VS.熊

「ざーんげざんげ、ろっこんしょーじょーっと」


 今週もまた岡島先生の六根清浄が炸裂していた。

 宿坊脇の登山道に突入した山岳部は、釈迦ガ岳の山頂を目指し登っていく。地面は落ち葉や小枝が集まっており、マットのごとくふかふかで歩きやすかった。メインザックを背負い、重量感のある一行だが、この感覚は病み付きになっているようで苦にならない。

 絵里は自然観察を怠らない。この辺りの岩場には、苔が生えている。それも、他の山よりも多く感じられる。これは、この一帯が湿気の多い場所であることを意味しているのだろう。


「城井、この地形は何というかわかるか?」


 途中、岡島先生が足を止め、またもやクイズ。

 山岳部の周囲には、窪んだ地形に白い岩がゴロゴロしていた。

 みつきは眼鏡をくいっと動かして近くを観察する。


「涸れ沢……ですね」

「正解」


 涸れ沢とは普段は水が流れていない沢のことを言う。大雨が降ると、水で満たされ激流に変わるという地形だ。今日は快晴なので問題はないが、雨天時には注意すべき地形なのである。

 しばらく登り続けていると、奈良県指定の天然記念物、トチノキの大木が並んだ地形に遭遇する。そしてありがたいことに木製の階段のある登山道が増えてくる。


 そうしてさらに登ると、奇妙な巨石が彫刻家のオブジェのように聳え立つ場所へと到着。Vの字状に立っている二本の岩は音叉のようにも見える。これぞこの大峰の大自然が造り上げた天然の芸術作品。


「ここが『二つ岩』か」


「奈良県の山」を読んで予習していたみつきがぽつりと呟く。


「『二つ岩』……なんだかRPGでイベントが起きそうな場所だね」


 ゲーム好きな絵里が呑気にそんなことを言うと、


「間違いじゃないな。登山道から三回上り下りすると、願い事が叶うと言われている」

「へぇ~」

「ちなみに先人たちはこの岩を不動明王の眷属、矜羯羅こんがら童子と制多迦せいたか童子だと見い出したらしい」

「童子って王子様みたいな意味だっけ。いろいろ考えるもんだね」

「ほら、お前ら。ここから釈迦ガ岳が見えるぞ」


 岡島先生が顎で湿した先には開けた見晴らしのいい場所が。


「わあっ……綺麗……」


 真っ青な空と、緑の山。尾根道もくっきり見え、ところどころには岩場がモザイクのように剥き出しになっている。これが釈迦ガ岳東壁。通称五百羅漢である。


「あの尾根道を、これから歩くんだ……ふう、まだまだ遠いなぁ」

「でも、楽しみだね。今度は逆に、あっちからこの二つ岩が見られるかも」


 期待を胸に、絵里は山頂を目指して再び歩き出す。

 のだが、ここからが文字通り山場だった。


「うう……きつい……」


 二つ岩を越えたあたりから、急登となり、ペースが落ちてしまった。絵里は適度な水分補給と、飴を舐めて気合を入れる。

 疲労が徐々に溜まるのが見て明らかな絵里。だが、その心を癒してくれるのもまた、この自然だった。苔の中には可愛らしく咲いたコミヤマカタバミの白い花弁。小さなワチガイソウも確認できる。


「草花がわたしを癒してくれる……!」


 ぱあっと花が咲いたような笑顔を見せる絵里。


 だが、


 しかし。

 

 その直後、その可憐な花は散ってしまった。

 がさっと、草木が蠢く。


「っ! な、何かいる! み、みんな。何かいるよ!」


 絵里が先を行くみつきたちを止めさせた。


「絵里……?」


 みつきが怪訝な顔をして、絵里の視線を辿って草むらを注目する。


〝――まさか、熊! 本当に現れたの?〟


 絵里の胸の中で黒い予感が積乱雲のように生まれ、心臓を雷が打つかのごとく痛めつける。噂をすれば何とやら。最強の野生生物が、今現れようとしていたのだ。


「声を出して逃げさせる? いや、もう遅いかも。逆に狙われるかも。だったら、あのとき答えたようにそーっとそーっと……」


 怯えた表情のまま小声でみつきに呼びかける絵里。


 二瞬の間を置かず……


 ばさっ! と草むらから影が飛び出した!


