決別・9


 二人の仕え人が石段にいたにもかかわらず、エリザはその間をすり抜けて走り降りていた。

 思わず、仕え人たちが、自分たちの体の幅と石段の幅を比べてしまうほど、見事だったが、もう一度やれと言われても、二度とできないだろう。

 喉がカラカラで、涙も出なかった。

 だが、石段を下りてくるうちに、泉がわき出すように水分が上がってきて、最後は泣きながら走っていた。

 階段の下で、リュシュが薬草の篭を用意してくれていたが、それも無視して、エリザはそのまま霊山からも去ったのだった。


 ――あなたは、ラウルを愛しているのですか?


 エリザは、ずっとラウルを愛したいと思っていた。

 そして、ララァのような幸せを掴みたいと思っていた。

 かつて、彼を受け入れられるものなのか、悩んだこともあった。サリサと違いすぎる口づけに怯え、やがて訪れるだろう夜の営みに恐怖した。

 だが、彼が足を失って以来、エリザは、ただの一度も、そんなことを考えたことがなかったのだ。

 驚いたことに、エリザはラウルと一緒に暮らしていながら、彼を一人の男性として意識したことがなかった。むしろ、愛さなくてはならない……という前提が無くなったからこそ、エリザの中で、ラウルは大事な人となりえた。

 それまでが嘘のように、エリザはラウルと共に生きていく事を、簡単に受け入れられたのだった。 


 エリザは戸惑った。


 強く掴まれた腕が痛かった。

 それよりも、言葉が恐かった。

 サリサと話している間、エリザは何を考えていたのか? 

 抱き寄せてほしく思い、口づけして欲しいと望んでいた。おそらく、そうされたとしても、全く拒まなかっただろう。

 身も心も引き寄せられる快感に、エリザは浸っていたのではないだろうか?

 そのサリサに、ラウルを愛しているのか? と聞かれたとたん、エリザは愕然とした。

 ラウルに抱く気持ちとサリサに抱く気持ちでは、あまりに違いがありすぎた。


 ――それとも……私を愛しているのですか?


