決別・8
エリザがムテを離れる……。
それは、サリサにとって安らぎになるとも、苦痛になるとも、両方言えた。
マール・ヴェールの祠は、誰にも邪魔されず物思いに耽る事ができる唯一の場所である。
夏の気持ちのよい風を受けながら、サリサは膝を抱えてふさぎ込んでいた。
誰かが見たら、神々しい最高神官には見えないだろう。
かつて、サリサはこのようにして、マサ・メルの厳しい教育に涙したものだった。図体だけは立派な最高神官になったものの、サリサの本質はまったく変わっていない。
傍目に立派に仕事をこなしていても、たまには、弱って泣きたいこともある。
ふと、誰かの気配を感じた。
自分一人の世界に邪魔が入り、思わずムッとした。
「誰です! 無礼だとは思わないのですか!」
つい、癇癪。
ここ数年、本当に切れやすくなっている。
出て行こうともしない気配に、サリサは立ち上がり、きつい目を向けた。
が……。
そのとたん、どっと汗をかいてしまった。
石段を上り切ったところで、硬直しているエリザの姿を見たからだ。
「あ、いや……、その……」
打って変わって、言葉にならない言葉が、サリサの口から出ては消えた。
こんなきりきりした自分をエリザには見られたくなかった。
エリザのほうも、怯えた……というより、驚いた……という表情だ。
パクパクと動いた後に出てきた言葉は、あまりに彼女らしい言葉だった。
「ご、ごめんなさい。私……」
「いいえ、あの……」
汗をかきながら、いいわけを考えるが思い浮かばない。こんな急展開で、すぐに最高神官の仮面などかぶれるわけがない。
エリザが、ちょこんと頭をさげ、階段を下りようとしている。サリサは、あわてて叫んでいた。
「あの! いかないで!」
ぎくり、と、エリザの動きが止まった。
「あの……いかないでください。しばらく側にいてほしいのです」
何とも切れ味の悪い言葉に、エリザは振り向いた。
その表情は、困惑したような、なんとも言えないものだった。
「ひさしぶりですね? どうぞ、こちらに。今日はいい天気なので、景色がきれいですよ」
当たり障りのない言葉で、どぎまぎしながらも、サリサはエリザを自分の隣に誘った。
半分硬直したままの状態で、ぎこちなくエリザが歩み寄ってきた。
「どうしたのですか? 何か、お願いごとでも?」
そう聞きながら、サリサはドキドキしていた。
次に出てくるのは『エーデムへ行かせてください』という言葉かも知れない。
だが、エリザの口から出たのは、全く別の言葉だった。
「いえ……。それが、薬草を採りにきたのですが……なぜか……」
困惑しているのは、そのせいだった。
思い当たることがあった。
もう……エリザに対する責任は果たしたと思います。あとは、自分の気持ちの整理に、時間をかけさせてほしい。
ここしばらく、リュシュとリールベールと書類の仕え人は結託している。
リュシュには、お菓子やけ食いを知られている。リールベールには、水晶台で死にかけた事を知られている。そして、書類の仕え人には、散々、エリザとラウルの関係を探らせてきた。
気持ち整理にいくら時間をかけても、全くエリザを諦めきれず、苛々した日々を送っているサリサを身近で見続けて来た三人だ。
エリザがエーデムに旅立つとしても、最後にすっきりするように……とのことなのだろう。
だが、どうやら、ラウルはまだエリザにエーデムの話はしていないらしい。
二人は、マール・ヴェールの美しい眺めを、並んでしばらく見ていた。
が、実は、二人ともその景色が目に入っていなかった。
ぎこちない空気が包み込んでいて、何とも居心地が悪かったのである。
二人とも、仕え人たちのもくろみ通りに、お互いの腹を割って話をする状態になかった。
「ラウルは元気ですか?」
苦し紛れのサリサの言葉。
「ええ、元気なんですけれど。義足がうまくいかなくて……」
そこで一端、話は止まってしまう。
また無言……。
「ああ、そうでした! お食事を用意しているんです。今日は、無駄にならなくてよかった!」
空気を断ち切るように、エリザが突然叫んだ。
「そうですね、そういえば……お腹がすいています」
それは、まさにいい空気転換になった。
食べ物の威力は、言葉以上に大きいらしい。
やがて、二人は談笑するようになった。
話は、もっぱら自分たちに関係がないことである。
なんとマリが真面目に勉強している話。リリィがどうやらカシュの子供を身籠ったらしいという話。これらは、サリサの情報だ。
霊山という閉ざされた空間にいるというのに、サリサはエリザよりも世間話を知っていた。
エリザのほうは、もっと内輪ネタである。
ヴィラとエオルが子育てで衝突し、喧嘩したらしい。ヴィラがエリザに相談の手紙を書いてきたのだが、エオルのほうはまったくその事に無頓着なのだ。
「……なんだか微笑ましい喧嘩に思えますよ」
「そうかしら? 全然、自分の娘に見向きもしないなんて、兄は冷たいと思うんですけれど」
本当に重大なことがあれば、おそらくシェールが手紙に書いてくる。
それどころか、シェールの手紙には、馬鹿がつくほどエオルの子煩悩ぶりが披露されているのだ。
「母親の愛情に比べると、どんな父親も薄情に見えるものですよ」
エリザが真剣に悩んで返事を書いたというのに、サリサはくすくすと笑ってみせた。
エリザは、不思議だった。
恐れ多い……と思うのに、時間が経つと、いつも最高神官と楽しく話が弾んでしまう。そして、癒されてゆく自分がいる。
――だから、この方を敬愛しているわ。
そう思ったとたん、目があった。
