ムテの外の荒れた世界・3


 書類の仕え人は、まだメル・ロイではない。

 神官の子供であった彼は、長く学び舎で勉学に励み、その能力の高さから、神官になるのは間違いない、と言われてきた。他の者たちと同様、神官以外の何者にもなるつもりはなかった。

 ところが、祈ると膨大な寿命を消費する特異体質だと判明し、神官になる道を断たれてしまったのだ。

 聖職に着くしか考えられなかった彼は、学び舎からまっすぐ霊山に入り、仕え人となった。ちょうどその頃、サラの事件があり、霊山は一気に三人の仕え人を失っていたので、補充が必要だった。

 他の仕え人とは違い、ムテで一般人の中で生活したこともなく、捨て去るような過去もなく、机上で学んだ知識を元に、ただコツコツと仕事をこなす、まさに仕え人らしい存在であった。


「エリザ様は、採石師のラウルとともに、清見の滝あたりへ出かけたと思われます」


 真面目に仕事をこなしていたにも関わらず、何がなんだかわからない理由で最高神官に張り倒されて以来、彼はずっとエリザを見張る探偵のような役割を果たしていた。

 最初は真実のみを報告するだけだったが、あまりにその真実が最高神官を苦しめることが多すぎた。

 今も真実のみを報告しているが……徐々に、どうにか最高神官が喜ぶことが起きるよう……と、心を砕いてエリザに接することが多くなった。

 ムテとしての能力も高い彼にとって、ジュエルは堪え難い存在でもあったが、彼に施されたサリサの護りの結界が心地よく、その分、余計にサリサのエリザへの愛を感じることになってしまった。

 仕え人は、皆、霊山に籠る時に個を捨て去るものだが、彼に関して言えば、むしろ、霊山で自分を見出した稀有な存在。今となっては、霊山で一番、サリサとエリザの仲を応援していると自負している。

 そう自負している仕え人は彼だけではなく、リュシュという存在もいるのであるが……。


 メル・ロイではない書類の仕え人は、霊山を降りることができる。

 最高神官の命を受け、週に一度一の村に降りて、ジュエルの様子を探っている。

 家の影で、耳をそばだてたり、窓からのぞいたり……。とても、聖職者のやることではない。

 だが、気配断ちの上手な彼は、村人たちにはもちろん、エリザにもジュエルにも、見つかったことがない。見事なまでに完璧で細やかな報告を、サリサにもたらすのであった。

 最高神官の仕え人・リールベールには『癒しの巫女の仕え人』とからかわれたりしている。



 その日も、名残雪が降る中、生真面目な彼は、エリザの様子を探っていた。

 エリザは、ちょうどジュエルを昼寝させているところだった。窓越しにかすかに子守唄が聞こえてきて、書類の仕え人も思わずほんわりしていた。

 五歳で学び舎に上がった彼には、母親の記憶があまりない。が、何となく子守唄は聞いたことがあるような、ないような……。

 最高神官にそっくりそのまま伝えたい。こういうシーンに、彼がふと目を潤ませることがあるのを、書類の仕え人は何度か見ている。

 が、今の最高神官に「エリザ」はほぼ禁句だった。

 だから、さりげなく、ジュエルの報告の中に、彼女の情報を付け足すように報告を心がけている。

 今日も、歌の二番でジュエルが眠り……などと、報告するつもりだったのだが。


 突然、エリザの歌が不自然に止まった。

 書類の仕え人が、不思議に思って窓から覗くと、エリザはジュエルのベッドの横で、そのまま固まっていた。やがてゆっくりと、彼女の体はベッドへ倒れた。

「え?」

 エリザは穏やかな表情のまま。まさか、自分の子守唄で急に眠ってしまった……ということはないだろう。ものすごく嫌な感じがした。

 仕え人は、驚いて戸口に回った。そして、勢いよく扉を開けて、家の中に入った。

「エリザ様!」

 部屋になだれ込むように入ると、ちょうど天井から黒い影が落ちてきた。

 何が起きたかわからずに、仕え人の足が止まった。

 黒い影は、血のような赤い瞳の男だった。黒尽くめの服に黒い髪をきっちりと編んで、顔も黒い布で半分隠している。ベッドと仕え人のちょうど中間に、音もなく降り立ったのだ。

 異様な空気が漂った。

「お、おまえは誰だ!」

 と、声を出したとたん、仕え人は目の前が真っ暗になった。

 何かが……喉元に刺さった。



 次に書類の仕え人が目を覚ましたのは、最高神官の部屋だった。

 リールベールが、何やら薬を飲ませてくれて、やっと意識が戻った。

 ちくりとした感覚が、まだ、喉元にあった。

「あなたには……申し訳ないことをしてしまいました」

 サリサの声だった。

「ああ……サリサ様? いったい何が起きたのです?」

 仕え人にとっては、まるで悪い夢を見ているようだった。たしか、先ほどまでエリザの家にいたはずなのだが。時間の感覚も記憶もおかしい。

「私が運んで戻りました」

「え? サリサ様が? ですか?」

 思わず仕え人は飛び起きた。とたんに、ものすごい頭痛がした。


 信じられなかった。

 最近の最高神官の素行は大変良好で、勝手に一の村に行ってエリザに会うことなどなかった。しかも、仕え人を担いで霊山に戻ってくるなんて。

 一体、何が起きたのだろう?


「あなたは、エリザとジュエルを救ったのですよ。あなたがいなければ、今頃、ジュエルはどこかで冷たくなっています」

「いったいどういうことですか? サリサ様」

 サリサは、しばらく額を押えるようにして黙り込んでいた。だが、諦めたように立ち上がると、机の引き出しからひとつの手紙を持ってきた。

 そこには、差出人の名がなかった。

「この手紙は……二週間ほど前に届いたものですが……」

 リールベールが先に目を通し、思わず顔を伏せた。

「何てことを!」

 書類の仕え人が、次に手紙を受け取った。

 彼は、目を丸くしてしまった。

「! ジュエル様を抹殺せよって? これはいったい!」

 封蝋は、ウーレン王族の略式のもの。だが、差出人の名前がない。

「おそらく……ウーレン宰相モアラ様からの命令です」

 凍り付きそうな声で、サリサは説明した。


 ――今更、我が子同様に思ってきた子供を殺せ! とは。


 ウーレン本国の命令は、必ず守らなければならない。逆らうことはできない。

 だが、勝手に押しつけておいて、それはないだろう。

 生かすも殺すも自由、ウーレンは関せず……と、ウーレン宰相は言い残し、ジュエルを置いていったのに。


「噂を偽とするには、本当である証拠を抹殺するのが一番。だから、ウーレンはジュエルを人知れず始末したいらしいのです」

「署名のない命令で……ですか?」

「署名なんか必要ない。ウーレン王族の誰かの命令であることは、封書で明らか。下手に残すと新たな証拠になる。デューンは、私にウーレンの意思を示したのです。ウーレンの手を使わせるな、とね」

「そんな命令は無視です!」

「無視したので……ウーレンは自らの手を使いはじめたわけですよ」

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