巫女姫マヤ・2


 最高神官の部屋は狭い。

 眠れない夜に仕事をするので、机の上は書類だらけだ。お客をもてなす椅子などもない。

 最高神官は、冷たくなったマヤの手をさすりながらも、壁の向こうのベッドに座らせた。そして、すぐに消えようとした。

「今、火鉢を持ってきますから……ここで……」

 マヤは手を離さなかった。

 最高神官は、マヤを残して仕事に戻ろうとしている。だが、それをマヤは許さない。

「サリサ様……。恐いんです」

 マヤはよく知っていた。

 最高神官が、どうしたら一人の男となるのかを。そして、彼を従える方法を。

 どのようにすがればいいのかも、どのように涙を流せばいいのかも。

 そして、彼がどれほど『あの』艶っぽい唇を欲しているかも。

 ぽろり……と涙を流した瞬間、彼は落ちるのだ。

「マヤ……。いけません」

 甘えるように胸にしがみつくと、苦しそうに最高神官は言う。

 が、彼に香り苔の香りがもう届いているはず。白く美しいうなじに唇が触れるのは時間の問題だ。

「霊山の気が恐いんです。……ごめんなさい。少しだけ、側にいさせて」

 嘘じゃない。恐いのは本当だ。

 この嵐は、乱れた心をあらわす鏡のようなもの。

 絶望や孤独が、マヤの心さえも凍らせてしまいそう。その中に留まっていたら、心を病んでしまうだろう。

 恐いから震え、涙を流す。

 だが、その真実さえも、武器にする。


 女は二つの理由で泣く。

 ――だから、男は騙される。


 ムテは性的な欲求が薄い。だが、心の繋がりは余計に欲する。

 霊山の気を乱すほどに、彼は今、寂しく、誰かと繋がりたいと思っている。

「……サリサ様」

 甘ったるい声。艶っぽい唇。薬湯の効果は現れるだろうか? 隠し持った薬は不要だろうか?

 いやそれよりも。

 マヤの容姿は何よりも武器だ。

 最高神官を素のままにして、すべてを支配できるのだ。

 指先が、マヤの唇をそっとなぞった。その唇を奮わせて、涙を浮かべて呟けばいい。

「……お願い。抱いて……」

 それ以上は、何も言葉はいらない。 

 唇を唇で塞がれる。押し入る舌の甘さを味わいながら、抱き寄せられ、そっと体を預けられ……横たえられる。


 何よりも飢えているのは心――だから、彼は唇を欲するのだ。


 心言葉を紡ぎ出す場所。一番触れるのが恐くて……触れられたい場所。

 何度も何度も口づけした後、最高神官はかすかに眉間に皺を寄せ、マヤを見つめた。

「許してください。私は……」

 苦痛に歪むのは、罪悪感のせい。

 ひとつ心を分け与えない相手と、まるで心を分けたように触れるのは卑怯な行為。

 巫女姫と最高神官の逢瀬は、あくまでも神官の子供を作るための聖なる行為であるべきで。

 前最高神官マサ・メルはそうしてきた。

 だが、サリサ・メルは違う。しかも、今のこの行為は……もっと悪い。

 マヤにはよくわかっている。

 サラのように相手を憎まない。むしろ、利用するのだ。

 彼の思いを――忘れられない人のことを……。

「いいんです。私……。それでいいんです」

 マヤは、エリザそっくりの顔で言うのだ。

「サリサ様のために……私はここへ来たのですから」


 ――エリザの代わりに……


 身も心も、別の女になりきってみせる。

 今、打ち捨てられた子供のような心のまま、求めるのが……愛する人であるならば。

 何をいったい拒むというの? 彼の心を手に入れるためならば、どんな苦しみだって乗り越える。

 ……持っている武器はすべて使う。


 私は……サラのように愚かじゃない。

 

 外は激しい嵐。

 霊山の気は、ますます乱れる。

 雨が降り出し、強く窓を打つ。白い糸を引いたような筋が、何本も窓に流れて止めどない。

 霊山の気の乱れは、そのまま最高神官の心の乱れであった。

 マヤは何度か悲鳴をあげた。

 その声を何度も押さえ込むように、唇が絡み付く。嵐のように激しい愛撫もやまない。銀糸の髪が、雨のようにマヤに降り注ぎ……やがて。


 すべてが終わった時、サリサはマヤの胸に頭を埋めていた。かつて、エリザと愛しあった時のように。

 だが、その時思わず「幸せです」と呟いた彼の唇は、不幸のために言葉を発しなかった。ただ、荒い息だけがかすかな音となる。

 その髪を撫でながら、マヤは満足げに微笑んだ。

 おそらく……誰も、マヤほど最高神官を狂わせないだろう。

 他の巫女姫とは霊山の節度を守った繋がりしかなく、エリザとは……愛ゆえにもう少し思いやりがあった。

「……申し訳ありません」

 うちひしがれた声。

「いいんです……」

 まるで母親のような微笑みを浮かべ、マヤは胸にサリサを抱く。

「今日のような日は、どうぞ、泣いてくださっても……」

 その声色さえ、エリザにそっくりだった。

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