急に、昔、この場所で語り合ったことを思い出した。
蜂蜜飴を分け合った……。
そして……。
一瞬、その当時に時間が戻った。
まるで、唇をかわしそうなほど二人は近づいた。
エリザは、あの時の長い口づけを待っていたかも知れない。
だが、サリサは唇に触れることもなく、ただ、そっとエリザを抱き寄せただけだった。
「そういえば……辛いことがあったら、二人で分け合おうとここで言いましたね」
ただ、震える声でそう囁いただけだった。
切なくなった。
「……サリサ様。何か辛い事でも?」
ふと、抱擁が解けた。
やや、眉をひそめて小さな声でサリサは答えた。
「……何もありません」
思えば、失礼な質問だった。
世を捨て、個を捨て、ムテのために尽くしている人が、くよくよ凡人のように悩む筈がないのだ。
幸せに思いながらも、くよくよ悩んでいるのは、エリザのほうだった。
「サリサ様、私、わからないんです。これだけ長く一緒にラウルといるのに、何を苦しんでいるのか、まったくわからなくて……」
エリザは、ついに悩んでいることを口にした。
「いったい、どこが痛いのかしら? どうしたら癒せるのかしら? 私、できる限りのことをしてあげたいと思うんですけれど」
サリサはうつむいた。
ラウルは何もエリザには打ち明けていないらしい。
彼は、エーデムで一旗揚げたい。だが、エリザのことを考えると、迷っているのだ。
多くのムテ人がそうであるように、エリザもおそらくムテの地を後にすることを、恐れるだろうから。
「……エリザ。もしも、ラウルが望むなら、遠くへいけますか?」
エリザは、きょとんとして、サリサの顔を見つめた。
やはりまだ、ラウルは何も話していないのだ。サリサは、少し焦りながらも、質問を重ねた。
「いや……あの。もしも、ラウルが遠くへ行きたいといったら。たとえば、エリザの故郷の蜜の村とか、もっと辺境の地とか……」
エリザは即答した。
「……だって。ジュエルのことを考えたら、一の村から出られませんもの」
あまりにあっけない。
エリザは、頭っから一の村を離れるなんてことを考えていない。
「これは、もしも……の話です。ジュエルが他のところでも暮らせるとして、です。それなら、どうですか?」
「暮らせないんですもの。考える必要がないわ」
さらにあっけない。
「では、ジュエルが学び舎に入った後なら? ラウルと共に、どこへでも行けますか?」
「ジュエルは、学び舎からすぐ戻されますもの。どこにも行けませんわ」
やや、苛々とエリザが返事をした。
サリサは、何やら不安な気持ちになった。ふと、一呼吸置いて、しつこく質問した。
「でも、もしもジュエルが成長してムテの力を持つようになって、戻ってこないとしたら? そうしたら……」
いきなり、エリザがサリサの言葉を遮った。
「そんなありえない仮定なんかしないで!」
サリサは戸惑った。
ジュエルが無能で悩んでいたのは、エリザのほうだ。そうであって欲しいと思っていたのは、エリザのほうなのだ。
「ジュエルが変わる事だって、全くありえないことではないですよ?」
実際ありえなくても、そういう夢をエリザは持っていたはず。それを励みに、ジュエルを育てているはずなのに。
「ジュエルは変わらない! だから、私もここからどこにも行けないんです!」
「そ……そんなことはありません。ムテにいるから、ジュエルは受け入れられないのです。もしも、どこか他の国へ行くとしたら……」
「私はムテです。ジュエルだってムテです!」
サリサは、あまりのエリザの過剰反応に驚いていた。
「でも……もしも、ラウルが望んだら……」
ついにエリザはヒステリックに叫んだ。
「サリサ様の祈りが遠いところは嫌! サリサ様は、そんなに私を遠くへやりたいのですか!」
思わず、言葉を失った。
だが、サリサ以上に自分の言葉に驚いたのは、エリザのほうだった。
まるで、それは告白だった。
慌てて逃げ出そうとするエリザを、サリサは押しとどめた。
両腕を押える手につい、力が入ってしまったが、緩めることはできなかった。
「……わ、私……」
おどおどと、エリザが声を漏らした。
その揺れる瞳も震える唇も、かつて触れたようにすべて自分の物にしたい。
そして、何よりも心を分け合っているのに。
「あなたは、ラウルを愛しているのですか? それとも……」
――私を愛しているのですか?
と聞きかけて、サリサの声は詰まった。
返事を聞いてもどうにもならない。どうにもならないのに、聞いてしまう。
どうしても手に入らないものを、どうしても欲してしまう。
だから、いつも、こんなに苦しい。
「ラウルを……愛していますわ」
そう言ったエリザの目には、涙はなかった。
ただ、恐怖だけが浮かんでいた。
サリサの手が緩んだ瞬間に、エリザは自由になり、鉄砲玉のように飛び出して行った。
急で恐くて下りられないはずの石段を、ばたばたと駆け下りて行く。
その音を聞きながら、サリサは空を見上げていた。
目にしみる青い青い空。
どんなに想いを飛ばしても、たどり着く先がない、澄み切った彼方。
マール・ヴェールの祠に風が渡り、サリサの髪を巻き上げた。
カラン……と、音がして、髪留めが岩の上に落ちたが、それを拾い上げて止めてくれる手は、もうない。
涙が一筋、頬を伝わった。
残念ながら、仕え人たちのもくろみは外れた。
二人の間はますます混沌とするだけで、すっきり爽やかな終わりも始まりも見いだせなかった。
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