
「エリザ!」
破り捨てようとした紙を、今度はサリサが奪い取った。それを、さらにエリザが奪おうとする。
二人はもみ合いになり、紙はくちゃくちゃになった。
最後に、がっちりサリサに両腕を掴まれて、エリザは動けなくなった。
――それって、ムテを出て行け! っていうことじゃない。嫌!
ぽろぽろ泣きながら、サリサを見ると、彼も眉に皺を寄せていた。
「エリザ。幸せになりたいなら、どれもこれも望んじゃいけない」
噛み締めるように、サリサが言った。
もう最高神官のために祈らなくてもいい……と言われたような気がした。
紙を奪えず、泣きながらエリザは叫んでいた。
「サリサ様は、もう私の祈りなんて必要ないの? 私が遠くに行っても、何も気にしてはくれないの? それでいいの?」
サリサは、そのままエリザを抱きしめた。
耳元で振り絞るような声は、やや震えていた。
「遠くに行っても、あなたの幸せを祈ります。たとえ、届かなくても、あなたが祈ってくれると信じます」
「そんなこと!」
祈ったってわからない。声も何も届かない。不安しかない。
死んだ人と同じくらい、遠い存在になって、何も繋がっていない。なのに、最高神官はエリザの望む言葉を言ってはくれないのだ。
「もう……あなたも霊山から自由になりなさい」
その言葉がサリサの口から飛び出して、エリザは心臓が止まるほど衝撃を受けた。
――かつて、ラウルが言っていた言葉。
まさか……最高神官から言われるとは思っても見なかった。
嫌! 絶対に嫌!
エリザは、耳を塞いだ。
最高神官は、ムテの人々すべてに責任を持つべき人だ。心の支えとなるべき人だ。エリザだって、その一人として、彼に頼っていいはずだ。
その人が、そのようなことを言うなんて。
長年信じていたものが、音を立てて崩れてゆく。裏切られた気分だった。
最高神官の支え無しでは、エリザは……いや、ムテ人は誰一人生きていけるはずがない。
それなのに!
「サリサ様は、私を見捨てるの!」
「あなたが霊山を望まなかったのに!」
思わず怒鳴ったら、怒鳴り返された。
震える手でますます硬く抱きしめられて、エリザは痛みを感じた。
そして、押し殺したような声が、耳元で付け足された。
「……私は、あんなに望んだのに……」
その言葉は、まるでエリザを雷で打ったかのようだった。
心は、あっという間に、エリザが山下りを決めたあの日に戻っていた。
あの日、エリザは泣いた。
そして、サリサも……泣いていた。
サリサの側にいるのが辛くて……その後に来る日々が恐くて……邪な気持ちに翻弄されたくなくて……。そして、負担になるのが嫌で……。
懇願するサリサを振り切ったのは、エリザのほうだった。
自分でも信じられないことに、エリザはすっかりその時のやり取りを忘れていた。
なぜか、慰留されたものの、すんなりと山下りを認めてもらえた、と思い込んでいた。
――どうして?
エリザは、すっかり戸惑っていた。
思い出した記憶は、まるで霞がかかっているような曖昧さだった。まるで、夢を現実とはき違えているのでは? と思えるほどに。
だが、サリサのほうは、その日のまま、その夢のような記憶のままだった。まるで神官らしくなく、すがりつくようにエリザを抱きしめていた。
「そこまで私を頼るなら……どうして……」
まるで小さな男の子のよう……。
声には何の力もなく、まるで泣いているかのように、か細かった。
エリザはサリサの抱擁を振りほどいた。
だが、拒否ではなかった。
……口づけ。
唇は言葉を紡ぎ出すところ。
そこに触れれば、一番心が近くなる。
望んでも手に入れられないものを、諦めきれないこと。
それは、心を患うほどに、とても苦しいこと。
エリザは他の人の婚約者であり、サリサは最高神官だ。
だから、このような口づけはありえない。
でも、きっとエリザは望んでいたのだと思う。
サリサと心を通わせて、繋ぎあうことを、欲していたのだと思う。
ずっとずっと……望んでいたのだと思う。
衝動的だった。
エリザは自分の行動にびっくりしてあきれていた。
――馬鹿みたい。
震えながら、エリザはそっと重なった唇を離した。だが、今度はサリサのほうが、エリザの唇を奪った。
唇が熱を持ってお互いを欲するにつれ、先ほどと違う涙が、ぽろぽろと流れるのを止めることができなかった。
いったい、最後の口づけがいつだったのか、二人は思い出せないほど、この感覚を忘れていた。
無理矢理引き裂かれていたものが、やっとある場所に戻っていたような……。
長い口づけが終わったあとも、二人は静かに抱き合っていた。
やはり、エリザの居場所はここしかなかった。
丸く包み込まれるような感覚。温かくて、安心できる場所。
長い夢から覚醒するような気分だった。何かひとつの結論が導き出されたような気がした。
それが通じたのか、サリサが耳元で囁いた。
「霊山に……私のもとに戻ってきてください」
エリザは、うん……と返事をしようとした。
が、急に震えが来た。
――出産の……何を……手伝うの?
先ほどのマヤの言葉を思い出し、ぞっとしたのだ。
急に体の芯に雷が落ちたような衝撃が走り、息が苦しくなった。
――死んでしまう!
最高神官を愛しているなんて……。
そんな邪心なんか、持っていない。
それなのに、なぜ、口づけしてしまったのだろう?
エリザは頭の中でめまぐるしくいいわけを探した。
そして、とんでもない言葉が口から漏れていた。
「……私。こんな調子だから、ラウルに誤解されたんだわ」
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