ムテの外の荒れた世界

ムテの外の荒れた世界・1


 サリサが、霊山の仕え人たちの最も理想的な最高神官であった時代――それは、間違いなく、エリザがラウルと別れ、サリサのもとへと戻ることも拒絶した、この一年だった。

 エリザが霊山を去ってしまってから――特にラウルと一緒に暮らしていた二年間は、サリサにとって心休まる日がなかった。

 抑えきれない気持ちや一緒にいられない寂しさ、そして、激しい嫉妬の日々。

 人にあたり、物にあたり……自分らしからぬ行動を繰り返し、すっかり自分が嫌になっていた。


 正直、疲れ果てていた。


 エリザが、エーデムに行って幸せになってくれたら……が、サリサの本心だったかも知れない。

 彼女がラウルとともに旅立たなかったことを知っても、サリサはにこりともしなかった。結局、エリザを慰めようとも、心配して手紙を書く事もしなかったのだ。

「もうエリザ様の力にならないおつもりですか?」

 書類の仕え人が怪訝な顔をする中、サリサはリールベールに一杯の薬湯を所望して一言。

「心を尽くすことに疲れました」

 それだけ言って、部屋に引きこもった。


 諦め……。

 虚しくもぽっかり開いたまま、固まった心の傷。

 どうにか血が止まったのに、再び引き裂かれるのは耐え難い。

 エリザを慰めるには、あまりに辛い日々をサリサは送り過ぎてしまった。

 それでも、もしもエリザが朝の祈りでサリサのことを祈ったら、彼はまた囚われてしまっただろう。だが、祈るエリザの気を感じることはなかった。

 それは、サリサを虚しくさせたが、同時に、ほっとさせた。

 サリサは、心の隙間を埋めるように、最高神官としての仕事に没頭したのだった。



 ラウルが去って半年もした頃。

 突然、霊山にエーデムのシビルが、ひっそりとサリサを訪ねてきた。

 市まではリューマ族を従えてきたが、霊山には一人でこそこそやって来た。

 ラウルに何かあったのか? と不安になり、入山を許可した。


 折しも夏。

 彼は、レースのついたハンカチで何度も額を拭いながら、直接最高神官の居室まで来た。これも、ありえないほど異例なことではあったが、おかまいなくーとニコニコして、仕え人たちがあっけに取られている間に、当たり前のように入って来てしまったのである。

「ああ、本当に。山は少しすずしいのかと思ったのですけれど」

「すずしいはずですが、ムテの結界がこたえたのでしょう。こればかりは、私の力ではどうにもならない時もありまして……」

 サリサは、少し顔をしかめた。

 シビルに意地悪したのではない。真実なのだ。

 ムテの霊山の気は、まるで荒れ狂う嵐のよう。押さえ込むには力がいる。まるで諸刃の刃のように、時に最高神官の力を温存させ、時に消費させる。

 その手綱具合は、とても難しいのだ。

 いかにエーデム族がムテ人と種族的に近いと言われようが、異種族でここまでズカズカ立ち入るのは相当の精神力だ。それだけ、密な話なのだろう。

 リールベールに退室を命じると、シビルはニコニコしながらハンカチをハタハタと振った。

「ああ、そんなおかまいなく。冷茶なんていりませんから」

 エーデム族は平和ボケ……と、よく言われているが。

 さすがのサリサも気が抜ける。人払いしたほうがいいことか……と思い、気を遣ったのに。

「ラウルさんの近況ぐらい、報告すべきかな? と思いましてね。彼は、とても元気ですよ」

 シビルほどの人物が、わざわざエーデムを抜け、通行許可までとって、ずうずうしくここまで来て、それだけの用事とは思えない。

 シビルはにこやかに笑ったままだった。が、そのハンカチは動きが止まった。

「秘密のことなんて、何もありませんよ。ただ、リューマやウーレンで広がっている噂の話を、ムテの最高神官はご存知かと思いましてね」


 ――死んだはずのウーレン皇子は、生きていてどこかに幽閉されている。


 サリサの顔色が蒼白になる中、シビルは小声で囁いた。

「その子を隠しているのが、ムテの最高神官だなんて、誰も言ってはいないですけれどね」

 ジュエルを受け取った時の、恐怖の記憶が蘇った。

 その後を考えて、一度は命を奪おうとすら思った、あの恐怖。

 思えば、あまりにも簡単に、ラウルはジュエルをリューマ族の市に連れ出していた。ムテで目立つ黒髪の子の存在は、すでに一部で知られている。

「サリサ・メル様、お気をつけなさい。ウーレンの間者には、血を読むのに長けている者もいますよ。あなたのように、あの子の父親さえわかる者はいなくても、あの子にウーレンの血が流れていることを感じる者もいることでしょう」 

