鬼の見守る山

 2003年4月26日。

 天気は快晴。文句の言いようがないほどの登山日和。山岳部が奈良県の釈迦ガ岳を山行する日である。四人は全員、副顧問の角先生のワゴン車に乗り込み、熊野川沿いの国道168号線を通って奈良県を目指す。女子たちは悠久の歴史の証人である熊野川の雄大な姿と、緑の衣が眩しい山々に囲まれ、ドライブ気分を味わうのだが、一人だけ例外がいた。


「…………」


 絵里である。目を充血させ、目元には隈が色濃く彩られている。

 絵里は釈迦ガ岳の登山が楽しみで眠れなかった。


 わけではない。


「ふう……ふう……あと一章だけ……」


 絵里の手元には、愛用しているゲームボーイアドバンス。挿さっているソフトは昨日発売したばかりの新作「烈火の剣」であった。絵里は昨日の放課後の練習のあと、ゲームショップに駆け込み手に入れると、電車の中からずっと遊び続けていたのだ。さすがに、明日の練習に響くからと徹夜で遊ぶのは控えたのだが、先の展開が気になってしまい、目がギンギンに冴え、結局のところ一睡もできなかった。


「うっ……吐き気が……。先生、車止めてくださ……」

「駄目だよ、絵里。車の中でゲームするのは。それに、全然寝てないんだろう? 釈迦ガ岳までは時間があるから、仮眠をとっておくんだ」


 優しくも心配そうな声色で隣のみつきが言った。


「もしフラフラの状態で山に行って怪我をしたら元も子もないからね」

「そうそう。安全登山のためにも……これは没収!」

「あっ」


 優華が豪快な手つきで、絵里の手からゲームボーイアドバンスを奪い取ると、華麗にみつきにパスした。


「そういうわけだから、無事に下山できたときまでこれは預かっておく」

「うう……いいところだったのに。うっ……吐き気……」


 青ざめた表情の絵里。そこへ救いの手が差し出される。その手のひらには白い錠剤。


「こんなこともあろうかと、酔い止めを持ってきてあるから、これを飲んでゆっくり寝るんだぞ」

「おやすみー」


 茶化すようなあきらを気にせず、絵里はみつきから水がいらないタイプの酔い止めをもらい、飲み込んだ。車に揺られていると、一気に眠気が激流のように押し寄せてくる。


「角先生ー、何かCDとかかけないんですかー」


 お調子者のあきらが運転中の角先生に呼びかけた。ちなみにだが、一年生のとき、あきらの担任がこの角先生だったので、二人は非常に親しみやすくなっているようだ。


「『爆笑スーパーライブ第1弾、中高生に愛をこめて…』があるぞ」


 右手でハンドルを操作しつつ、角先生はCDの操作をする。流れてきたのは、漫談だった。


「綾小路きみまろか~」


 あははと笑いながら、あきらはゆったりと座席にもたれ、CDを聞き始めた。

 あきらのサポートのおかげかは知らないが、絵里は釈迦ガ岳までの道のりをぐっすりと眠ることができ、体力と精神状態をリフレッシュすることに成功した。



「起きて、絵里。着いたよ」

「ん? ゆ、夢? 今、エリウッドがレベルアップして全部のパラメータが上がっていたのに……」


 寝ぼけ眼で欠伸をする絵里。


「いい夢を見たようだけど、私たちのレベルアップも大事だ。ほら、メインザックを持って出発だ」


 車から降りると、登山靴は舗装された地面を踏み締める。ここは駐車場のようだった。岡島先生や角先生の車だけでなく、他の登山客のものらしき車も数台点在している。


「いっちに、さんしっ」


 駐車場ではすでに岡島先生のかけ声の元、優華たちが準備運動をしていた。絵里も彼女たちに続いて屈伸運動やストレッチを繰り返す。


「はい、絵里。今日は読図の練習もするから、この地図を絶対に無くさないこと」


 続いてみつきが部員全員に、この間購入した地図を拡大コピーしたものを渡していく。


「さっそくだけど、山岡。ここがどこかわかるか?」


 岡島先生に訊かれて、絵里は地図を広げると、コンパスを手に現在地を確認しようとする。当然ながら、手にした地図はガイドブックではない。どこに何があるかは自分で判断して地図に記入しなければならないのだ。