「いいえ! 私は、ラウルを愛しているわ!」

 エリザは、必死に自分に言い聞かせた。

「サリサ様を、敬愛しているだけだわ!」

 頭の中に響くサリサの言葉を避けようとして、耳を塞いだ。

 おかしな妄想に陥ったら、もうエリザは生きていく事ができない。きっと、すぐに心臓が止まってしまうだろう。手も足も……あの祈り所の夜のように、冷たくなってしまう。

 ずっと忘れていた邪な思い。ドロドロで汚い心。

 エリザは、ずっとその思いと戦いながら、やっとの思いで家に帰り着いた。



 疲れ果てて帰るころには、もう夜だった。

 噴水の水が光に当たり、キラキラと輝いている。その向こうに、エリザの帰る家があった。

 小さな家の窓から、かすかに温かな光が漏れていて、陶の石畳の上に落ちている。

 寒々とした風を避ける温かい空気がそこにはある。

 扉を開けると、ジュエルがすぐに出てきた。

「母様、お帰りなさい」

 うれしそうな顔が、少し不安気に曇った。

 ジュエルは、エリザが普通でないことに敏感なのだ。心を感じない子なのに不思議だった。

 松葉杖をつきながら、ラウルが迎えた。

「エリザ、どうした? 遅かったね」

 ちょっと心配そうな顔。でも、そこには安堵の微笑みがある。

 朦朧としていたエリザだが、その顔を見ると、ほっとした。


 ――私……。

 この幸せな家庭を失いたくない。


 色々な夢を持った。でも、すべては消え果てた。

 ただ、ひとつ。

 最後に残った夢は、エリザにぴったりな、小さくて平凡な幸せの夢。


 ――私、最高神官を敬愛するエリザに戻りたいんです。


 エリザは、霊山を下りる時にそう願った。

 今、やっとそうなった。

 そして、温かな家庭も手に入れたというのに……。


 エリザは、崩れるようにしてラウルの肩に体を預けた。

 ラウルの腕から、松葉杖が一本はずれて床に落ちた。

「どうした? 疲れているのか?」

 そっと、ラウルが片手で抱き寄せてくれる。

 その状態で、ラウルは歩けない。ジュエルが、床に転げた杖をラウルの脇に戻してくれた。

「うん……。少し、疲れちゃったみたい」


 ――私が愛しているのは、この人だわ……。

 エリザは、ラウルに寄り添いながら、何度も自分に言い聞かせた。



 その夜、エリザとラウルは、初めて一緒のベッドで眠った。

 月病の年ではないので体を結ぶことはなかったが、何度か唇を重ね、寄り添いあった。

「ねぇ、ラウル。私のこと、愛している?」

 エリザは、口づけのたびに同じ質問を繰り返した。

 ラウルは微笑んで同じ返事を繰り返した。

「ああ、もちろん」

 何度も何度も繰り返し、やっとエリザは安心した。

「私も、ラウルを愛している」

 エリザは、ラウルのサリサよりもたくましい胸で、安らかに眠った。

 だが、ラウルのほうは、その夜、一睡もできなかった。




 リューマの市に足を運ぶと、すでにエーデムの馬車があった。

 いつもきらびやかな衣装で現われるシビルだったが、その日はさらに派手だった。

 シルクのフリルをあしらった襟は、エーデムの貴族が好むデザインで、女顔のシビルにはよく似合う。

 だが、彼のいつもの微笑みは、ほんの少しだけ霞んでいた。

「今日は、いいお返事がもらえると思っていましたのに……」

 ラウルは、そっと頭を下げた。

「すまない」

 そう言って、ラウルはぎょっとした。

 シビルの笑顔が途絶えたのは、ラウルの返事のせいだけではなかった。

 足下で絵を書いていたジュエルのペンが、シビルの高級な革靴に緑の線を書き込んでいたからだった。

「この子……。連れてこないほうがいいですよ」

 ぼそっとシビルは呟いた。

「ああ、申し訳ありません!」

 ラウルはあわててしゃがみ込み、自分の服の裾でシビルの靴を拭いた。カラン、と松葉杖が落ちる。その横で、ジュエルが杖を拾い、ぺこり……とシビルに頭を下げてみせた。

「いいんですよ。ラウルさん」

 シビルは、すっとラウルの体を支え、立ち上がらせた。

「ここじゃ何ですから、私の馬車の中にどうぞ」


 見れば見るほど豪華な馬車だった。

 外よりも内装のほうが見事で、シビルの美的感覚がよくわかるようだった。

 さすがにここでは何も描けないと思ったのか、ジュエルがペンをポケットにねじ込んでいた。

 何と、馬車の中でお茶まで振舞われ、ラウルはまるでお客様だった。

「こんなことをされても……僕の気持ちはかわらないです」

 シビルは、ニコニコ笑いながら、カップの持ち手に指を掛けた。

「あなたの気持ちは、もうわかっていますよ。変わらないとしたら、あなたの婚約者の気持ちでしょ?」

 ラウルは、思わず言葉に詰まった。

 シビルは、いったいどこから情報を仕入れてくるのだろう? エリザのことさえよく知っているようだった。

「一年間もあなたを追っているのですよ。知っていて当然です」

 お澄ましして、シビルは言った。


 あの日、ラウルは決心していた。

 どうしても、エーデムに行きたい。そして、自分の力を試したい。

 だから、エリザについてきて欲しい。

 そう、打ち明けるつもりだった。

 だが、なぜかエリザは様子がおかしかった。

 とても、そんな重大な話ができるような状態ではなかったのだ。

 そして、抱き合い、口づけをかわし……彼女が今の生活をどのくらい守りたいのか、よくわかってしまった。

 エリザのためなら、自分の夢を諦めようと、一晩考えて決心した。


「でも、まだお話していないでしょう? あなたを本当に愛しているならば、彼女はきっとついてきますよ」

「いや、エリザは『癒しの巫女』だ。ムテを離れるには、最高神官の許可がいる」

「最高神官は、喜んで許可しますよ」

 ふふふ……と、シビルは笑った。

「まさか……」

 ラウルは思わず呟いた。

 最高神官が、エリザをムテから出すとは思えなかった。

「サリサ・メル様は、自主性を重んじる方ですからね。私が頼んでもいいとは言いませんけれど、あなたたち二人が頼んだら、そのお子様ともども、ムテの地を離れることを許可しますよ」

「まさか! 神官の子供を?」

 急に、シビルの顔が厳しくなった。いつも笑顔の男が、このような顔をすると緊張する。

 ぐっとラウルの顔近くまで、顔を寄せ、耳元で囁いた。

「あなた、本当にこの子が『神官の子供』とお思いなのですか?」

 ラウルは、ぎょっとしてシビルの顔を見た。

「この子は、とても危険な子です。『人間』って、知っていますか?」

 その言葉は、ラウルも聞いた事がある。とても恐ろしい種族だという話だ。だが、遥か魔の島の東にいるだけで、ムテにはいない。

「この子は、人間なんです。今、ウーレンが躍起になって狩っている種族です。外部と繋がりのあるリューマ族に見せたりすると、連れ去られて売られちゃいますよ。市場に連れてくるのは、気をつけたほうがいい」

 一瞬、シビルの目が光ったので、ラウルは慌てた。

 思えば、ずいぶんと無防備に、ジュエルとラウルはシビルの馬車の中にいた。

「あら、嫌ですよ。私が連れ去るなら、あなたのほうがいい。それに、その気なら、もう馬車を走らせています」

 くすくすと、シビルは笑った。

 その度に、襟元のフリルが揺れて、何ともお上品な感じがした。

「……何で……人間が、ムテにいるんだ?」

 あまりに信じられない話だ。ラウルは疑っていた。

「それは、私にもわかりません。エリザさんか最高神官がご存知なのでは? まぁ、ムテにいるならば、あの子は安全ですけれど。でもね、エーデムにいたほうが、あの子はより安全ですよ」

「なぜだ?」

「だって、ムテは人間狩りをしているウーレンの属国ですよ? もしも、最高神官が人間をかくまっていることが本国に知られたとしたら? 差し出すしかないんですよ? でも、エーデムは同盟国であって、属国ではありません。エーデム王は、ウーレンからあの子を守ってくれます」

 もしもそれが本当だとしたら?

 エリザもジュエルのためを思えば、エーデムに移ったほうが安全なのかも知れない。

「その通りですよ、ラウルさん。もしも、あなたの婚約者が本当に子供を大事に思うなら……この話は、断りようがないんですよ」

 ラウルの決心が、ゆらゆらと揺れ始めた。

 ジュエルは、自分のことが話題に上っているとは思わず、揺れ動くシビルのブラウスの袖口に目を奪われていた。

「私はこれでもお人好しなんです。たかが靴に落書きされたくらいで、子供を嫌うはずがないでしょう?」

 ニコニコしながら、フリフリ袖の手で、シビルはジュエルの頭を撫でた。

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