マール・ヴェールの誓い・4
リュシュは、奇声すら発しなかった。
聞き間違いかと思った。
「エリザと一緒に、ムテを出る」
リュシュは、うそ……と呟いた。
「だ、だ、だって! サリサ様は、もう、エリザ様への気持ちを振り切ったって! ここ数年、あまり気にもしていなかったじゃないですか!」
「うーん……。僕もそのつもりだったんだけれどね。どうやら、気持ちっていうのは、そうも簡単じゃないようで」
サリサは、困ったように首を傾げた。
「エリザにムテを出て行くと言われた時、気がついてしまったんだ。エリザあっての僕、エリザあっての最高神官だったって。あの人を失ったら、きっと最高神官でなんかいられない」
「……わ、私たちを……ムテを見捨てるのですか?」
いくら二人を応援していたとはいえ、霊山から最高神官がいなくなると思えば、さすがのリュシュも恐ろしかった。つい、声が震えてしまう。
だが、サリサは素っ気なく言った。
「いや。外からムテに祈りを飛ばす。その方法で、マール・ヴェール様は、ムテの外にありながら、ムテのために三十年間祈り続けることができた」
「だ……だめです。三十年間しか……です。サリサ様、山下りしないで祈ったら、マール様は、あと百年、いえ、三百年は祈れたはず! 山を下りちゃダメです!」
いつの間にか、リュシュはサリサの胸元を押さえつけ、のしかかるようにして訴えていた。
目には涙、鼻には鼻水。そのまますがりつかれたら、ちょっと嫌なほど。
それでもサリサの口調は、どこか呑気な響きすらあった。
「そうだね。僕は、あとどのくらい、祈れるだろう? きっと、霊山にいたら、五百年くらいだ。霊山を下りたら……どのくらい消耗するのか見当がつかない。何年持つんだろう?」
「サリサ様!」
「二十年? 十年? もしかしたら……一年」
「サリサ様! いい加減にしてください!」
「……僕は、エリザと一緒に行く」
「何をいっているんですかぁー!」
「だから……それが僕の運命なんだ」
ジュエルがムテを出る運命で、エリザがそれを追う運命ならば……。
それに耐えきれないサリサは、やはり、エリザと一緒に旅立つ運命だ。
「それって、寿命をなくすってことですよ! 最高神官の長い寿命は、ムテの祈りのためにあるって、マサ・メル様もおっしゃいました!」
「でも、僕はエリザあっての最高神官だって言ったでしょ? だから、彼女のために寿命を使うのは、何も悪いことじゃない」
「それって詭弁です!」
「うん、そんな詭弁に納得してくれるのは、やはりリュシュしかいないよ」
「それって………あんまりです!」
「ねぇ、リュシュ。泣かないで聞いてくれる? さすがにね……。僕も恐いんだ。だから、誰かにがんばってって言ってほしい。それと……」
「誰が言うもんですか!」
「それと、マール・ヴェール様の祈りが尽きたのは、彼の媒体となった髪が失われたからなんだ。だから、リュシュは僕の髪が飛ばされてなくならないよう、毎日、様子を見に来てほしい」
「誰がするもんですか!」
「リュシュにしか頼めないから、頼むんだよ」
「……」
「お願いです。リュシュ」
「……」
「ジュエルを取り返したら、きっと戻ってくるから」
でも、取り返せないかも知れない。
途中で力果てて、永遠に戻って来れないかも知れない。
死力を尽くしても、手に入らないものは入らない。
だが……。
どうしても欲しいものを諦めきれないなら、手に入れるために命をかける。
その結果、果てるなら、その時は諦めがつくだろう。
「死に行くんじゃないんだよ。生きたいから行くんだ」
もう、誰もサリサを止められない。
ましてやサリサに味方のリュシュには無理だ。
リュシュは、泣きながらもコクコクうなずいた。
「が、がんばってください。サリサ様。そして……もうエリザ様をつかまえて! 絶対に絶対に、今度こそ!」
――絶対に、今度こそ……。
リュシュが去ったあと、サリサは立ち上がり、ナイフを握りしめた。
ムテにはあまり似合わない冷たい刃が光った。
三十年間、マール・ヴェールはこの祠にて祈り続け、ムテにすべてを捧げて消えていったという。
それが広く信じられているマール・ヴェールの伝説である。
そんな伝説にならぬよう、必ず帰ってきたいと思う。だが、自信はなかった。
かつての偉大な最高神官ほどの力は、今のサリサにはないだろう。
ナイフを握る手が震えた。
リュシュの前でどれだけ明るく振舞ったところで、尽きてゆく命の感覚は、常にサリサを怯えさせた。
毎朝、毎夕、過酷な祈りを繰り返すたび、寿命が流れ去る恐怖。その運命から逃れたくて、サリサはずっと子供でいた。
子供でいられたなら、サリサは最高神官の重荷を背負わずに済んだはず。
あの日……あの蜂蜜飴の出会いがすべてだった。
最高神官サリサ・メルは、エリザがいて存在した。
そして、こんな重荷を背負ってここまでやれたのは、エリザがいたからだ。
エリザを想う日々が、サリサをいつも支えてきたのだから。
エリザを失ってサリサはない。
きっと、サリサを失ってエリザもない。
二人は、ひとつの心を分け合い、そして運命も分けたのだ。
マール・ヴェールの風が、サリサの長い髪を巻き上げた。
風に逆らうことなく、サリサは目をつぶり、収まるのを待った。冷たいナイフの刃に唇を押しつけ、ウーレン風に誓ってみた。
最高神官は、ムテの霊山にあってムテを守り続けようと思う。
でも、この身と心は、あの人のそばにあってあの人を守ろうと。
かつてこの場所で、この腕に抱き、「あなたをお守りします」と誓った。その誓を真に果たす時がきた。
それがどのくらい寿命の浪費になるのかはわからない。
マール・ヴェールと自分に、どれほどの能力差があるのかはわからないが、命ある限り、エリザの側にいようと思う。
「フィニエル、あなたに感謝しますよ。いい方法を教えてくれました」
ふっと吐いた息は、ため息などではない。
マール・ヴェールでもないマサ・メルでもない、別の生き方を最高神官サリサ・メルはすることになる。
魔力のこもった長い髪に、サリサはナイフを当てた。
髪は――ばさりと岩の上に落ち、銀の粒子がきらめいた。
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