決別
決別・1
狭い部屋にベッドがふたつ。その圧迫感にも、すっかり慣れた。
エリザは、陽が上がる前に起き、顔や手を洗ってから、祈ることを日課にしている。それも、もうひとつのベッドで休むラウルを起こさぬよう、そっと。
ジュエルと二人っきりだった時と違わず、朝の祈りに集中した。
霊山に感謝……そして、最高神官のために祈る。
最高神官の顔を思い浮かべて切なく思ったことも、今となっては邪な感情というよりも、深い敬愛のなせる業と思える。
幸せなせいか、祈りにも心がこもる。
――敬愛しております。
サリサ・メル様がすこやかでありますことを。
祈りが終わると、エリザは朝食の準備をする。
噴水の近くにある家は、広場に面しているので、朝の光が部屋中に差し込む。
かつて夢見た朝の食卓。テーブルと木綿のクロス。そして、パン。蜂蜜。野菜を煮込んだスープ。
すべて用意が整った所で、エリザはお寝坊な二人を起こしに行く。
夢とほぼ一緒だった。
ただ……違ったのは、ジュエルの髪が黒いこと。それと、相手がサリサではないということだ。
だが、あとは寸分違わない、エリザが望んだ幸せだった。
一緒に暮らし始めた頃、ラウルはよく熱を出したり、精神的にまいって寝込んだりもした。だが、今となっては、エリザの手を借りることなく、松葉杖を上手に使って一人で動くことができる。
もともと運動能力があり器用だったせいか、エリザが驚くほど、ラウルは手のかからない『障害者』だった。拍子抜けしそうなくらい明るく微笑んで、朝の食事の席に着く。それすらも、エリザの手を患わせることがない。
さすがにジュエルを抱き上げて椅子に座らせることはできないが、いつも食後のお茶を入れてくれた。
ラウルは、足がないのが目立たないように、長衣を着ることが多くなった。何だか神官のようだわ……と、エリザはひそかに喜ぶ。
着替えを手伝い、大腿部から先がないのを見てしまうと――私のせいで、ラウルは――と、落ち込むことも時にはある。
でも、ラウルのために、少しでも手になり足になれることが、エリザにはうれしかった。特に、彼の痛みを少しでも和らげる力――癒しの力を持っている事は、エリザにとって幸せだった。
今や、エリザとラウルは、一の村で評判の幸せな恋人同士だった。
エリザは、相変わらず薬草の採取・精製と販売をしていたが、こちらも弟子入りする者まで現れて好調だった。皮肉なことではあるが、癒しの巫女としてのエリザの評判は、ラウルの回復に伴って、ぐんぐんと上がったのだ。
ラウルのほうも、今まで集めていた石に見事な細工を施して、リューマの市で売って収入を得ていた。ムテには見向きもされない装身具が、どうもウーレンやエーデムでは大変な評判のようで、生活に困ることはなかった。
ジュエルは、三歳になった。
神官の子供として育て、ラウルが父親ではないことを打ち明けてはいるが、幼いジュエルはその区別すらついていないだろう。ラウルとジュエルが一緒に遊んでいる姿は、父と子供のようである。
あと二年。ジュエルが五歳になったら、エリザとラウルは結婚し、正式にジュエルを子供として引き取ることになる。
何もかもが順調で幸せ。未来を想像しても、幸せしか見えない。
だから……。
たまに、何かラウルが考え込んだりしていても、エリザには、足の悩み以外に原因を見いだすことができなかった。
今年も、霊山へ薬草採取の許可証をとりに行った。
最高神官サリサ・メルの顔を見るのは、昨年の許可書をもらった時以来、一年ぶりとなる。
『応接の間』に入る時、エリザは身なりを整えた。そして、大きく深呼吸した。
久しぶりに会うのに、髪は乱れていないかしら? 汗をかいていたら嫌だわ……と、気になることが目白押しである。
エリザは少女時代に戻ったようにドキドキした。
以前は、このような気持ちを邪だと思ったものだ。だが、今はとても幸せなせいか、素直に喜べるのだ。
