決別・15
「もう時間だ。僕は行く」
ラウルは、苛々していた。
もう自分の中では結論が出ていた。でも、最後の最後まで希望は捨てたくはなかった。
だが、やはり、エリザも結論を出している。エリザは、絶対に最高神官の側から離れられないのだ。
どこまでも平行線――。
強引にでも話を打ち切らないと、永遠に旅立てない。
「ラウル! 愛しているのに!」
背に、エリザの声が絡んだ。
いまだにそんなことをいうエリザが、何だか滑稽で哀れにすら思えた。
そして、ひとつも報われなかった自分も哀れに感じた。
ラウルは、松葉杖をつき、エリザの真正面まで歩み寄った。
「それなら、口づけしてくれ」
その一言に、エリザは思わず「え?」と小さな声を漏らした。
愛しあう恋人同士なら、挨拶がわりに何度でもすることだ。だが、エリザとラウルの間では、ほとんど交わしたことがない。
エリザはそれを望まず、ラウルもその気持ちを尊重して、交わすことがなかったのだ。
エリザは焦った。
サリサにはできたことが、ラウルにはなぜかできない。
心を語る部分を重ねあわせることが、どうしてもラウルにはできない。心のすべてを見透かされてしまいそうで。自分の一番汚い想いを、赤くドロドロとしたものを、見いだされてしまいそうで。
でも、ここで逃げてしまったら、ラウルを失ってしまう。
一瞬の躊躇の隙に、ラウルのほうが先に動いた。
あっという間に唇が重なる。それも……軽いものではない。以前、エリザのすべてを奪っていったような、強引で濃厚なものだった。
「い、嫌!」
あの時も今も、エリザは、やはりその口づけを拒絶しようとした。
壁に押しつけるようにして、エリザに身をよせて、ラウルは冷たく微笑んだ。
唇を重ねる前に、すでにラウルはよく知っていた。
エリザの肩を強く押さえつけて、吐き捨てるように、ラウルは言った。
「僕は、ふたつ心を許せない。愛しているようなふりをして、他の人を思うなんて、あなたはずるい!」
「ふたつ心なんてないわ!」
エリザは、慌ててラウルを突き飛ばした。
壁に押しつけていたのは、エリザを逃がさないためだけではなかった。片足しかないラウルは、あっけなくその場に転んだ。
杖が、カラン! と高い音を立てた。
「ごめんなさい! 怪我はない?」
エリザは一転、慌ててラウルを起こそうとしたが、彼は拒絶した。
「……確かにそうだ。ふたつ心でもない。初めから、あなたの心には、あの方しかいなくて、割り込む隙さえなかったんだ」
「ラウル! それは誤解……」
「誤解じゃない! 自分で自分に嘘をつくな!」
ラウルに怒鳴られて、エリザは反論できなかった。
「あなたが、毎朝、どういう祈りをしているのか、わからない僕じゃない」
ラウルは、自力で杖を使い、立ち上がった。
「ラウル……。怪我はない?」
「ない」
また怪我の心配だ。
エリザは、最後にそればかり。
「このまま、あなたと結婚したらどうなる? 僕は、あなたを抱くたびに、別の男を感じるんだ」
「ラウル、誤解よ」
まただ。
誤解なら、どんなによかっただろう?
「エリザ。僕は、ただの砦だ」
ラウルは、笑えてきた。
本当に【砦】という言い方が、ぴったりくる。
エリザは、常に最高神官へのただならぬ思いに恐れおののいてきた。ラウルは、どうにかそれを忘れさせてあげたかった。
だが、エリザは、ラウルの気持ちに答えたくても答えられなかったのだ。最高神官への想いゆえに。
今も全く変わっていない。
ただ、足を失ったことで、エリザはラウルを選んだ。そのとたん、ラウルはエリザのいいわけとなったのだ。
婚約者がいるのだ。
どんなに最高神官に思いを寄せたって、誰もが敬愛と受け取るだろう。
それを、自分のいいわけにして、エリザは幸せになったのだ。
「この数年間、あなたが幸せだったのは、罪悪感なく思いのままに、最高神官を愛せたからだ」
「そんなはず、ないじゃない!」
確かに、毎朝、最高神官を思って祈ってきた。
彼に会えると思うと、ドキドキした。身なりも気にした。そして、彼の言葉を大事にした。
エリザの生活は、最高神官への崇拝で成り立っていた。
だが、すべてのムテ人が、多かれ少なかれ、そうして生きている。エリザは、そんな一人に過ぎない。
ラウルの言い分は、絶対に納得できない。
幸せだったのは、最高神官を敬愛する等身大のエリザに戻れたからだ。ごく普通のムテの女として、最高神官と向き合ったからだ。
恋愛感情なんかではない。
エリザの中のドロドロした汚いものは、もう消え果てたのだ。
「ラウル。誤解よ! 私、そんな邪な気持ちなんてない!」
エリザは必死に否定した。
「百歩譲ってそうでないとしても、僕を愛していない。もしも、愛しているなら……心から一緒に生きていきたいと願ってくれるなら……一緒に来てくれ」
ラウルの言っていることは、間違っている。
本当にラウルを愛しているから、行かせたくない。
愛しているなら、何もかも包み込んで、守ってあげたいのが当然だ。
わざわざ危険に突き進むことを、絶対にやめさせる。
それこそ、愛だと思う。
その主張は、間違っていない。
だが、上手く伝える言葉も心も見つからない。ただ、手足が震えて、声も震える。
