決別・6


 ――ムテは、故郷を捨てられません。


 そう言ったラウルに、シビルは微笑んだまま、来月、また来ますね……と言って、去っていった。

 そのあまりに平和的な微笑みが、ラウルの脳裏に貼り付いた。

 エーデム族は、穏やかで平和的であり、魔の島ではかつて神とも言われた種族でもある。その地位はすでに過去のものとなったとはいえ、いまだに大きな影響力を持つ。

 シビル・レーヴェルは、エーデム貴族である。

 彼が本物である事は、エーデム族でも滅多に持つ事のできない特徴――銀の角を持っていることでも明らかだ。

 シビルの保証があるならば、これは悪い話ではない。

 それでも、ムテ人がムテの地を離れることは、とても危険なことだ。多くの者が、心病を患い、死に至っている。

 だから、ラウルは全く相手にしていなかった。

 ムテを離れて、自分が生きていけるかなんて、とても考えたことがなかったのだ。

 しかし……。

 初めは気にも止めなかったラウルだが、帰り道、松葉杖を突いている自分の影を見つつ、悩み始めた。


 ――いい義足技師を紹介できますよ。


 ムテにいる限り、影にうつったままの一本の足と二本の杖で、一生を終えることになる。

 そして、エリザの世話を受け、霊山を見つめつつ、憂鬱なまま、生きていかなければならない。

 健全な自分さえ、最高神官には敵わなかった。その自分が、なぜ、今、エリザと共にあるのか? エリザにとって、ラウルはかわいそうな足を失った男で、しかも、それが自分のせいだと思っているからだ。

 ラウルが望んでいるのは、エリザとただ共にあることではない。エリザと、ひとつ心を分け合うことなのだ。

 もしも、足を手に入れたら?

 名誉ある細工師の地位を手に入れられたとしたら?

