決別・7
エーデム商人から、仰々しい手紙を受け取って、サリサは天を仰いだ。
なんと、その手紙には、まぎれもないエーデム王セリスの承認印まで押されていて、嘘偽りであるはずもない由緒ある手紙である。
封蝋は、エーデム王族にゆかりのある貴族レーヴェル家のシビルのものだった。
最高神官の仕え人は、その手紙をサリサから受け取り、読み返した。
「……エーデム王家御用達の工房を設立するため、ムテの細工師を雇いたい……正式なお願いですね」
「エーデムらしいですよ。ウーレンならば、出せ! で、終わりですからね」
サリサは、ふっとため息をついた。
リューマ族だったとしたら、人を略奪してゆく。こうして、ムテ人は故郷に執着する種族であるにもかかわらず、魔の島のあらゆるところにいるのだ。しかも、心労で死なない限り、だいたいがいい生活をしている。
ウーレンやエーデムには、多くのムテの医師がいる。また、楽師・薬師・織物師など、多種多様な職種で成功している者が多い。
それにしても、今回の話は、エーデム王の承認まで付いているとあって、大変光栄な話である。
「でも、よりによって……ラウルだなんて……」
仕え人は、ため息をついた。
彼女らしくないことだが、サリサの心のうちを思えば、気が重くなった。
「シビルの考えは読めましたよ。ラウルは、エリザのことを思って渋っているらしい。そして、彼女は『癒しの巫女』であるから、霊山の許可を得ないと、ムテを出る事ができない」
「つまり、ラウルが正式に断ってくる前に、エリザ様の『癒しの巫女』としての任を解いて欲しいってことですね? でも、ジュエルは『神官の子供』のままですよ? それは、さすがに建前上、言われて『はい』とは言えませんわ」
サリサは、はぁ……とため息をついた。
「困ったことですよ。エリザは大人ですから、結婚の意思を尊重することに道理が通ります。でも、元々エリザの子供として認められていない『神官の子供』を、外部の望みを通して外すことなんかできません。とはいえ、ジュエルは元々五歳になったら、『神官の子供』から外す予定だったし……」
「どうするのですか?」
「どうするのですって……リールベール、どうしよう?」
最高神官の仕え人は、ちょっと不機嫌な顔をした。
「最高神官であらせられるサリサ様が、なぜ、リールベールという一般人の助言を求めるのですか? 戯れはおよしください」
サリサは、少しだけ寂しく笑った。
「そうですね。一般人からの陳情ならば、許可してもかまいませんね。エリザが、望んで陳情に来たとしたら……」
もしも、エリザがラウルと一緒に、エーデムの地で生きることを選んだら?
霊山に釘付けの最高神官には、もう二度と会える人ではなくなる。
「私には、エリザ様がそれを望むとは思えません」
「優しいんですね、リールベール」
そう言うと、サリサはよろよろと椅子に座り、机の上に額をぶつけるようにして置いた。
「私は……もうどうでもいいですよ。エリザの幸せそうな姿を見ているのも、もう疲れてしまいました。エーデム王に、すべてをお任せしたいです」
ちょうど手紙の上におでこが当たり、エーデム王のありがたい印がきれいにおでこに移ってしまった。
「サリサ様、もしかして投げやりになってはいませんか?」
「ものすごく、なっています」
仕え人は、あきれながらもタオルをサリサのおでこに当て、ごしごしこすった。
だが、気持ちはよくわかる。
エリザとラウルの幸せな姿は、サリサをとても傷つけてきたから。
自分の手の届かない、目も届かないところで、幸せになってくれたほうが、ずっと気が楽だろう。
「もう……エリザに対する責任は果たしたと思います。あとは、自分の気持ちの整理に、時間をかけさせてほしい」
仕え人は、かしこまった。
「では、シビルの手紙には、本人の希望があれば前向きに考えるとだけ、返事を書いておきますわ」
「僕の印は、正式なものを押して……」
「薬湯をお持ちしますから、印は自分で押してください」
「前言撤回。優しくないや……」
「サリサ様が、甘えるからです」
口調は厳しかったが、仕え人の目は優しかった。
エリザは、医師が再加工した義足と向き合っていた。
ラウルは、あれ以来霊山に来る気がないようだ。だから、持ち帰って試してみる。
そのために、扱い方をエリザがおぼえておかなければならない。
スカートをたくし上げ、膝を曲げて、試しに膝に装着してみた。
「あた! あたたた……」
うまく付いたと思ったから、足を地面に付け、体重を掛けてみた。だが、涙が出るほど痛かった。
エリザは、大きな悲鳴を上げ、床に転げて、義足を取ろうとしたが、なかなか外れない。おかげで、ますます痛い思いをすることとなった。
「エリザ様! それは無理というものですよ! 膝とは大きさが違いますから」
医師が目を離した一瞬のでき事だった。傷ついてしまったエリザの膝小僧に薬を塗りながら、医師があきれた声をあげた。
エリザは、大きな瞳を潤ませた。
「……だって……」
最近のラウルは、以前にもまして、何かに悩んでいるようなのだ。
きっと、足のことで、ものすごい不自由を感じていることがあるに違いない。
今度、ラウルを傷つけてしまったら、元気づける自信がない。
失敗は絶対にしたくなかった。
だが、エリザが試しにつけただけで壊れるようでは、まだまだ先は長い。
ずっとうまくやってきたのに……。
どうして最近、ラウルが遠くなったと思ってしまうのかしら?