エリザは、ラウルから距離をとるように、後ずさりした。
でも、何かを言わないと、彼は誤解したまま去って行くだろう。
「私、ラウルが心配なの。エーデムで生きるなんて、そんなこと、できやしない。だって……ラウル。あなたは片足しかないのに」
そのとたん、エリザの顔に何かがぶつかった。
「きゃ!」
思わずエリザは悲鳴を上げ、床に倒れた。
飛んで来たのは松葉杖だった。
ラウルが、片方だけエリザに投げつけたのだった。
「あなたは忘れている! 僕は、片足でもあなたより速く走れる!」
言ってはいけないことを、エリザはうっかり言ってしまったのだ。
それに気がついた時は、もう遅かった。言葉はすでに、ラウルの耳にも心にも届いてしまった。
ラウルは、エリザを助け起こすこともなく、片方の杖だけで背を向け歩きだした。
そして、扉の前で振り返ると言い残した。
「片方の杖だけなら、僕もゆっくりしか歩けない。きっと、あなたと同じくらいだ。だから……追いかけてきたら、すぐに追いつける」
ぱたん……と扉が閉まり、ラウルは出て行った。
エリザは、呆然とした。
「違うわ……。それは誤解よ」
くどいぐらいに呟きながら、立ち上がろうとした。
だが、腰が砕けて立ち上がれない。
「ラウルは……私がいないと……」
エリザは呟いた。
彼は体が不自由だ。エリザの手が必要だ。
ラウルの足は速いけれど、何でも一人でできるようだけれど、それは……違う。本当の姿ではない。
エリザの頭に浮かんだのは、暮らし始めたばかりの頃、死んだほうがマシだと言って、泣き崩れたラウルの姿だった。
エリザの支え無しで生きられるはずがない。
「それに、夜に足が痛んだらどうするの? ねえ、ラウル……行かないで」
そう。
エーデムにラウルを癒せる者なんかいない。
ラウルは、足を失っているから、癒せる人が必要なのだ。
ムテを離れて生きていけるはずがない。
「外の世界なんて……。無理に決まっている」
エリザは、ラウルの投げつけた杖を支えにしたが、それでも立てなかった。
たとえ立ち上がれたとしても、ラウルに追いつきそうにない。
ラウルには義足も必要だ。だから、エリザが霊山に行って医師と相談しなければならないのに。
ラウルはエーデムの商人に騙されてるのだ。義足技師なんているはずがない。都合のいい夢に踊らされているだけなのだ。
片足で夢を追いかけてもつまずくだけ。ラウルにはできない……に決まっている。
「ダメよ! 絶対にできない!」
エリザは、そのまま床に伏せて泣きだした。
「私たち、サリサ様の恩恵がないと生きられないのよ、ラウル! 行かないで」
どうしても、最高神官の祈りの届かないところへなんか、行けない。
サリサ様の気を感じないところでは、生きていけない!
ここを離れるなんて……嫌!
ラウルは、風に煽られながらも、ぎこちない足取りで歩いていた。
さすがに松葉杖一本で、しかもこの強風では、前に進むのは困難だ。だが、ラウルは振り返らなかった。
エーデムについたら、義足を手に入れられるだろう。ムテでは努力のかいもなく、手に入らなかったものだ。
エリザの一言に、ラウルは心から傷ついた。
それなのに、恋心とはバカバカしい。バカバカしいゆえに、結末がわかっていたのに、失いたくなくてここまで傷ついたのだが。
未練がましく、何度も止まった。自然に、何度も涙が頬を伝わった。
恋愛は、たった一人の勝者しか選ばない。
それにしても、なんと報われない恋だったのだろう? もう二度と、誰も愛したくはない。
その時、こつん……と腕を叩くものがあった。
ラウルは、胸に熱いものを感じた。エリザは追いかけてきたのだ。
まさか……無理だと思っていた。だが、希望は繋がったのだ。
――わかってくれたんだ。
そして……僕を選んでくれた。
ラウルは、そっと振り向いた。
だが、そこにいたのは、エリザではなく、小さなジュエルだった。
「ラウル、杖いる?」
かわいい手で、自分よりも大きな杖を渡してくれた。
やはり、エリザはラウルの気持ちを全く理解してくれなかった。
充分絶望していたが、さらに絶望した。
ふと、ジュエルの頭を撫でて、シビルの言葉を思い出した。
――この子は……連れていったほうがいいのでは?
ジュエルとラウルは、似た者同士だった。
本当にエリザの子供でないとしたら、ムテに縛られているのは、この子に何一ついいことがない。
「ジュエル。僕と一緒に、新しい世界に行くか?」
ジュエルは、群青の目を輝かせたが、首を横に振った。
「うううん、母様、泣いていたから」
血の繋がりはないとしても、エリザがこの子に掛けてきた愛情は偽りがない。そして、この子もエリザを愛している。
そして、男女の愛情はなかったとしても、エリザとラウルの間にはいい関係があった。確かにそれもエリザの幸せだったのだ。
「そうか……。そうだな。エリザをよろしくな」
ラウルは再び歩き出した。
泣いたのは、けして、無くなった足が痛んだからではない。癒された足の思い出が痛んだのだ。
松葉杖が揃い、追いかけてくれる人の気配もない。
自然と足は速まった。
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