後ろの人に急かされて、エリザはなだれ込むようにして部屋に入り、やや顔を染めた。
「サリサ様、お久しゅうございます」
エリザは礼儀正しく最高神官に挨拶をした。
「元気そうで何よりです」
ちくり……と胸に痛みを感じた。
そういう最高神官のほうは、エリザが思っていたよりも少し痩せたような気がして、顔色も透き通るように白かったからだ。
最高神官は許可証に印を押し、エリザに手渡した。
エリザはちょこんと頭を下げた。
「ありがとうございます」
サリサに会えてうれしかった。
だが、以前に比べると、サリサがやつれて疲れているように見えて、どうも気になってしまう。神懸かり的に相変わらず美しいのだが、そのまま昇天してしまいそうな、危うささえ感じられた。
無理をしているのでは? と不安になる。
先日、アリアに会った時に話題に上った事が気になる。
ここ数年、新しい神官の権利を得る者が現れず、ムテ人の間には不安が広がっている。兄の手紙にも、近隣の村の神官が旅立ち、後任の者は神官代行であるとの話があった。
ムテは、明らかに滅びの道を歩んでいる。
力ある存在が減り、徐々に寿命も短くなってゆく。その流れを察して、人々は動揺している。
ウーレンの魔の島平定がほぼ終了し、外部が安定していることだけが救いだ。ムテに流れてくる不穏な輩は減っている。
だが、最高神官の負担は大きくなっているに違いない。
側にいて、力になってあげたかった――と一瞬考え、エリザは思わず驚いてしまった。自分で霊山から逃げ出しておいて、何と愚かなことを考えているのだろう? そんな力なんて、エリザのような至らぬ者にはないのに。
きっと、最高神官の負担になるようなことしかできない。優しい彼は、エリザを気遣って、ますます疲れることになるだろう。
それなのに、もう少しで「お体は大丈夫ですか?」と聞きそうになり、慌てて帰ろうとした。
だが、サリサが呼び止めた。
「ラウルは、どうですか?」
「おかげさまで、元気です」
ラウルと生きることを決意してから、エリザは霊山の援助を極力遠慮した。
それは、ラウルの要望でもあった。霊山で足を失ったせいか、彼は霊山との繋がりをあまり望まなかったのだ。
エリザも、忙しい最高神官を煩わせるのは本意ではなかった。彼に頼らない強い自分になりたかったし、それができていたと思う。
だが、朝に夕に、サリサのことを祈らない日はない。
最高神官のほうも、ずっと二人を見守ってくれている。もうかれこれ二年近く、エリザは薬草採取以外で霊山には来ていないが、彼を遠くに感じたことはない。
「もしも、また義足を試そうと考えているならば……。医師の者に相談しなさい。特別に面会を許します」
「あ、ありがとうございます! サリサ様! さっそく……」
エリザの声は弾んだ。
以前、試行錯誤した義足はついに実用化せず、ラウルの体調もその頃はまだ整っていなかったこともあり、諦めていた。
最近のラウルは、明らかに足のことで悩んでいるように思える。
全く打ち明けてくれないし、エリザの前ではニコニコしているから、何も聞けないで困っていたのだが……。
おそらく、彼は足を取り戻したがっているのだ。
――もう私だけの力じゃだめだわ。
霊山の力を借りたほうが、きっといい……。
そう思っていたけれど、自分から言い出せなかったので、エリザは、ものすごくうれしくなった。
あからさまに顔に出たかも知れない。
ラウルのことだけではない。医師や最高神官の仕え人やリュシュ、癒し、書類係の仕え人という懐かしい人々に会える。
それに、最高神官にもお目通りが叶うことがあるかも知れない。
エリザには、何もかもがいいことのように思えていた。
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