桜と杉と水と

 草木が生い茂る日置川。その清涼感溢れる音を聞きながら山岳部は熊野古道を歩む。

 近露王子周辺は、なかへち美術館などが建てられているほどごく普通の街並み。古道でありながら、舗装された旧国道が続いていく。


「ここから先、自販機はないからな。もし、水分が十分じゃないなら買っておくんだぞ」


 途中見かけた自販機を指差して岡島先生が言った。


「大丈夫ですよ。しっかり一リットル分持っていますから」


 メインザックを揺らしながらあきらが答える。


「絵里も大丈夫? 去年の大雲取・小雲取のときは、まだまだ欲しそうにしていたけど」


 心配そうにみつきが絵里を見つめた。


「うん。ここしばらくは、給水のタイミングの練習もしていたから」

「そうか。万が一のときは、近露の湧水を飲むことになるかもしれないね」

「湧水? まあ、それはそれでおいしいかもしれないけど」

「近露の水は、現世の不浄を祓うと言われている。飲めば御利益もあるんだよ、たぶん」


 またまたガイドブック情報を引用するみつき。そんな力があるのなら、飲んでみたくもなる。


 そのまま民家脇の道を進めば、次に見えたのは「野長瀬一族の墓」だ。南朝に仕えた豪族の墓だという。そしてしばらくは車の出入りがほとんどない穏やかで平坦な道を進んで行く。準備運動にはもってこいの地形だ。


「来月私たちが行く金剛山の登山ルートにも、舗装された道が途中にあるらしい。山道ばかりだと思い込んではいけないみたいだな」


 大会の舞台を想定しながら歩くみつき。のんびりできる道だが、彼女の意識は早くも戦いの舞台の中にいるようだ。絵里はごくりと唾を飲む。今は見知った山岳部のメンバーで縦走しているからいい。これが大会当日となると、周囲には他校の山岳部が何人もおり、まさに駅伝のように熾烈な戦いになる。抜いては抜かれ、焦りがペースを乱すことになるだろう。体力はもちろん、精神力も問われるのが大会なのだ。


「こういう舗装された道だと、安心感もあるから飛ばしたくなるよな」


 優華が少しペースを速めて歩き出す。


「だけど、それが罠だったりするんだよね。あとで疲れたら大変だ」


 あきらはマイペースでみつきや絵里と並んで歩く。


「……だよなー」と優華はあきらの言葉を受けて、ペースを落とした。


 そんな長閑な道が一時間ほども続いた。ここからようやく山の中へと入っていくことになる。

比曾原ひそはら王子跡と書かれた看板から坂道を登れば、また舗装された道だ。

 そして、木々のトンネルを抜けると、その先に待っていたのは情緒を感じるわらぶき屋根の「とがのき茶屋」だった。建てられたのは昭和のころだというが、古代から存在していたように感じさせるほど、熊野古道の風景に溶け込んでいる。

 岡島先生が山の木々を見つめて口を開いた。


「ここが継桜つぎざくら王子。この辺りには木にまつわる話が多いんだ」

「継桜……って名前からしてそうですね」

「継桜王子の由来は、出発前に言った藤原秀衡の伝説によるものだよ」


 岡島先生の役割を奪うかのようにみつきが語り出す。


「乳岩に置いてきた赤子のことが気になった秀衡は、ここに辿り着くとそれまで杖として使ってきた桜の木の枝を突き刺し、祈ったんだ。赤ちゃんが死ぬならこの桜も枯れる、熊野の神様の加護があるなら、桜も枯れないだろう、と。そして、秀衡が帰ってくると、桜の杖は根付き、花を咲かせていた。それで、乳岩に置いてきた赤ちゃんが無事だと知り、喜んだ」


「赤ちゃんだけじゃなくて、桜も成長したってことなんだ」

「それがそこにある秀衡桜だ」


 おいしいところだけ持って行くように、岡島先生が先生としてのプライドを見せつけるかのごとく桜の木を指差す。


「その伝説の桜が、今もあるんだ」


 時を超えた奇跡に絵里が感極まっていると、


「もっとも、今の秀衡桜は少なくとも三代目。初代の秀衡桜は普通に古木となって枯れた。次に普通の山桜が植えられ二代目になったけど、水害で倒れてしまった。そして今ある秀衡桜は、初代から100mほど離れたところに植えられたんだ」


「なんだ。秀衡三世か」と優華。


「それでも、伝説を継いでいるんだから凄いよ」とあきら。


「桜以外にも、杉の話もある」


 岡島先生がみつきに横取りされないよう早口で語り出した。


「この継桜王子にある巨杉群は『野中の一方杉』と呼ばれていて、どれも南側に枝を伸ばしているからそう呼ばれている。単に日差しを受けて伸びているのかもしれないが、熊野那智大社の方角に伸びているから遥拝しているかのように見えるんだ。そして、この一方杉、今は数本だが、昔は四十本近くあったそうだ」

「どうしてそんなに減っちゃったんですか」


 絵里の疑問に答えたのはやはり岡島先生ではなくみつきだった。


「明治時代に出された神社合祀令のせいだよ。これによって、神社は一町村一社という原則になり、熊野の神社のほとんどが取り壊され、それを擁する神社林も伐採された。歴代の上皇が参詣した王子社まで対象になったんだ。そして、この神社合祀に立ち向かったのが、南方熊楠」

「熊楠……たしか、漫画が小学校にあったような……」


 その名を聞いて、絵里は小学校の図書室で見かけた本を思い出す。


「和歌山を代表するエコロジスト。その熊楠の説得によって、この野中の一方杉が全て伐採されることは免れたんだ」

「歴史を守った……まさにヒーローだね」

「大金をはたいたり、投獄されたりもしたけどね。それだけの強い意志が彼にはあったんだ」


 世界遺産への登録に期待がかかる熊野古道。熊楠がいなければ今の風景はなく、世界遺産登録への道も途絶えていたかもしれない。


「そうだ、お前たち。ここから下ったところに『野中の清水』という名所がある。今日は大会じゃないんだから、寄り道していくといい」

「はあい」


 岡島先生が茶屋のベンチに腰掛け休憩。

 その間に、女子たちは坂を下り、「野中の清水」を目指した。


「ここが野中の清水。涼しげだねえ」

 

 それを見つけて優華の表情が和らぎ、あきらは苦笑い。


「確かに自販機はないけど、咽を潤せる場所はあるじゃん」

 

 継桜王子からは崖下にあたる場所。石で舗装された池へ向かって、水が湧き出ていた。

 古来より枯れることなく湧き出る「野中の清水」は熊野詣の旅人の喉を潤し、活力を与えたという。

 湧水の近くには、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪の句碑があった。


「すみかねて道まで出るか山清水」


 絵里が歌を読み上げる。そして、古の旅人と同じように、湧水を手ですくうと、ずずずっと啜った。

 五臓六腑に染み渡る自然の恵み。多くの伝説の話がスパイスとなったからだろうか、体に活力が溢れてくる、ような気がした。

 

「うん、おいしい。私たちもこれで昔の人と同じように、本宮まで目指せるわけだ」

「よし、このあともがんばるぞっと」

「あきら、ポリタンクの水は十分? 足りなかったらここで補給しよう」

「もう十分十分。私のメインザックは13kgはあるから」


 湧水は涼しく、何千年も変わらず旅人達をもてなし心の底からの癒しを与えてくれる。

 水分を補給し、絵里たちは気合を入れると、岡島先生と合流し、縦走練習を再開するのであった。

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