巫女姫マヤ

巫女姫マヤ・1


 風が鳴る夜――

 霊山の気が乱れる夜――


 マヤは一人で湯浴みを済ませると、寝衣ではない衣装を纏った。

 タオルで充分に髪を拭き取ると、そっと持ち上げる。白くてか細い首が、ほのかな蝋燭の灯りに浮き上がった。

 香り苔からとったエッセンス・オイルを耳元に塗る。

 湯浴みのお湯は、逢瀬の夜と同じものを選んだ。その薬効だけを残し、香りは別にする。


 ――最高神官にとって、さぞや切ない香りだろう。


 そっと唇に無色の艶出しを塗る。大きな瞳を揺らせてみる。マヤは微笑む。

 ポケットの中に、念のため、いくつかの薬を忍ばせる。

 完璧だ。

 彼女は立ち上がり、そっと部屋を出て行く。

 

 気配を消して歩く。

 蝋燭も灯さず、ただ、自分の足下を照らす銀の道しるべに従って。

 薄手の服にストール。マヤは、素足だった。

 渡り廊下の木製の床がきしんで音を立てても、たとえ誰かがそれを聞いたとしても。風に身をよじる木々の声と思われるだろう。

 それでも、鳥一羽、虫一匹も起こさないよう、細心の注意を払って歩く。当然、人には気づかれてはならない。

 このような夜であっても、時に仕え人が火の始末を気にして歩き回ることがある。

 巫女姫として恥ずかしい行いは、けして彼らに知られてはならない。

 マヤは優秀な巫女姫であり、能力も行いも、すべてにおいて一番評価が高いのだ。その評判は、落としてはならない。


 ――最高神官も、このマヤの評価を下げたくはないだろう。


 マヤには確信があった。

 やがて、マヤは廊下から身を躍らせ、地上に降り立った。風が踊り、雨雲を呼んでいる。地はぬかるんでいたが、マヤの結界が彼女を清らかなままにした。

 かつて、サラの仕え人だった者が、サラを導いたという通路。

 マヤはその道をたどった。

 裏手から、最高神官の居所に至る道だった。



 窓に小さな灯りが灯っている。

 このような夜、最高神官は眠れない。嵐のため……ではない。

 彼の動揺が、時に嵐を呼ぶのだ。霊山の気に反応して。

 誰も人がいないことを確認すると、マヤは小さく扉を叩く。返事はない。もう一度。そして、何度も……。

「……サリサ・メル様」

 ついに彼女はか細い声をあげた。

「サリサ様、お願いでございます。開けてくださいませ」

 反応がない。

 マヤはうつむき、ストールを握り直した。寒さに震えた。だが、引き返すつもりはなかった。

 マヤをこのまま震えたままにしておくような、そんな人ではないのだ。彼は……。

 確信。

 けしてしくじらない。

 マヤの想像通り、やがてゆっくりと扉が開いた。

「マヤ……。あまりにも無礼ではありませんか? しかもこのような夜に……」

 扉の隙間からのぞく最高神官の顔は、どこか青白く生気がない。

 それでいて、ぞっとするほど美しい。闇に溶け込んでしまいそうだ。彼の気が霊山のそれと混じりあい、繋がっているからなのだろう。

 最高神官は、古いムテの力も容姿も、そのまま受け継いでいると言われている。おそらく、この地に降り立った最初のムテ人たちも、このような姿だったことだろう。

 だが、マヤはその神聖に飲み込まれないよう、気持ちを落ち着けた。

 息が白く霧になった。

「……申し訳ありません。サリサ様。ですが……あまりにも霊山の気が乱れて、恐ろしくて……」

 マヤは唇を奮わせ、目を伏せた。

 ふっと小さなため息が聞こえた。やや、当てつけがましい理由だが、今の最高神官には、マヤの企みなど探るゆとりはないだろう。

「申し訳ありません。マヤ……。今夜はもう一度、祈りを捧げて眠ることにします。ですから、あなたも……」

「部屋に戻り、休みます。ですが、サリサ様……。もう少し、いっしょにいさせてはもらえませんか? ……寒くて」

 冷たく冷えきった手を、恐る恐る差し出す。揺れる大きな瞳で見つめる。

 最高神官は、その手を拒絶できない。マヤは、よく知っている。


 ――あまりにも似すぎているから。


 案の定、彼は温かな手でマヤの手を包み込むのだ。

 やや困惑に眉をひそめて。

「少し……温まっていきなさい」

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