ムテの中の小さな世界・4


 ――秋。


 冬の備えで忙しくなった頃、ジュエルがいなくなってしまった。

 夕食の準備に間に合うようにと、慌てて帰ってきたエリザは、家に誰もいないことに、すっかり気が動転した。

 最近はいい子になって、家でおとなしくしているから、鍵をかけることもなく、噴水前までの外遊びも許していた。

 出かける前、ジュエルは楽しそうに石畳の上に鳥の絵を書いていた。家の中では見られない伸びやかな線で。

 エリザは、目を細めて微笑み、行ってきますね……と言って出かけた。

 笑っている場合じゃなかった。

 油断したのだ。


 ――あの子は私のすべて。

 あの子を失ったら……私はすべてをなくしてしまうわ!


 エリザは、後悔の念と心配とで気が狂いそうになりながら、あちらこちらを必死で探しまくった。

 そしてついに、川辺で膝を抱えてちょこんと座っているジュエルを見つけた。

 大きな声で怒鳴ろうとした。叱ろうと思った。

 だが、夕陽に染まることもない黒髪の頭をたれ、水面を見つめている後ろ姿が、あまりにもかわいそうに思えて、ぐっとこらえた。

 誘拐されたのでも、誰かに殺されたわけでもない。

 ほっとした。そのままの笑顔で、ジュエルを連れて帰ろうと思った。

 だが、そっと子供の肩に手を置いた時……。

「母様……」

 うつむいたまま。か細い可憐な声。

 差し出した手を、ジュエルは繋がなかった。かわりに、闇の瞳を潤ませて、エリザを見つめた。

 夕闇が深くなってゆく。

「母様……。とりかえっ子って、どういうこと?」

 そのとたん、ジュエルの目から大粒の涙がこぼれ、後から後からと頬を伝わった。

 エリザは、思わず言葉を失い、そのままジュエルを抱きしめた。


 ……誰が、そのようなことをこの子の耳に入れたのだろう?


 いや、それよりも。

 エリザ自身が、ジュエルの黒髪や群青の瞳を疎んでいた。

 本当は、漆黒の髪でも青い目でも、かわいい我が子に違いなかった。むしろ、エリザは、この髪の色も目の色も、愛しくてたまらないと思うようになっていた。

 なのに……あまりにも、最高神官に似ていなくて。

 それが、あまりにも、辛くって……。

 何度も何度も、この色が抜けて落ちればいいと思った。


 ――この子は、何も悪くないのに……。


 心がないんじゃない。ただ、わからないだけ。

 エリザは、それを知っていた。

 なのに、まったくゆとりがなくなって、すっかりジュエルに心があることを、見なくなってしまったのだ。

 ごめんね、ごめんね……。

 心の中で何度も叫んで、エリザはジュエルを抱き上げた。

 そして、家に連れて帰り、夕食にした。

 温かいスープと野菜入りのオムレツ。パンと蜂蜜。焼き菓子とお茶。贅沢な食卓ではないけれど、ジュエルは美味しそうに食べてくれる。

 口の回りを蜂蜜だらけにしても、エリザは微笑んでそれを拭き取った。

 小さくて温かな、エリザとジュエルだけの世界がそこにあった。

 やっと子供らしい笑みがもどったジュエルの顔を見て、エリザは硬く心に決めた。


 ――もう二度と……。

 この子のことを、誰にもそのように言わせない。




 ――冬。


 エリザはできるだけ家で過ごした。

 弟子たちに教えることも減り、薬草精製の仕事もほどほどにできた。家でできる作業をしたり、編み物をしたりして、日々を送った。

 雪に閉ざされた家は、まさにエリザとジュエルを包み込んで、穏やかだった。

 親子二人だけの世界は、小さいけれども幸せだった。

 エリザが編み物をしていると、時々、ジュエルは自分の書いた絵を持ってきた。エリザが褒められると、ものすごく喜んだ。

 ジュエルは、せっせと絵を書く。

 その絵を見ていると、子供にしてはとてもうまいと思ってしまう。

 以前、最高神官からの手紙に『絵心がある』と書いてあったのを思い出し、エリザはくすっと笑った。


 その頃になって、エリザは朝夕に祈るようになった。

 ジュエルのことを考えれば、霊山にうしろめたさを感じている場合ではないと、やっと開き直りはじめていた。

 それに、マヤが子供を連れて山下りしたと聞いて、どこかほっとした。圧迫されていたものが、緩んだ感じだった。

 今、霊山には、祈りを補助する巫女姫もなく、最高神官は一人だった。

 おそらく、祈りは厳しいものになっている――と思って、エリザはびっくりした。


 ――私ったら……。

 サリサ様は、立派な最高神官。私のような情けない人じゃないのに……。

 心配してしまうなんて、おこがましいもいいところだわ。


「絵……しゃりしゃしゃまにも見せたいなぁ。ねぇ、母様」

 エリザは笑った。

 もうほとんど言葉が使えるはずなのに。ジュエルときたら、『ははさま』は言えるのに、『サリサ様』には、いまだ、口が回らないのだ。いっそのこと『とうさま』と言わせることができたら……。

 などと考えてしまい、目を丸くしてしまった。

 ラウルと出会う前、エリザの幸せな家庭の夢は、常に相手がサリサだった。だから、とても夢が辛かったのだ。

「サリサ様は、最高神官であらせられるから、そのようなことはできないのよ。でもね……」

 エリザは、ジュエルの小さな手をそっと合わせた。

「こうして手を合わせてね……霊山のほうを向いて、お祈りするの。そうしたら、サリサ様も、きっとジュエルのことを感じてくれて、喜んでくださるわ」

「うん」

 ジュエルは素直に、手を合わせ、目をつぶり、ブツブツと何かを言いながら、祈り始めた。

 その祈りは、まったく心話になっていず、霊山に届くはずのないものだった。だが、エリザは微笑ましく思い、一緒に並んで祈ったのだった。


 こうして、雪解けの頃には、エリザとジュエルは、朝夕並んで祈るようになった。

 霊山の懐に抱かれて、日々、祈りながら、親一人子一人のささやかな生活。これもまた、幸せというのかも知れない。

 だが……春の嵐が吹く頃に、エリザは再び鬱になった。 

 すべての夢が失われて、エリザに残ったのは、ジュエルだけ。だがこの冬、ジュエルは五歳になった。

 彼を、学び舎に上げなくてはならない。手放さなければならないのだ。

 明日にも霊山から通知が来るかと思えば、エリザは怯え続けた。

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