第四章 伝説の遺産――神倉高校山岳部の巡礼

清姫の生まれた地

 熊野古道と聞いて、人はどんな風景を想像するだろうか。

 もしかすると、平安衣装を着た女の人が、木々に囲まれた石畳を歩く姿を連想する人もいるかもしれない。おそらくそれは那智山へ通ずる大門坂のことであり、何百キロメートルもある熊野古道のほんの一部にすぎない。


 熊野古道は多くの「路」が手足のように伸び、一つの体を成していると思ってもいい。

 大阪から田辺までの海岸線に沿った「紀伊路」 

 田辺から新宮までの海沿いを通る「大辺路おおへち

 伊勢神宮から新宮までの「伊勢路」

 高野山から本宮までの「小辺路こへち

 本宮から吉野に向かう「大峯奥駆道おおみねおくがけみち

 そして、紀伊半島の中央を通る「中辺路なかへち」である。

 中辺路は熊野三山の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社全てを巡ることができる、いわゆる熊野詣のルート。そのため、熊野古道の中でも最も重要であり、古くから貴族たちも利用していた。一年前、山岳部が大会で歩いた大雲取・小雲取もまた中辺路からの派生ルートだ。

 そんな中辺路ルートを擁する町の名前も中辺路町という。和歌山県の中央に位置する町だ。


「ここが中辺路かー」


 角先生の車の窓から外の景色を眺め、絵里は大きく息を吐いた。

 深い山々の緑の色は濃く、ここが熊野の中の熊野であることを物語っている。熊野は古くから「隠国こもりくに」とよばれていた。神々が隠れる国、あの世という意味でもある。この中辺路の山からは、そんな超自然的な力が宿っているような気がしてならないのだ。


「なんというか、今までの山とは雰囲気が違うね」

「うんうん、『出そう』だ」

「お、脅かさないでよ二人とも」


 息を合わせて、優華とあきらがおどろおどろしいポーズで絵里ににじり寄る。おまけに、耳元にふうっと息をかけてきた。


「もうっ、やめてったら!」

「あはは、可愛い奴ー」


 子供のようにはしゃぐ二人。

 そう、有志のみ参加する縦走競技練習には優華とあきらの二人も顔を出すことになった。つまり、山岳部フルメンバーで今日は縦走するのである。


「みつき、何か言ってよ」


 助けを求めるかのように、助手席の部長に声をかける絵里。


「もっとも、中辺路には伝説が数多くあるから、『出る』と思っても仕方ないだろうね」

「え、二人を援護するの。みつきの裏切り者ー!」

「有名なのは清姫生誕の地とか」

「平然と話を進める!」


 絵里が肩を落とすと、興味が湧いたのか優華とあきらが身を乗り出した。


「清姫って誰? ジャイアンツの選手じゃないのは確かだね」

「きっと名前の通り清らかな人だよ、優華」


「こほん」と空咳してから、みつきは語った。


「清姫は中辺路にある真砂まなごの庄司の娘で、要するにお姫様だったんだ」

「やっぱり? きっと清楚でお淑やかだったんだろうね~」


 あきらがにこにこしながらみつきの話の続きを待つ。


「ある日、奥州白河の旅僧安珍が清姫の家に泊まったところ、安珍は清姫に惚れてしまう。清姫は安珍と一緒になりたくて言い寄るけど、安珍は修行の妨げになるからと必死になって逃げたんだ。清姫は安珍を恨んで、ずっと追いかけた。真砂を飛び出して、日高川町にある道成寺まで。最終的には鐘に隠れた安珍を、大蛇に化けた清姫がグルグル巻きにして焼き殺し、清姫本人も成仏する。晴れて二人は一緒に旅立てたってことだよ。めでたしめでたし」


