マール・ヴェールの誓い・2
祈り所は、薄暗く陰気なところである。
灰色のマントを深く被り、顔と銀の光を隠しながら、サリサは中に入っていった。
四方に小さな祈りの空間があり、数人の村人たちが、何か辛いことがあったのか、祈っている。
その中に、エリザの姿は見当たらない。
サリサは、祈りの邪魔にならないよう、足音も立てずに歩いてた。そして、さらに下の宿泊所へと降りて行った。
かつて、エリザにジュエルの秘密を打ち明けた場所。そこにもエリザの姿はなかった。こうなると、もう一般の人が入れるところはない。書類の仕え人の情報が間違っていたのか? とも思ったが、サリサは考えをすぐに改めた。
エリザは、かつてこの祈り所に五年近くも籠っていた。
苦しい思い出の場所であり、二度と来たくないところだとしても、いや、だからこそ、激しい後悔に苛まれている今、その闇に身をゆだねたいと思うだろう。
管理人たちを呼ぶと、やはりそうだったらしい。
「サリサ様。ですがね、エリザ様は誰にも会いたがらないんです。もう三日間も地下の祈り場を一人で占領して、食事もとらずにいるんです」
「わしら、祈りの場をとられちまったよぉ……」
「でものぅ、エリザさん、かわいそうでみとれんのよぉ……」
「代わってやれるなら、代わってやりたいがの、わしみたいな老いぼれにはなりとうないだろな……しゅん」
腰が曲がった者、足が不自由な者、歯が抜けてあまりうまく話せない者。管理人たちは、ムテでは珍しい老人ばかり。多くの人々が忌み嫌う。
だが、彼らの様子を見ていると、エリザがどれだけ彼らの世話をしていたのか……がわかる。管理人たちから見ても、エリザは孫娘のような存在なのだ。
彼らは、誰にも会いたくはないというエリザの願いを聞き入れて、その場所にエリザを入れて、現実からかくまっている。
サリサは、燭台に火をつけた。
暗闇に小さな灯りが揺らめいた。
そして、ゆっくりと地下の祈り場へと、歩を進めた。
ムテ人の力は、光によってもたらされる。闇は恐怖だ。
だが、闇は絶望でも死でも、ましてや悪でもない。生命の活動を抑え、休養し、新たな命を育む空間だ。
絶望が深いからこそ、闇に籠り、光を求めて祈る。
だから、きっと……エリザも光を求めているに違いない。
やがて、闇の向こうから、コトリ……と、音がした。
ずっと机に顔を伏せていたエリザが、光の気配を感じて、顔を上げたのだ。
だが、ぼんやりと闇に浮かんだエリザの姿は、サリサに会うのを恥じるように、再び背けられた。
「サリサ・メル様……」
机の上に燭台を置くと、まるで死人のようなエリザの顔が闇に揺らめいた。
大事な子供を捨ててしまった非情な母親……それが、今のエリザだった。
サリサには、全く責める気は起きなかった。むしろ、ここまで彼女を追いつめてしまったことに、自分が情けない気持ちでいっぱいだった。
「エリザ……。これは運命だったのです」
サリサは、自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
ジュエルは、生まれ落ちた時に死ぬ運命を免れた。
エリザに出会って衰弱死を免れた。
そして……今、巡り巡って、本来いるべき嵐の中に運ばれて行った。
それも、運命だったのではないだろうか?
あの子がたどるべき道であり、抗えないものだったのではないだろうか?
