滝の癒し
爽やかな五月の風が絵里の頬をさらりと撫でる。
潤に餌付けされながらバーベキューの番を見事に全うした山岳部の少女。
「お疲れ、絵里やん。後片付けは私たちでやるから、楽にしててね」
「うん、ありがとう潤」
食材がなくなり、バーベキュータイムも終了となっていた。
絵里は大きく背伸びをして、開放感を味わった。
食べるだけ食べて、男子たちはまた川の中に入り泳いでいる。中には、服を着たまま泳ぎ出す者まで。さらには、恥ずかしげもなく女子もばしゃばしゃと水飛沫を上げていた。
「山岡さんも泳ごうよ!」と、女子の一人から誘いの声が来るが、
「ううん、遠慮しておく。風邪ひいたら、今後のコンディションに響くから」
「うわ、山岡さん、いつからそんなスポーツマンシップの塊に?」
ほんと、いつの間にか、だ。山岳部で活動して、みつきと一緒に行動したからだろうか。
ここで川遊びをして風邪を引けば、継続している山岳部の練習に支障が出るのは確実。そうなれば、他のみんなにも迷惑がかかる。大会に出場したとき、今日のことを後悔するかもしれない。
魚を捕まえたり、石を投げ飛ばしたり、飛び込んだり。
みんな楽しそうだが、絵里はその誘惑を完全に断ち切っていた。
「……さて、山には登らない。みんなと一緒にいるって中田先生には言ったけど……」
なんというか、じっとしていると体が落ち着かない。そんな性分になってしまった絵里だ。
「『みんなと一緒にバーベキューを楽しんだ』のは確かなんだし、あとはわたしの自由にしてもいいよね。ちょっとだけ、ちょっとだけ散歩してみようかな。めったに来られない高田なんだし」
絵里はメインザックを背負うと、くるりと振り返り、高田川の河原をあとにした。
県道230号線を歩く絵里。足取りは軽やかに、慌てず落ち着いて一歩一歩いつものペースで進んでいく。鳥のさえずり、葉のこすれ合う音、川の流れる音。それら全てが詩篇のように美しく感じられるGWの初日。
絵里は歩き続けていると、相賀バス停の付近でぴたりと足を止めた。
「『日本の滝100選 桑の木の滝』……?」
そんな看板が立てられていたのだ。
「ここから1kmもない距離に、そんな滝があるんだ。面白そう、行ってみようかな」
即断即決。好奇心の赴くままに、絵里は冒険心を燃やして高田川に架かる橋を渡り、山の中――桑の木の滝を目指して歩いて行った。
「……お化けとか出そう……」
まず目に入ったのは、肝試しに使われそうなほど「いかにも」な墓地だった。絵里はそろりそろりと奥へ向けて歩を進める。
遊歩道を進むと、次に現れたのは神社だった。
「やっぱり、こういうところには神社もあるんだ」
重畳山で参拝したことを思い出しながら、絵里はふらりと境内の中へ。
そこは
ホームグラウンドと共通点を感じながら、絵里は神社でお参りをする。
もちろんその内容は、
「大会で優勝できますように――」
そんな心からの願いであった。
遊歩道に戻った絵里はそのまま奥へと行くと、今度は清流にかかる吊り橋が待っていた。長さは10mにも満たないほど短いが、
「おっ……吊り橋!」
絵里はうきうきと吊り橋を渡ろうとする。ぎしぎしと音を立てて、揺れる吊り橋。今ではめったに体験できない吊り橋を、絵里はアトラクションのように楽しんだ。その昔、十津川村にかかった日本一長い吊り橋「谷瀬の吊り橋」を、絵里は走って渡り、現地の人のこっぴどく怒られた経験があるのだが、今は絵里一人しかいない。思う存分揺らしながら、絵里は渡り終えたのだった。
そのまま苔むした岩が点在する遊歩道を進む。木の板がはめられた道を音を立てて進めば、清浄なせせらぎがBGMとなり、仰げば木漏れ日が射してくる。もののけ姫で描かれたような、何千年も変わらない自然の世界。今まで登った山や古道とは違う幻想的な世界観に絵里は心を打たれた。
