マール・ヴェールの誓い・3


 サリサ様は、エリザ様のために命を捨てるのでは?

 もう霊山には戻ってこないのでは?


 リールベールの心配は、また見事に外れて、サリサは霊山に戻ってきた。

 そして、何一つ変わらない日常が戻ってきた。


 書類の仕え人が、エリザが旅立ちの準備をしていること、その日は次にリューマの市が立つ日だと伝えても、サリサは何も変わらなかった。

 書類の仕え人は、ちらちらとサリサを見て、恐れながら……と言った。

「あの方のために……何もなさっては差し上げないのですか?」

「ただ、星のように太陽のように、敬愛される最高神官として……祈るしか、力になれません」

 サリサは、それでもあまり納得していない書類の仕え人の肩にそっと手を触れた。

「そうですね。では、当日には、無事を願ってマール・ヴェールの祠で祈りましょう。巫女として仕えてくれた者の旅立ちです。それくらいはしてあげましょう」

 味気ないほどの素っ気なさである。

 気落ちした仕え人を、サリサはそのまま引き寄せて、そっと抱いた。ちょっと意外な行動だった。

「今まで、エリザとジュエルを見守ってくれてありがとう。もうこの役目も終わりです。仕え人として……らしからぬ仕事までさせてしまって……あなたには何とお詫びしていいものやら」



 霊山らしからぬ結託をしている三人は、サリサの態度を測りかねていた。

 台所の片隅に集まって、相談していた。

「素っ気なさが、かえって不気味です」

 リールベールは、今まで散々サリサには暗示をかけられて逃げまくられているので、疑いを持っているようだ。

「だからぁ、サリサ様はもう、エリザ様のことなんて、なーんにも思っていませんてば!」

 そう言うのは、リュシュがそう望んでいるのか? それとも、その逆なのか? 実はリュシュ自身わからなかった。

「……もう『癒しの巫女の仕え人』と呼ばれることもなくなってしまうのですね、いっそ、捨ててしまった名前で呼んでもらいたい」

 書類の仕え人はため息をついたが、リュシュがあっけなく言った。

「いいんじゃない? 書類の、で」

 霊山では、役割がそのまま呼び名で通っている。

「そうですか、掃除係の」

 書類の仕え人は、ムッとして言い返した。

 最近のリュシュは、あまりの似合わなさもあって、霊山の重要な仕事からは外されていた。もっぱら食事係とお掃除係である。

 彼女が巫女姫についたり、最高神官の仕え人になったりしたこと自体、今から思えば傑作だった。

「私には、重たい仕事なんて似合わないもん。こっちのほうが気楽でいいわ」

 リュシュはそう思っていた。


 まさか、最高神官からもっと重たい役割を言いつかるなんて、今の彼女には考えられなかった。





 春の風が吹く。

 マール・ヴェールの祠に、風の音が響いた。

 リュシュは、この急な階段が恐かった。

 いや、他の仕え人たちと同様、この場所で果てたという最高神官マール・ヴェールの死を感じるのが嫌だったのかも知れない。

「なんで、私なんかこんなところに呼びつけるのよ!」

 ブツブツ言いながら、リュシュはサリサの呼び出しに、必死に足を持ち上げていた。

 最後の一段を上ったところで、リュシュはぎょっとした。

 なぜなら、最高神官であるサリサの服装が、神官のそれではなかったからだ。

 長衣ではあるが、木綿の衣装。これで銀の光がもっと弱ければ、一般人のようだった。


 今日はエリザのために祈ると言った日だ。

 祈りに衣装は欠かせない。なのに、普段着以上にくだけた格好で、これでエリザのための祈りができるのやら?


「サリサ様? いったい何の御用でしょうか?」

 衣装がもたらす影響は大きい。

 リュシュはなんとも不思議な気分のまま、かしこまった。

 サリサはニコニコ笑って、おいで、おいでをした。どうも服装だけではなく、態度や口調もいつもと違う。

 何だか奇妙……と思いつつ、リュシュはサリサの横に腰を下ろした。

「いったい……何なのです?」

「うん? いろいろ考えてね。僕にとって、一番信頼できる仕え人って、リュシュだなあ……と思ってね」

 リュシュは信じられなかった。

 リュシュが仕え人だった頃を思い出しても、衣装は破く、椅子はしまわない、余計な口はきく……で、まともだったためしがない。

「ほ、褒められているんでしょうか?」

「もちろんですよ」

 サリサは笑った。

「フィニエルからリールベールまで。僕に仕えてくれた人はたくさんいる。でも、いつも僕とエリザの味方であった人は……リュシュだけなんだ」

「エ、エリザ様なんて、今は大嫌いです……」

 リュシュがエリザを嫌うのは、彼女があからさまにサリサの気持ちを無視するからだ。あまりにもサリサがかわいそうすぎて、とてもエリザをかばう気持ちになれないでいる。

「その気持ちも含めてね」

 サリサは、リュシュの気持ちを理解していた。

 

 フィニエルも次の仕え人もリールベールも、サリサの味方ではあった。

 でも、それは立派な最高神官としてのサリサだ。

 彼らは、常に最高神官であるサリサのことを考え、時に味方し、時にたしなめ、時に敵になってきた。それは、仕え人として当然で、ありがたい事だった。

 彼らは立派な仕え人たちだ。だが、リュシュは違う。

 仕え人の前に、サリサの味方なのだ。エリザを愛する一人の男性――サリサに対して、常に味方だったのは、結局リュシュだけだった。


 だから、サリサは最大の秘密を打ち明けるのに、リュシュを選んだ。


「ねえ、リュシュ? マール・ヴェール様の話を知っている?」

「あら、サリサ様。あまりにも失礼ですよ。そんなの、知っているに決まっています。あの方は、まさにこの場所で祈って果てた……というじゃありませんか? そんな話のために私を呼んだのですか?」

 ムテで最高神官マール・ヴェールを知らない人は稀だ。

 いくら無知でも二百年生きているリュシュに対し、実に失礼な質問である。リュシュは、少しだけヘソを曲げた。

 だが、サリサは空を見上げたまま、話を続けた。

「……本当はね、最高神官の地位を捨てて、山下りしたんだよ」

「は? はあ? まさか!」

 やはり……意外な話だったらしい。

「作り話じゃないよ。フィニエルから聞いたんだ」

 目をぱちくりさせながら、リュシュは言った。

「まぁ、フィニエルの話なら……きっと本当なんだと思いますが」

 そんなことができるんでしょうかねぇ……と疑わしそうなので、サリサはせっせとフィニエルに聞いた話をして聞かせた。


 ――ムテを捨てて自由を選んだ最高神官。


 そんな話が、ムテに広がったら大事だ。

 だから、当時の仕え人たちは、こぞってこの話を立派な話に仕立て上げ、世に広めたのだ。

 リュシュは、てっきりこの重大な秘密のお話が、サリサの打ち明け話なのだと思い込みかけていた。

 しかし。


「だから……僕も、マール・ヴェール様に倣い、山を下りようと思う」


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