ムテの中の小さな世界・2
穏やかな春の訪れ――
霊山に多くの人が入山の許可を得にやってくる季節。
だが、この年、エリザは霊山への入山許可を取らなかった。
霊山での薬草採取は、一日がかりである。とてもジュエルを一人にして、遠出する気にならなかった。
山の麓や森でも、エリザは充分に薬草を見つけることができた。
それに、何よりも、エリザが精製した薬は大評判で、リューマの商人に高く売ることができ、生活に困らなかった。
たとえクールが嫌味を言おうとも、エリザは生活に困りさえしなければ、仕事よりもジュエルを優先した。
それに……。
いまだ、エリザは朝に祈る気持ちになれず、霊山へ行く気も起きなかった。
最高神官との最後のやり取りは、なぜか心にしこりを残した。
せっかくの承諾書を無駄にしたことや、マヤの微笑みを思い出せば、どうしても気が重たくなった。
ジュエルのことで、サリサに相談したいと思ったことも、多々あった。だが、どうしても手紙ひとつが書けなかった。
リューマの市が立つ。
エリザは、背中にぎっしりと精製した薬や薬草を積んで、汗をかきながら市場に来た。
川沿いを歩き、橋を渡ると、もう村はずれになる。
ここに、特別許可を得たリューマの商人が、月に一度だけ訪れるのだ。外の世界の商品をムテにもたらし、同時に、ムテの優れた商品を外に持ち出す。
市は、ムテではありえないほどの活気と、少し鈍った共通語の言葉が耳に残る。
銀の髪と目を持つムテの人々の中にあって、黒髪や茶色の髪、黄色い肌をした人々が、ところ狭しと物を並べている。
対するムテ側の商人も、ムテ人は少ない。リューマ族と話したがらない人が多いので、取りまとめて商売する人もリューマ族だったりするのだ。
彼らは当然中間で法外な手数料を取っている。それがわかるから、遠方から来た商人たちも、喧嘩越しに商談する。
だが、ムテ人には、比較的言い値で商売が成り立つのだ。エリザも、最初はあたりの様子を見て怯えたものだったが、思いのほか、親切にしてもらえてほっとした。
リューマ族にも、つきあいが長くなれば慣れてきた。
結局、エリザのリューマ嫌い意識は、心が通わない戸惑いがもたらしたものだった。
いつぞやのことを後悔して、どうにか、リリィやカシュと仲直りを……と思ったが、二人は一の村に現れなくなっていた。
アリアからの手紙では、リリィが出産間近で大変だということだ。その後の子育てを考えると、リリィはしばらく現れないだろう。
リリィは、もう金持ちの奥様である。本来は、お菓子をわざわざ売らなくても、充分に暮らしていける人なのだ。
もしかしたら、これを機に、一の村には来なくなるかも知れない。
時間はどんどん流れてゆくもの。
霊山を下りて、多くの人と知り合った。
そして、多くの人がエリザの前から去っていった。
だが、新しい出会いもある。
リューマ族の男が、エリザを見るなり声をかけてきた。
「よ! エリザさん」
お得意様のガサは、あまり品のいい男ではない。太っていて首がない。
だが、エリザの薬を最もいい値で買ってくれるし、会話上手だった。
「エリザさんも、もう巫女の仕事は解かれて自由の身なんだろ? 世界は広いよ。あんたのようなべっぴんさんが、ムテで埋もれちゃもったいないよ」
ガサの口癖である。
リューマ族は、商品を運ぶついでに、優れた人材を外に連れ出そうとする者もいるから、用心にこしたことはない。当然、エリザは誘いに乗る気はない。
それに、癒しの巫女の地位は、自ら捨てなければ永遠のもの。おそらく、ガサは霊山の巫女のことを言っているのだろうが、癒しの巫女だって、最高神官の許可を得なければ、ムテの外へは出られないのだ。勝手に連れ去れば、ウーレン本国からお縄になる。
その事実が、エリザにゆとりでこの口癖を聞き流させていた。
「それより、ガサさん。今日は全部で銀貨五枚」
「っと……。今日は金貨しかねぇ。釣りをくれ」
エリザは、ポケットからお財布を出そうとした。が、何と忘れてきていた。
今日は、あまりにも荷物が多く、つい、うっかりしたのだ。
「あら、困ったわ。ガサさん、すぐに取ってくるわ」
と言って、エリザはますます困った。
ガサが買ってくれるものはいい。それ以外の物は、見張り番してもらわないとならない。だが、以前、預けた・預けないでもめた人を見ている。
その商人はガサではないが、同じことが起きないとは限らない。それで、やっと信頼関係を築きつつあるガサともめたくはない。
かといって、この荷物を再び持って帰るには……。
目を白黒させながら、悩んでいるところに、聞き覚えのある声が聞こえた。
「母様ぁあ!」
ジュエルの声だった。
振り向くと、はぁはぁ息を切らしながら、こちらに向かって走ってくるジュエルの姿が見えた。
エリザは、血が凍りつくほど驚いてしまった。
――こんなところまで来るなんて!