エリザは悲しかった。
いっそのこと、一緒に暮らし始めた頃に戻りたかった。
あの頃、ラウルはエリザの手を借りなければ起き上がることもできず、精神的にも病の一歩手前だった。だから、エリザはわざと明るく振舞って、泣く事もなく、ラウルを献身的に支えてきた。
そんなエリザに、ラウルも少しずつ心を開いてきてくれた。
そして、人もうらやむような、今の幸せな生活を築いてきたのだ。
なのに、ここに来て、ラウルの気持ちがわからなくなってきた。
傍目には、障害を感じさせないほど元気になったのに。そこまでになるのに、二人でがんばってきたというのに。
やはり、片足だけしかないという不自由さを、ラウルは背負い続けているのだろうか? まだ、計り知れない痛みがあるのだろうか?
それなら、前のように訴えて欲しい。呼んで欲しい。
がんばってがんばって尽くしても、感謝すらされていないような気になるのは、どうしてなんだろう?
夜中に熱を出し、エリザをうわごとで呼んでいた……。そんなラウルを必死に癒していた……。
あの頃が懐かしい。
悶々としながら、書類の仕え人の後を歩いていた。
膝の傷が痛むのに、なぜか今日は坂道が多い。そして、石段……。
エリザは、はっとして頭を上げた。
前を行く仕え人の肩越しに、恐ろしいほど急な石段が続いている。
エリザは、この道を知っていた。
「あ、あの……ちょっと待ってください! この先は……」
薬草なんかない。
仕え人は、足をとめた。
「階段が恐いですか? もしも恐ければ、私につかまってください」
「いいえ、そうではなく……この先は、マール・ヴェールの祠です。薬草があるとは思えません!」
書類の仕え人は微笑んだようだが、逆光であまりよく見えなかった。
「薬草は、こちらで用意しておきました」
「え?」
「我々は、エリザ様にもう一働きしていただきたいのです」
そう言うと、仕え人はまた歩き出した。
エリザは、ドキドキしながら石段を上っていた。
目が回りそうな急な階段である。幅は少ししかなく、その向こうは空気しかなく、さらに向こうには、ムテの地が遥か向こうまで続いているのだ。
かつて、エリザはサリサの腰巾着になり、震えながらこの石段を上った。
そして、やはり腰を抜かしそうになりながら、サリサに支えられてこの階段を下りたのだ。
「わ、私……。何をすればいいのでしょう?」
黙々と石段を上り続ける空気が苦しくて、エリザは仕え人に声を掛けた。
彼は、振り向くことなく、おかしなことを言い出した。
「死に至る病を癒しに」
エリザは、目を見開いた。
――心病。
「霊山で……どなたが病むというのです?」
心を捨てた者しかいない霊山で、心を病むなんてありえない。
からからに乾いた喉から、エリザは声を絞り出した。
「我々は、あの方を失うわけにはいきません」
その一言で、エリザは悟ってしまった。
まさか……とは思ったが、やはり最高神官のことを言っているのだ。
「私は、ずっとお二人を見て来ましたが……もう生殺しにして欲しくはないのです」
そう言った書類の仕え人の髪は風に揺れ、逆光に透けて、エリザの敬愛する人に重なった。
慌てて石段を駆け下りようとした。
だが、気配なく後をつけてした者に阻まれてしまった。
「……薬草の」
つい、言い慣れたほうの通り名で呼んでしまったが、正確には最高神官の仕え人である。
リールベールは、狭い石段を塞ぐように立っていた。
「エリザ様、心を病む一番の原因は、何かご存知ですか?」
彼女は、ゆっくりと質問した。
エリザは、震えたまま、首を横に振った。
リールベールは、紙のような薄っぺらい表情で答えた。
「どうしても手に入れられないものを、どうしても諦められないことですわ」
――それだけで、心は常に闇に囚われる。
マール・ヴェールに続く石段は、あと少し。
「さあ……。ここからはお一人で」
書類の仕え人に背中を押され、何が何だかわからないうちに、エリザは石段を上り始めた。
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