嵐の前兆

ムテの中の小さな世界

ムテの中の小さな世界・1


 枯葉が舞い落ちる秋――


 エリザの一日は変わった。

 この二年間、日課としてきたことが、幸せな家庭とともにすべて消えた。

 ベッドをひとつ処分してしまうと、部屋が妙に広く感じられた。

 秋が日に日に深まり、日に日に寒さがつのってくる。心にも家の中にも、風が吹き抜けるかのようだ。

 狭苦しさに慣れてしまったら、がらんとした部屋は余計に寒い。今までいた人がいないというのは、実に寂しいものだった。

 ラウルがいなくなった翌日から、エリザは朝の祈りをやめた。 

 うしろめたいことなど何もないはずなのに、どうしてもラウルの言葉が耳に残って、祈れなくなってしまったのだ。


 僕は、ただの砦だ。

 この数年間、あなたが幸せだったのは、罪悪感なく思いのままに、最高神官を愛せたからだ。


 時間には目が覚めるのだが、祈ろうとすると気がとがめる。

 心を霊山に向けることが、苦痛だった。

 それは、最高神官との最後のやり取りのせいかも知れないが、エリザは考えないようにしていた。

 諸悪の根源は、誤解なのだから。


 ――すべては、誤解なのだ。


「でも、ラウルは……わかってくれなかった」

 このようにして、エリザは、かつてサリサを思って祈っていた時間を、ラウルを思って泣いて過ごした。

 一日の始まりは、いつも憂鬱だった。



 ラウルがいなくなってしまったので、ジュエルを一人で留守番させるようになった。 

 がらんとした家に一人は寂しいだろうと思う。

 だが、ジュエルは聞き分けのいい子で、エリザが出かけようとしても、駄々ひとつこねなかった。

「僕……ちゃんと留守番できるよ」

 と、潤んだ瞳で、口を一文字にして言い切った。

 心が闇のように見えない子供。

 エリザが、その言葉を額面通りに受け取ったのは、つい心話に頼ってしまうムテの欠点かも知れない。それとも、気がつきたくないことに目をつぶったからかも知れない。

 いずれにしても、ジュエルをひとりぼっちにさせておくことが、当たり前になってしまった。



 ララァたちが引っ越してしまった家は、借り手がいなかった。

 でも、エリザの薬草精製所はそのまま稼働していた。既に弟子を持っているエリザは、常に忙しく働いた。

 エリザは、時々合間を縫って、ララァたちが住んでいた部屋の掃除や空気の入れ替えを行った。椅子や机はもちろん、調理場もピカピカに磨いた。

 きっと、ララァもラウルも、エーデムでの生活が辛くなって、帰ってくると信じたのだ。その時、家がきれいになっていないと、かわいそうだと思った。

 しかし、その回数は徐々に減った。

 エリザは忙しかったし、家にジュエルを一人で残していた。掃除にかけられる時間は徐々に短くなり、手が抜けていった。

 そして……。


 ――暖炉に火が入る冬の頃。


 エリザは掃除するのをやめた。

 雪が積もった頃には、窓を開けるのもやめた。

 その冬、ついにその家の暖炉には一度も火が入らなかった。香り苔のベッドは使われず、白い影を見る者もいなくなった。

 クールが家の居住場所に大きな鍵を掛けるのを、エリザは虚ろに見守った。

 もう、待っても無駄なのだ……と、やっと悟った。

 エリザが夢見た平凡だけど幸せな日々は、消え去ってしまったのだ。

 結局、ララァもラウルも、二度とムテには戻って来なかった。



 エリザは、すでに一の村の癒しの巫女として、確固たる地位を築いていた。

 精製する薬と確かさと、薬草選びの目の確かさ。教え伝える知識の豊かさ、そして親切丁寧な指導。エリザは、いつの間にか尊敬される存在になっていた。

 だが、エリザは、常にどこかひとつ、心に一線を引いていた。

 時に、エリザに想いをよせる人も現れた。だが、誰にも、告白させる隙すら与えなかった。村人たちも、ラウルとの破局でエリザが傷ついているのだ……と思い、そっとしてくれた。

 確かにエリザは傷ついていた。

 幸せに見放された気がして、いつまでたってもこの悲しみが終わらないと思われた。

 誰にでも手が届く幸せに、エリザは届きそうにない。おそらく誰ともひとつ心を分け合う事ができない。

 きっと誰が現れたとしても、ラウルと同じ道を歩むだろう。


 雪に覆われてゆく窓の外を見ていると、ラウルのことが思い出される。

 ラウルとの最後の苦い口づけが、エリザを臆病にしていた。

 あの時、エリザは気がついてしまった。ラウルを愛したいと思っていたが、身も心も分かち合えない自分がいることに。

 ラウルは誤解したのではない。……絶望したのだ。

 白い世界に包まれて、エリザは知った。

 愛していたのはラウルではなく、彼と築くはずの幸せな日々だった。



 ぽっかりと空いてしまった心。

 エリザは、そのわびしさを埋めるように、ますますジュエルに固執した。

 そう、エリザには、もうジュエルしかいない。

 だが、悲しいことに、唯一の喜びになるはずの子供の成長が、エリザには喜びにならなかった。


 一部の人々は、四歳となったジュエルのことで、エリザをやはり遠巻きにした。

 成長するにつれ、ジュエルはますますムテとの違いを明らかにしていったのだ。

 漆黒の髪は、短めに切りそろえたが、やはり目立つ。深い青い目も、顔立ちがはっきりするにつれて、より目立つようになった。

 そして……何よりも成長が早かった。あまり同じ年代の子供がいないので救いだったが、ムテの子供と比べると、頭ひとつは大きかった。

 ジュエルを抱きしめれば、抱きしめた分だけ不安を感じる。

 誰かが、この子供を奪い、命を奪おうとしているような気がしてならない。抱きしめた手の間からも、子供の寿命はさらさらと抜け落ちて行くようだ。

 おそらく、ジュエルは、エリザの目の前で老化してゆく運命だ。

 ジュエルの行き先は、学び舎ではなく、祈り所の地下の棺桶の中かも知れない。

 エリザは、ますますジュエルを隠すようになり、一人で村を歩かせなかった。

 家の前の噴水までが、ジュエルがエリザに許された場所だった。

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