そう思えば、エリザはむしろ翻弄されたのだ。ジュエルが持って生まれてきた宿命というものに……。
ジュエルは、もうムテの手の届かないところへと行ってしまった。
今、サリサにできることと言えば、全てをウーレン王に報告し、彼に任せることだけだ。
心配以外にできるのは、それしかない。霊山に籠る身としては。
ウーレン王は、我が身を危険にさらしても、きっとジュエルを救い出すに違いない。ムテは、すべての命運をウーレンにゆだねるしかないのだから。
それに……。
きっと、エリザは限界だった。
自分の子供だと思っていたから、誰もが恐る人間の子供をあれだけ慈しんだのだ。
自分の子供を死に追い込んだ子供と思えば、変わらない愛情を注げるはずがない。
その結果が……これなのだ。
サリサは、何度か言葉を噤もうとして、言いよどんだ。
そして、やっと小さな声で口にした言葉は……。
「あなたが失ったものを、私は与えることができるかも知れません……」
エリザはすすり泣くのをやめ、大きな瞳でサリサを見つめた。
意味を計りかねているのだろう。サリサはそっと手を伸ばし、エリザの頬に触れた。そして、そのまま頭を引き寄せ、抱きしめた。
「もう一度、私の元へいらっしゃいませんか?」
――それは、また巫女姫として霊山に来て欲しいという願い。
サリサの胸の中で、エリザが小さく呟いた。
「……もう……一度……?」
「もう一度、初めからやり直して、今度は幸せになるのです」
エリザの手が、サリサの衣装の胸元をぎゅっと握りしめた。やがて、さらに小さな声で、呟いた。
「もう一度……サリサ様のお子を生むのですか?」
「そうです。もう一度……愛しあって」
エリザはびくりとして、顔を上げた。だが、サリサは腕を放さなかった。
そのまま引き寄せて口づけした。
エリザが霊山にいた時は、何度も二人の間で交わされたこと。
やや戸惑ったように最初は軽く拒んだエリザだったが、やがてサリサの髪に指を絡ませた。
――もう一度。
二人でやり直して……愛しあって。
失った子供をもう一度……。
「……取り戻したい」
「……取り戻せますよ」
お互いの唇を味わったあと、エリザはサリサの手の中にいた。
久しぶりに心が近寄った感じがした。
悲しみに凍り付いていたエリザの心が、手の中でゆっくりと解けてゆくのが、サリサにはわかった。
この人を守りたい。
ジュエルを救うには、ウーレン王への詳細な報告・協力は欠かせない。
だが、そうなれば……エリザは重罪に問われるだろう。ウーレン皇子と知って、ジュエルをリューマ族に手渡したのだから、命で償うことになりかねない。
霊山で聖職者として保護して、どうにか、ウーレン王の逆鱗に触れぬよう、言葉を選んで……許しをこうしかない。
そして……もう二度と離さない。
愛することに疲れすぎて、距離を置いていた。
だから、エリザの苦しみに気がつかず、相談もされなかった。
エリザはもう泣いてはいなかった。
「……サリサ・メル様」
吐息のような声で、エリザは呟いた。
その甘ったるい響きが、サリサを幸せな夢に引き込んでいた。
が、すくっと上げたエリザの顔は、やや蒼白で、瞳はまだ涙が潤んでいた。
「私にジュエルを追わせてください」
一瞬。
何を言われたのか、わからなかった。
「私の……結界を抜けていくのですか?」
エリザは大きくうなずいた。
サリサの結界を抜け、ムテを出て行く。
――まさか!
サリサには、それでもピンと来なかった。
ラウルがエーデムに行くと言ったとき、エリザは激しく拒んだ。
サリサの祈りが届かないところでは、生きていけない! と泣き叫んだ。
――そのエリザが……ムテを捨てる?
「それは正しいこととは思えません。おそらくあなたは、ムテ以外では生きることができません」
サリサは気持ちの整理もおぼつかないままに言葉にし、眉をひそめた。
「あの子を失って、このムテで生きていけるとは思えないのです。サリサ様、お願いです。私に、あの子を追わせてください!」
エリザの気迫に、サリサは飲み込まれた。
「たとえあの子の運命が私を離れたものであったとしても、私はあの子を見守っていきたいのです」
サリサの頭の中は、一気に色々な事が浮かんで、ごちゃごちゃになった。
まず、一番最初に浮かんだのは、やはり、エリザにはジュエルを追えないということだった。
お人好しで世間知らず。シビルのような後見人だっていない。
ムテに来る素行のよいリューマ族ならいざ知らず、無法者がたくさんいるリューの街に入ったとたん、エリザはきっと気を失ってしまう。
ジュエルがおかれている立場だって、理解しているのか、していないのか……。おそらく探し当てられず、路頭に迷うのがオチだ。
それに、エリザは平凡なムテの女性。
ムテの結界に守られた地で、ゆっくりと長い時を過ごし、やがて地に帰ってゆく運命だ。
それとも、ジュエルに翻弄されて、流される運命なのだろうか?
――これが、エリザの運命?
だが、サリサは動揺した。
とても、認められない。
それが抗えない運命だとしても、彼女をそんな危険な荒波にさらすなんて、絶対に許せない。
ムテを離れる――。なんて、だめだ。
エリザの固い決意が、サリサの本心を暴き出した。
身を引き裂かれるような想い――わがまま勝手で不公平で、身を滅ぼしかねないほどに盲愛していると。
サリサは、寂しく微笑んだ。
エリザの……このように一生懸命になるところが好きだ。
だから、望むがままにさせてあげよう。
所詮、銀のムテ人は、常に籠の鳥。
最高神官でさえ、自由に羽ばたけないのだ。
それでも飛んで行きたいのなら、どこまでも飛んで行けばいい。
運命のままに、運命に抗いながら。
――決めた。
「あなたのそういうところが、私は好きなのですよ。ムテを出ることを許可しましょう。私には、時間はたっぷり残されていますから……」
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