「きゃっ! し、死ぬ!」


「叫び」のように両頬に手をあてて絶叫する絵里。


 果たして、草むらから飛び出してきたのは――


「ケッ……ケッケッケッ……」


 そんな声で鳴く――キジに似た鳥――ヤマドリだった。


「うわっ、大きな鳥」


 優華もヤマドリを目にして興奮したように声をあげた。


「ケーン!」


 ヤマドリは山岳部に気が付くと、赤褐色の羽を広げて、駆け出し姿を消してしまった。


「なんだ、驚かさないでくれよ、絵里」

「う……ごめん、みんな」

「だが山岡。強運だな。ヤマドリは滅多に見かけることがない。それこそ、熊と同じような確率だな」


 にっこりとほほ笑み、安堵の息を吐く岡島先生。

「それ、本当ですか先生~」とあきらもくすりと笑った。


 そんなアクシデントがあったものの、一行は「太古の辻」と呼ばれる場所に到着。

 木々が点々としており視界は良好。草木も短いので非常に歩いていて気持ちのいい地点だ。ここから先は仙人がすむ場所だと信じられていたらしい。それを象徴するかのように、強い風が吹き山岳部の体を冷やしていく。

 この先は稜線。先ほど二つ岩から覗いた道を歩いて行くこととなる。


「いやあ、絶景かな絶景かな」


 体を弾ませて優華がきょろきょろと辺りを見回した。ここでは熊野の山々を眼下に収めることができるのだ。緑色の山々は波立つ海のようで、絵里たちはまさに仙人のような気分を味わった。空気も清涼水のようで五臓六腑に染み渡る。


「次は大日岳を経由して進むぞ」


 ほんの少し休憩したあと、岡島先生が次の要所、大日岳を指差した。

 すかさず絵里は地図を見て読図の練習。稜線の上にいるのだから難易度は低かった。

 山岳部はゆっくりじっくりと歩を進め、大日岳に到着するが、


「えっ……ここを進むんですか……」

 

 絵里は絶句した。

 大日岳。それは岩がいくつも積み重なったような地形をしていたのだ。まさにロッククライミングである。


「鎖があるだろう。あれを使って進んで行くんだ。各自、しっかり軍手を装備しておくように」


 岡島先生に言われた通り軍手を装備し、みつきたちは鎖を掴んで岩場を登っていく。


「うわ、怖い……」


 恐る恐る鎖を手に取る絵里。


「山岡、手を離したら冗談抜きで死ぬから、気を付けろよ」

「はっ、はい!」


 そう注意され、慎重に鎖を持つと、足をしっかり岩場に預けて、一歩一歩進んで行く。


 そして、


「はあ~、怖かった……」


 死と隣り合わせの世界を制した絵里である。精神的にいい経験になったかもしれない。


「ちなみに、岩場を通らない迂回路もあるからな。帰りはそっちを通ろう」


 全員が登り切ったところで岡島先生がそんなことを言うと、絵里は「別の道あるんかい!」と心の中で叫んだ。


 そこから先はまたもや見晴らしのいい、稜線の世界が広がっていく。深仙堂と呼ばれる小屋で休憩したあと、山岳部の目に飛び込んで来たのは鮮やかな露岩であった。これは四天石と呼ばれ、「広目天」「増長天」「持国天」「多聞天」の四体だとも、「香正童子」「役行者」「聖天」「財天」だとも言われている。そのうち「香正童子」の岩場からは「香精水」と呼ばれる、「眼病に効く」だの「刀が錆びない」だの逸話がある力水が湧き出ているという。

 そんな話を岡島先生から聞いた絵里は「まさに、昔話に出て来るアイテムみたい。さすが仙人の世界だ」と感想を漏らした。


 ここから釈迦ガ岳山頂まではあと少しだ。

 相変わらず強い風が吹き抜ける中、急斜な稜線を歩いて行く絵里たち。流れる汗を拭き取り、息を荒げながらも、熱くなる足でしっかりと岩場を踏み締め、突き進んでいく。


 そして――


 燦々と輝く陽光を浴びていると、絵里の目の前に釈迦がその姿を現した。

 ああ。とうとう、山を登っていて苦しくて死んじゃってお迎えが来たんだ――じゃなくて!


 後光を浴びて鎮座するは、山行く人々を見守る釈迦の像。


「や、やったぜべいびー!」


 山岳部はついに、釈迦ガ岳の山頂に到着したのだ。

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