 ラウルは、再び自立することができ、自信と誇りを取り戻すことができるだろう。

 エリザと対等に話せるようになるだろう。

 そうなって初めて、ラウルはまた、エリザの心を掴もうと努力できる。恋争いを戦う事ができる。

 そして、今度こそ、勝ち取りたいのだ。

 家に帰り着く頃には、ラウルの心は見知らぬエーデムの地に飛んでいた。



 夕食を食べながらも、ラウルはぼうっとしていた。

 どうしても、シビルの話が頭から離れない。

 あまりにうますぎる話だとも思う。

 が、それに賭けて新たな生き方をしたいとも思う。

 足を失って以来、ラウルは夢も失った。

 だが、自分の能力を活かした新たな道が、今、目の前に広がっているのを感じていた。それは、足がなくても充分に活かせる能力であり、ラウルの新しい才能でもあった。


「ねえ、ラウル? どうしたの?」

 あまりにぼうっとしているので、エリザが心配そうに聞いてきた。

「うん? 何でもないよ」

 常ににこにこしていないと、エリザはすぐに心配する。今もそうだった。

「でも、何だか元気がないみたい。もしかして、足が痛い?」

 確かに、足を切ってすぐのときは、電気が走ったように痛んだこともあった。だが、もう既に足がないのが当たり前のような感覚になっていて、痛まない。

 あれから二年も経っている。

 エリザが考えているよりも、ラウルはずっと普通の状態で、既に怪我人ではないのだ。

「いや、ただ、考え事をしていただけで」

「ねえ、ラウル。無理をしないで。痛むなら……」

「何でもないって!」

 ついに、声を荒げてしまった。

 そうなのだ。エリザの前では、常に何でもないふりをしないとならない。

 彼女は、責任を感じている。そして、それを果たそうとしている。

 だから、ラウルはエリザを傷つけないよう、気を配ってきた。

 それが、今まではいい感じで回ってきたと思う。

 だが、長い年月をかけて、徐々に歪みが現れ始めていた。

「ごめんね、ラウル……」

 エリザはうつむき、泣きそうな顔をする。


 ――私のために、こんなことになってしまって……。


 そうエリザの心は訴える。

 ラウルは、その心の声を聞くのが嫌だった。だから、明るく振舞ってきたのに。

「足のことなんか、別に気にしていない。一本くらいなくたって、大丈夫だってよくわかったし……」

「義足のこと……ごめんなさいね」

 この間の失敗を思い出したのか、エリザはついに泣き出してしまった。

「義足なんて! 別に気にしていないって言っただろ!」

 つい苛々して怒鳴ってしまう。

 エリザは、ますます泣いた。

 ラウルも気が重い。小さくため息をついて、苛々を退散させる。

「気にしないで……。僕は……エリザがいてくれるから、何も困っていることはない。今の生活に満足しているし……。考え込んでいたのは、新しい細工のデザインの事なんだ」

 それでも、エリザはまだ泣き止まなかった。

「ごめんなさい。私の仕事が今ひとつなばかりに、ラウルに余計な仕事をさせちゃって……」


 心が死んでしまいそうだった。


 エリザが、ラウルに細工とその販売を禁じないのは、自分が至らずやむないと思っているからだ。

 エリザから見ると、細工の仕事はラウルの体に負担をかける悪い事なのである。常々、細工作業を心配そうに見ているのだ。

 その視線に触れるのがどれほど苦痛なのか、エリザは気がついてくれない。

 別に、エリザのお荷物として生きていきたいわけではない。

 対等に生きていきたい。

 いや、むしろ、ラウルは自分でエリザを支えて生きていきたいのだ。それをわかってもらいたいのに、どうしても本音を言えないでいる。

 はらはらと泣き続けるエリザのために、ラウルは一芝居打った。

「実は……根を詰めすぎて、少し、体がだるいんだ」

 ぴたっとエリザが泣き止んだ。

「え? 大丈夫? どこが痛いの?」


 エリザが、もっとも自信を持っていること。

 ――それは、癒しの力。


 だから、彼女を元気にさせたいと思ったら、仮病を使うのが一番だった。

 何も力になれないと落ち込むエリザは、自分の本領を発揮できるとあって、俄然張り切る。

 薬湯を入れ、香を焚き、ラウルの手を握りしめ、あらゆる癒しの業を駆使して癒してくれる。

「ありがとう。元気になったよ」

 その一言で、彼女も元気になり、微笑むのだ。

 確かに、彼女の心遣いや癒しの力が、足を失って魂さえも失いかけたラウルを救った。落ち込みかけたラウルを、エリザの言葉や力が、何度も救いあげてきた。

 ラウルは、心からエリザに感謝している。


 だが……今。

 既に病人でないラウルにとって、エリザの態度は救いにならない。

 むしろ、牢獄に押し込められたような気分だった。



 夜、寝静まった後。

 ラウルはベッドから起き上がった。

 ほんの少し離れたエリザのベッドに近寄るだけでも、杖が必要だった。もちろん、片足でぴょんぴょん跳ぶこともできるが、気づかれないように近寄る事はできない。

 安らかなエリザの寝顔を見ていると、ラウルも心が安らいだ。

 額にそっと口づける。

 この人に唯一、お互いの心を分かち合い、魂を共にする相手であって欲しいと思う。

 今日、あったことを、相談したいと思う。

 一緒に、ムテを捨てて、エーデムで新しい生活をしたいと思う。

 そこには、ラウルの苦しい思い出の霊山も、エリザを呪縛する霊山もない。ジュエルを恐れるムテの人々もいない。

 ラウルは新しい足と、新しい仕事を得る事ができ、エリザも癒し手として重宝されるだろう。


 もしも、エリザがラウルを愛していて、心から共に生きていきたいと願うなら。


 だが、エリザは反対する。

 それがわかるから、ラウルはエリザに打ち明けられない。

 結局、やっと手に入れたエリザを、ラウルも失いたくないのだ。

 だから、何も言えなくなってしまう。

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