 絵里は周囲の山々の地形を肉眼で確認。そして、近くにせせらぎの音が流れていることも耳で聞き取る。つまり、川があるということで――


「……この辺ですね」


 方位もしっかり確認すると、絵里は地図上にペンで×印を記入。


「正解。ここは釈迦ガ岳への道、『前鬼口』だ」

「ゼンキ……聞いたことある。昔アニメでやってた。バジュラオン、バジュラオン……」

 とあきらが何やら口ずさみ、


「わ、わたしはシャーマンキングで」


 と絵里が続いた。


「それはさておき、役行者が使役していた式神の名前が由来になっているというわけだ」


 岡島先生が物知り顔で答える。


「金剛山と同じ役行者のゆかりの山……」

「まさに聖地の中の聖地……うん、登り切ればパワーアップしそうな予感がびんびんするよ」

「絵里も元気そうでよかった。それじゃ、メインザックを背負って出発だ。神倉高校山岳部、ファイト!」

「おー!」


 みつきの号令に従って、絵里たちは拳を天高く突き上げる。

 

 釈迦ガ岳山頂を目指す一行。だが、しばらくは舗装された林道を歩くことになる。まだまだ先は長く、目立った起伏もないので少々退屈だ。山岳部は岡島先生の話を聞きながら進むこととなった。


「さっきも話に出たが、役行者が使役していた式神が前鬼と後鬼だな。二人は夫婦の鬼とされている。その子供である五鬼助、五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊が住んでいた集落がこの前鬼。明治時代までの長い間、子孫たちが宿坊で奥駈道を行く修行者をもてなしてきたそうだ」


「へぇ~へぇ~」とあきらはへぇ~ボタンを押す真似をしながら聞く。


 岡島先生が周囲を見渡し、ある箇所を指さした。


「あそこに石垣が見えるだろう。あれも宿坊の跡地だ。今は、宿坊が一件だけになってしまい、他は全て廃れてしまったんだ」

「……それでも、千年以上宿坊の歴史が続いているってことですよね」


 途方もない時間の流れを実感し、絵里は嘆息する。

 自分たちもそれに匹敵するくらいの「何か」を残せるだろうか。


「あ、林道が終わった……」


 ちょうどそのとき、アスファルトが途絶え、草の生い茂る道が見えてきた。

 その道の入り口に……

 

「熊出没注意!」

 

 と大きく描かれた看板がどんと立てられていた。


「熊! 熊って、実在するの?」


 目をゴマのように小さくして驚く絵里。


「そりゃそうじゃん。だってここ熊野だし」


 優華があっけらかんとした口調で言い放つ。


「ちなみにだけど、熊野の『熊』は『隈』が転じたもの。この字には隠れるって意味があるらしい。動物の熊とは直接関係ないんだ」


 みつきがそう補足すると、「へぇ~」とあきらがエアへぇ~ボタン。


「よし、ここでテストだ。もし山の中で熊に出会ったらどうする?」


 岡島先生の突然の出題だ。絵里は即答する。


「スタコラ逃げます」

「それじゃ逆に熊を刺激させることになってしまう。山岡に興味を持った熊は地の果てまで追いかけるぞ。熊は時速60キロで走れるからな、その辺の車と変わらん」

「というのはジョークです先生。落ち着いて、自然と一体化したような気分で、背中を見せずにこっそりひっそり後退します」

「まあ、それでいいだろう。一応言っておくと、本州の熊はツキノワグマで、北海道にいるようなヒグマよりは大人しい。基本的には夜行性なので、滅多に遭うことはない。そして動物は基本臆病だ。実は、初めから熊鈴を鳴らして『何かがいる』と思わせておけば、向こうから逃げていくんだ」

「つまり、こうして雑談していることも熊除けの対策になるんですね」


 みつきの聡明な瞳が岡島先生を見つめる。


「お前たちは声が大きいから、熊も来ないだろうな」


 角先生のだめ押し。あきらはむっと口を尖らせる。


「そんなにかしましくないんですけど~」


 そうしてラジオ代わりに女子たちが喋り続けていると、


「ねえ、先生。あそこに小屋があるけど」


 優華が山中に堂々と構える小屋を指さした。石垣に囲まれた古風な家屋だ。寺や神社のような「何らかの力」を感じずにはいられない。


「あれがさっき言っていた宿坊の一つだ。釈迦ガ岳へはあの裏を通って登っていくことになる。よし、あそこで10分間休憩。各自、現在地を確認するように」

「はい!」


 役行者と縁の深い釈迦ガ岳。その霊山の山頂までは、まだまだ長い道のりになるだろう。山岳部の四人はじっくりと周囲の地形や地図を見て、心の帯をしっかりと締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る