マールヴェールの誓い

マール・ヴェールの誓い・1


 ――エリザが、ジュエルを捨てた……。



 サリサが、その衝撃の情報を得たのは、湯浴みの最中。

 長い髪を洗い終わり、ゆったりと薬湯に浸かってくつろいでいる時だった。

 慌ただしく書類の仕え人が入ってきて、リールベールの顔が歪んだ。

 当然、最高神官は全裸である。そのようなところに、このような無礼は、はなはだ迷惑である。

 サリサが、書類の仕え人にどのような緊急も許し、耳打ちすら許していたのは、ラウルとエリザがつきあっていた頃。

 それ以来、彼の報告で緊急を要したものは、ほとんどなかった。仕え人らしからぬ紅潮した顔なのは、無礼した恥ずかしさと、息を切らせて走ってきたからである。


「恐れながら……」

 と、彼はかしこまった。

 報告を聞いたとたん、リールベールは別の意味で顔を歪ませた。

 大事件である。

 仕え人二人にとって、これは晴天の霹靂だった。


 サリサは湯船につかったまま、しばらくじっと水面を見つめていた。

 全く予想できなかったことではない。夢見もあった。

 だが、エリザのジュエルに対する愛情の深さは変わっていないように見え、真実を知るという試練は、もう乗り越えたかに思えていたのだ。

 ばさっと体を起こすと、不安の波が打ち寄せてきた。



*****



「……でも、私はやっぱりあの子の母親ですから……」



 赤い嵐が吹き荒れたその日。

 なんと、ウーレン王は自らムテを訪ね、ムテの最高神官とジュエルの今後について話し合い、今まで通り、ムテでジュエルを守り育てる約束がなされた。

 サリサはエリザに一の村の祈り所でジュエルの秘密を打ち明けた。涙を流しながらも、エリザはいった。


 その言葉を、その時は額面通りに受け止めたのだ。


 長年の秘密から解放され、サリサはすっきりした気分で霊山に戻って行った。

 思えば、サリサはエリザに「辛いことは分け合おう」と言っておきながら、一番大事なことを言えずにいたのだ。初めてサリサはエリザと一緒に試練を乗り越えた、と思えた。

 上機嫌で、薬湯を飲んでいると、リールベールが楽しそうに話しかけてきた。

「サリサ様がお戻りになられて、ほっとしました」

「まさか? 私が霊山に戻らないとでも?」

「ええ……。エリザ様がジュエル様の真実を受け入れられないとしたら、ずっとあの方の側にいて、離れないのでは? と……」

 いや、それ以上のことが起きたのでは? と、リールベールは心配していた。

 サリサは、くすくす笑った。

 確かに……そうだったかも知れない。

 エリザがわかってくれなかったら、サリサはずっと……永遠にでもエリザの手を握り続けていたかも知れない。でも、実際はそうではなかった。


「私は最高神官です。そんな個人的な感情で、自分自身の身をふるほど子供ではありませんよ」



 サリサの思惑通り、全ては事が進んだかのように思えた。

 ウーレン王の保護のもと、ジュエルの安全は確保された。

 刺客を送り込まれることは無くなり、リューマ族のジュエルに対する興味も、エリザが徹底的に家から出さないことで、一段落着いたようである。

 エリザは、一の村で、相変わらずジュエルと親子水入らずの生活を送っている。

 サリサは、エリザの朝夕の祈りに癒され、励まされている。

 一対の相手を持たない最高神官としては、もっとも望ましい愛の形かも知れない。


 ――サリサ様は、エリザ様のために、命を投げ出すのでは?