 ということは、シビルにはジュエルの正体がばれているのだ。

 そして、彼が知っているとなれば、エーデム王も当然真相を知っている。

 思えば、最近、エーデム王の間者でもあるムンク鳥が、随分と多く飛んでいるなぁ……と感じていた。



 シビルが帰ったあと、サリサは苛々して、狭い部屋の中を歩き回った。

「またバカなことをしている!」

 ジュエルの父として……ではなく、最高神官としてでも、このことは放っておけないことだったのに。

 エリザとのことで疲れ果ててしまい、気を払うのをやめていたが、ジュエルはもう既に外の世界に触れている。

 ジュエルという子供を殺せなかった時点で、もうサリサは危険を抱え込んでいたはずなのに。恐ろしい予兆を感じていたはずなのに。


 突然、ふっとおかしくなり、サリサは乾いた声で笑った。


 エリザと三人の親子ごっこがしたくて……。

 ジュエルを我が子だと思うよう、努力した。ジュエルを守るためにずっと結界を張っていた。

 その結果……自分で自分に暗示をかけてしまい、あの子供の危険を忘れ去っていたのだ。

 もうすでに、ムテでは受け入れられないジュエルを、エリザと一緒に蜜の村に帰してしまう……というとんでもない間違いを犯している。

 そしてまた、穏やかに流れてゆくく日々の中……ジュエルとエリザの親子ごっこが、永遠に続くと信じかけていた。


 サリサは、書類の仕え人を呼び出し、ジュエルを見張るよう命じた。

 久しぶりの命令に、仕え人の言葉は少し高揚していた。

「エリザ様の近況を、ご報告すればいいのですね?」

 サリサは、眉間に皺を寄せた。

「ジュエルの……です」


 そう……。

 ジュエルが心配なのだ。

 エリザは……もういい。


 サリサはそう言い聞かせた。

 どんなに愛しても、彼女には通じない。完全に目を閉じ、心を閉じているのだから。それが、彼女の護身で護心なのだから。

 それに振り回されて、最高神官としての責務を忘れてはならない。

 だが、寝る前についつい、再びペンをとった。

 何年ぶりにエリザに手紙を書くのだろう。

『ジュエルに気をつけて』と書いては消し、頭を抱え込んだ。

 そして、最終的にはかつて書いたような簡単な近況と『ジュエルは、私の子でもあります。悩みがあったら相談してください』と、さりげなく書いて封をした。

 どのような返事が来るだろう?

 ジュエルの身辺に奇妙なことが起きていないだろうか? エリザは変わらなく元気なのだろうか?

 ドキドキしながら返事を待ったが、結局返事はこなかった。

 こないかもしれないと思っていたが、本当にこないことに胸が痛んだ。

 エリザの大きな瞳を思い出し、サリサはため息をついた。


 どのように遠く離れても、エリザと子供を守り続ける。

 そう誓ったのは、一体、いつのことだっただろう?

 結局、サリサも現実から目をそらし、エリザとの家族ごっこを壊せないでいる。


 やめよう。

 もう……諦めたことなのに。



 仕え人の報告に、おかしな点はなかった。

 ただ、エリザは、まさにウーレンの噂通り、ジュエルを幽閉しているような生活らしい。リールベールが顔をしかめたが、ジュエルの身の安全を考えると、エリザは正しい。

 女の直感というのだろうか? ジュエルへの盲目的愛で正しい判断力のないエリザが、サリサやラウルよりも、あの子供が持つ良からぬ気に敏感に反応して、この世界から隔離しようとしている。

 ジュエルは、不憫な子だと思う。

 かわいそうだが、このまま誰にも見つからないまま、ムテの平和の中で一生を終えるのが、一番の幸せだろう。

 ウーレン皇子が生きているという噂は心配だが、ジュエルまでたどり着く者はそうそういないだろう。

 ムテは、籠の中のように閉ざされた世界だ。


 だが……ジュエルの監視は、常に怠れない。


 シビルの忠告は、ムテを守っている最高神官ですら、ムテの中の籠の鳥であること、外の嵐を知らない身であることを教えてくれた。


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