エリザの驚きの原因も知らず、ジュエルは満面の笑みを浮かべていた。
エリザの前まで来ると、すっとお財布を差し出した。
「母様、大事な物、忘れたでしょ? 僕、届けにきたの」
頬を桃色に染めて、息を弾ませながら、ジュエルは可愛らしい声で言った。
「へぇ? この子、エリザさんの子? うわっ! 見えないなぁ……」
ガサが、ヒューと口笛を吹いた。
そのとたん、エリザはジュエルの手からもぎ取るようにして、財布を奪った。
そして、ガサの手から金貨をとり、その手の上にバラバラと銀貨でお釣りを乗せた。うっかり一枚多かったが、確認もせず、エリザは言った。
「ガサさん、さようなら! また来月!」
そして、ジュエルの手を引っ張ると、まだこれから売るべき物をまとめて背負い、そそくさとその場を後にした。
「おーい! エリザさーん、お釣りが……ま、いいか」
ガサは、にやり……と微笑んで、銀貨を一枚失敬した。
エリザは、川沿いの道を急ぎ足で歩いた。
小さなジュエルは、無理矢理手を引っ張られる形になり、時々転びそうになった。
「母様? 母様? どうしたの? 手、痛い」
それでもエリザは足を止めることなく歩き続けた。
家に入るなり、鍵を掛けた。そして、さらに扉につっかえ棒をした。
荷物をどさっと置く。その態度で、ジュエルはエリザがものすごく怒っていると知り、後ずさりした。
案の定……。
「ジュエル! どうして言うことが聞けないの! 家を離れちゃいけないと、あれほど言っていたのに!」
ものすごい剣幕だった。
ジュエルは、思わず震えてしまい、小さな声でいいわけした。
「だって、母様が困っていると思って……」
「私は困らない! 困るのは、あなたが悪い子だってことだけよ!」
そう言うと、エリザは急にわーっと泣き出した。
それを見て、ジュエルも泣き出した。
「ご、ごめんなさい。母様……。僕、これからはもっといい子になる。母様を泣かせたりしない! 約束、守る!」
「そう言うのは何度目? いつも嘘ばかりじゃない! あなたには心がないんだわ! 私の心配する気持ちなんか、ちっともわからないんだから!」
八つ当たりだとわかっていた。
だが、エリザは時々どうしようもなくなるのだ。ジュエルの心が、闇に包まれていて、全く見えてこないから。
だから、エリザは必死になって、この子を守ろうとしている。
ところが、本人は、まるでエリザの心を逆撫でするように、無謀な行動を平気でとるのだ。
「いい子にする! もう、家からでないから……」
ジュエルは、何度も何度も、同じ言葉を繰り返して泣いた。
翌日……。
エリザは、ジュエルを家に閉じ込めて仕事に出た。
外から鍵を掛け、窓も締切り、ジュエルが誰の目にも触れないよう……。
ジュエルは泣きながら、家の中で絵を書いて過ごした。
その絵は、大きな鳥の絵だった。
ジュエルは、何枚も紙を連ね、巨大な鳥を書いたのだった。
数日前、一の村の上空を珍しい大きな鳥が通って行った。それを見たのは、孤独なジュエルだけだったかも知れない。
大きな巨大な影が石畳に落ちた時、空を見上げて偶然に見たのだ。
逆光で羽が透明に見える不思議な鳥だった。影をみなければ、気がつかなかっただろう。よく見ると、極彩色の美しい羽をしていた。
ジュエルは、その鳥は遠くに消えて見えなくなるまで、目で追った。
あの鳥のように飛んで行けたらいい……と思ったが、そう考えるのは悪い子の証拠だと思った。
その鳥は、ムンクという。
エーデム族が使う間者であることを、ジュエルは当然知らない。
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