 リールベールは、一連の騒動で妙な心配をしてしまった……などと、自分を笑った。

 医師と癒しの者は、新しい巫女姫がいないので暇なのか、よく喧嘩している。霊山らしからぬことだ。

 リュシュはお菓子を焼きながら、エリザ様はひどい、いっそ、マヤ様のほうが優しくていい、などとブツブツ言っている。ついでに、のし棒と型も欲しかったのに……などと文句を言う。

 書類の仕え人は、相変わらず淡々と二人を観察している。そして、事細かにサリサに報告することを生きがいにしていた。


 平和で今までとなんら変わらない日々。


 だが。

 全ては表面に現れなかっただけ。

 真実は毒となり、エリザの心をどんどん蝕んでいたのだ。



*****



 サリサは湯浴みを終えると、着替えのうちに書類の仕え人を呼び戻した。

 そして、より詳しい情報を聞いた。


 エリザは、市に来ていたリューマ族に、ジュエルを養子に出してしまったらしい。

 それも、実に衝動的に……である。

 少し考える頭があれば、ジュエルが人間であり、ウーレン皇子であり、今や直々にウーレン王から頼まれている子供であり、元神官の子供であることを思い出して、けしてそのようなことをしなかっただろう。少なくても『父親』を名乗るサリサには、何らかの相談があって然るべきである。

 誰もができる判断というものを、エリザはすっかりなくしていた。

 そして、今ではすっかり後悔して、祈り所にこもって泣き暮らしているとのことだ。


「リューマ族? それは、とてもまずいかも知れません。ジュエルの正体を知ってのことかも知れません」

「ですが、サリサ様。どうやら、その男はかなり前から、子供ができないので養子が欲しいと、黒髪で青い目の子供を探していたようですよ。ですからきっと、純粋にそういう子を養子にしたかったのだと思いますが」

 その男は、二年ほど前から、エリザの回りに現れ始め、親しくしていたという。そして、養子にする子供を捜していた。

 ウーレン王とのジュエルの取り決めがなされる前からの話だ。

「だから、ますます怪しいとは思いませんか? ムテには、黒髪の子供も青い目の子供もいるはずがありません。一般的には。なのに、なぜ、わざわざムテでそんな子供を捜すのですか?」

 それだけ、用意周到……とも言える。

 逆に言えば、それだけのことをして手に入れたのだから、ウーレンの人間狩りにたいした金額にもならない金で売ることはないだろう。

 安心できる状態ではないが、ジュエルの身の安全という意味では、まだ、希望が持てる。

 ただ……相手もジュエルの重要さを知っているということだ。


 ジュエルは、魔族を滅ぼす運命の子供となるだろう。


「それで、何という人に養子に出したのです?」

 書類の仕え人は口ごもった。

「……調べきれませんでした」

 書類の仕え人は、リューマ族が苦手だ。市場に調査にはいけなかったらしい。

「どうも、あまり商人の間では知られている顔ではないらしく……」

「エリザに聞くしかなさそうですね」

 着替えを手伝っていたリールベールが、突然言葉を挟んだ。

「エリザ様を霊山に呼び出します」

 サリサは、怪訝そうな顔をした。

「私が祈り所に行きます」

「……いいえ、あの方は霊山の許可なく、ジュエル様をウーレン皇子と知りながら、勝手に養子に出したのです。呼び出して、事情を聞くのが筋かと……」

「ことを荒立てて、まだウーレンに知られたくないのです。私が行って聞いてきたほうがいいでしょう」

 サリサが出て行こうとした時、リールベールは思わず背中に声をかけた。

「サリサ様!」

 サリサは止まったが振り返らなかった。

「サリサ様は、ジュエル様のために行くのですか! それともエリザ様のために……」

「もちろん、ジュエルの情報を得るためです」

 銀の影が岩屋から消えた。


 サリサが出て行った後、リールベールはため息をついた。

「今度こそ……嫌な予感がします。最高神官を山下りさせたら、もう戻ってこないような……」

 湯浴み場掃除に来ていたリュシュが、深刻そうなリールベールの顔を覗き込み、笑い倒した。

「大丈夫ですよぉ! もう、サリサ様はエリザ様なんて、なーんとも思っていませんよ! 考えすぎ、考えすぎ!」

 リールベールは、じろり……とリュシュを睨んだ。

「あなたは、霊山の仕え人として、考えなさすぎです」

 書類の仕え人が、やり取りを聞いてうつむいた。

 リューマの市の情報が不充分だったために、サリサに山下りされ、しかも戻ってこないのでは? などと言われたら、気持ちがよくない。

「私も不安になってきました。様子を見に追いかけます」

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