「…………めでたい?」


 みつきの話を最後まで聞いて、絵里も優華もあきらもぽかんとした。

 愛と憎しみは実に表裏一体なのである。


「愛って怖いね」


 ぼそりと絵里が呟く。すると、優華がにひひと笑い、


「ふーん、絵里は好きな人とかいるの?」

「い、いないよ。男の人と付き合うより、ゲームしているほうが楽しいし。それに、どうせ高校出たら別れるよ。付き合うだけ、時間の無駄。ね、みつき」

「なぜ私に振る」

「そう言う優華は、好きな男の人いるの?」

「もちろん、高橋由伸!」

「はあ……」


 聞くんじゃなかったと後悔する絵里だった。


「中辺路町には清姫の墓など、清姫に関係する名所がいくつもあるそうだよ。いつか、個人的に立ち寄っていろいろ見てみたいね」

「それにしても詳しいね、みつき」

「中辺路のガイドブックに書いてあった。情報収集、知識を深めることも山岳部の立派な活動だからね」

「そっか」


 もしかすると、こうして話すために必死になって覚えたのかもしれない。絵里はガイドブックを片手に清姫の伝説を暗唱するみつきの顔を想像して、一人にやけた。


「私たちの今日のスタート地点は近露王子だけど、清姫の近くにある滝尻王子には乳岩の伝説があってね。これまた奥州平泉の藤原秀衡夫妻が熊野参詣の途中、夫人が産気づいて滝尻王子近くにある巨岩の穴の中で出産したんだ。そのまま赤ん坊を残して参詣を済ませ、戻ってくると赤子は狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで成長していたという話」

「なにそれすごい」

「あと、乳岩は浅見光彦の『熊野古道殺人事件』で犯行現場になったという伝説もある」

「それ、伝説? ていうか、浅見光彦も来ていたんだ、中辺路に」


 そんな話をしていると、車は近露王子に到着。

 四人は飛び出すように車から降りた。

 山に囲まれた中辺路の空気は、やはり今までとは違う味。不思議な力が宿っていて、筋力や持久力がアップしないだろうかと期待してしまう絵里だった。


「ところで、滝尻王子とか、近露王子って言ってたけど、王子って何?」


 近露王子と書かれた石碑を見つけて、優華が尋ねた。


「王子様ってイメージじゃないよね」


 王子と聞いて絵里が連想するのは、マントを靡かせレイピアを振るい戦う精悍な顔のプリンス。


「王子というのは、熊野の神様をお祀りしている社のことで、要するに小さな神社のようなもののことだよ。熊野には『九十九王子』と言われるほど、王子があったとされている。昔は王子の近くには宿坊などもあったから、電車に対する駅みたいな役割もあったようだ」


「へぇ~」とあきらがお馴染みエアへぇ~ボタンを押す。


「よし、全員車酔いはしていないようだな」


 元気にお喋りしている山岳部を見て、岡島先生が声をかけた。その隣には、岡島先生の奥さんの姿もあった。岡島先生より十歳近く若い女性で、肌にはまだまだ艶がある。


「いきなりの縦走競技練習、参加してくれて僕も嬉しい」

「ありがとうございます、岡島先生。私たちに練習の機会をまた与えてくれて」

「なんというか、大会優勝に向けてがんばっているお前たちを見ていると、僕たちもちゃんとサポートしなくちゃなと思うようになったからな」


 穏やかな笑みを見せる岡島先生。


「一年前、体育館で山岳部の紹介をしたときは、ただ単に山を楽しむ子たちが入ってくれるよう願っていた。大会も、踏査で十分。審査もただ単に山岳部の思い出として、軽い気持ちで受けてほしいと思っていた。だけど、真剣にがんばっている城井たちを見ていると吹っ切れたよ。本来の山岳部。競技に挑む姿を、僕たちに見せつけてほしい」

「もちろんですよ、岡島先生」


 ふふっとみつきも微笑み返した。


「では、今日はこの近露王子から川湯の野営場まで、長い道のりだががんばるんだぞ」

「それじゃ、みんな、川湯で会いましょうね」


 そう言うと、岡島先生の奥さんと角先生は車に戻っていく。二人は縦走練習には参加せず、車の移動を任されたのだ。


「いちにっ、さんしっ」


 山岳部全員で、お馴染みの準備運動。ストレッチを十分に行うと、重いメインザックを背負う。


「よし、神倉高校山岳部、ファイト!」

「おー!」


 みつきの号令に従い、手を挙げる部員たち。


 かくして、多くの伝説が待つ熊野の霊域。その中へと山岳部は足を踏み入れようとしていた。

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