そして――さああっとその音が耳に流れ込んでくる。
「滝だ!」
遊歩道の終着点。現れたのは幽玄的な秘境の主。
桑ノ木の滝だ。
その名の通り、桑の木が近くに生えていたから名付けられた滝は、落差が21mだが、滝幅は8mと広く、カーテンのように棚引きながら瀑布は音を奏でている。アマゴが鴨を滝の中に入れないでくれと言う「おおあめのうお」という伝説も残る桑ノ木の滝は、古くから人々に親しまれていたようだ。
見ているだけで心が清らかになる。日本一の高さを誇る那智の滝とはまた違う魅力を秘めた滝だ。絵里はうっとりと、蠱惑的に揺れる美女のドレスに見惚れ、この景色を一人占めした。
「また見つけちゃったかな。『わたしだけのばしょ』」
近くに人の気配はない。だが、何かしらの動物の視線を絵里は感じた。
静かに流れる時間の中で、
「思い出の数ならば、ザックにいっぱいさ」
またもやそんな歌を口遊み、心も体も癒した。
大満足だった高田への遠足。
絵里は帰宅すると、メインザックを下ろし、シャワーを浴びてから部屋着に着替え、サイダーを飲みながらゲームボーイアドバンスの電源を入れ、烈火の剣の二周目を進めようとした。
そのときだった。
「絵里、みつきちゃんから電話だよ」
母親から急に呼び出された。携帯電話を持っていなかった時代、二人を電話で繋ぐときは必ず親がクッションの役目を果たす。だからその間、「何の話だろう」と無駄に緊張してしまうのだった。
「もしもし、みつき?」
受話器を受け取り、幼馴染に呼びかける。
「夜分遅くすまない、絵里。山岳部の連絡網だ」
「ん? 何かあったの?」
「岡島先生の気まぐれな要請だ。明日と明後日、暇なら縦走の練習に出かけると」
「あ……そう……」
「別に四人揃わなくてもいい。GWだからな。家族の都合もあるだろう。希望する人だけ連れて行くと岡島先生は言っていた。どうだ、一緒に行く気はあるか? 私はもちろん、部長として参加するんだが」
「……って、明日と明後日って言った? もしかして、泊りがけ?」
「そうだ。熊野古道の中辺路、近露から川湯までを縦走し、夜は川湯の野営場でそのままキャンプだ」
「近露から川湯かぁ」
初めて行くコースだ。川湯は去年の大会のゴール地点だったので、大雲取・小雲取からはまったく逆方向から歩くということになるのだろう。
「どうだ? そういえば、絵里のクラスは今日は遠足だったそうだな。疲れているなら、そのまま休んだほうがいいが……」
「ううん、大丈夫大丈夫。むしろ、今日は体が癒された感じ。レベルアップした山岡絵里を城井みつきに見せつけたいよ」
ふっと、受話器の奥から微笑む声が聞こえた。幼馴染の顔が簡単に想像できる。
「なら、参加で決まりだな。岡島先生に折り返し電話しよう。あ、集合場所は明日の朝七時に那智駅だ。もちろん、縦走の装備で」
「わかった。ありがとう、みつき」
「おやすみ、絵里」
「おやすみ」
みつきが受話器を置く音を聞いてから、絵里もまたがちゃりと受話器を戻す。
「GWは全部出かけるなんて……ふう、贅沢かも。ま、いっか。キャンプも楽しそうだし」
2003年は3日、4日、5日しかGWの休みがなかった。それら全てが学校の行事で潰されたのだ。昔の絵里なら休めなくて憤慨していたかもしれないが、今はこの事実を素直に受け入れ、むしろ歓迎していた。
「川湯……あれからもう一年か」
ベッドに飛び込み、再びゲームボーイアドバンスを手に取る絵里。明日を楽しみにしながら、絵里は最後までリラックスした。
――春季登山大会まで、あと28日。
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