いざ金剛山

 2003年6月2日。


「絵里、朝だよ」


 深い眠りについていた絵里は、みつきの声で目を覚ました。


「……深夜の間違いじゃない?」

「明け方かもしれないな」


 そんな言い合いをしながら、絵里は上体を起こす。すでに他のパーティーも活動を開始しているようだった。優華とあきらも目を覚まし、寝袋をぐるぐる巻いてメインザックに戻し、体育館の外へと出た。


 あまりにも早いが朝食の時間である。

 朝食は審査外なので、何をするのも食べるのも自由だ。他のパーティーは卵を焼いたり、ソーセージを焼いたりしていて朝食を楽しんでいる。神倉高校山岳部も昨晩の調理で余ったベーコンを焼いたり、コーンスープを飲んだり、カロリーメイトを食べてカロリーを補充する。


 そうして時間を潰すと、高体連の先生の指示により移動を開始することとなった。向かう先は橋本駅。ここから電車に乗って、紀見峠駅へと向かうのである。

 朝一番のほぼ無人に近い電車は、数十人もの山岳部によって席が埋められ、決戦の舞台へと誘う。絵里はすっきりとした表情で、窓の外の空を見つめた。瞬く星空が薄れていき、次第に陽光が溢れ出す。


「うん。今日もいい天気だ」


 美しい日の出を拝んでいると、電車は紀見峠駅へと到着。山岳部の面々が外へと飛び出し、新鮮な朝の空気を吸う。


「とうとう、和歌山の端から端まで移動しちゃったね~」


 あきらがそんなことを言って、絵里もなるほどと思った。紀見峠駅は和歌山県最北端の駅なのである。


「新宮からぐるりと回ってこの場所へ……貴重な体験だな」

「山岳部に入らなかったら、こんなこと一生やらないだろうしね」

 

 時刻は6時となり、いよいよ出発時刻が近付いてきた。そわそわと様々なメインザックが揺れていく。


「いよいよ、だな。お前たちの努力の見せどころだ。縦走の基本を忘れず、しっかり楽しんで踏破してこい」

「はいっ」


 岡島先生が顧問らしい言葉で四人を激励した。


「葛木キャンプ場で待っているからな。全員、無理なく急がず歩くこと」


 角先生も一人一人の顔をじっくり眺め、声をかけてくれる。


 やがて、高体連の先生が紀見峠駅の先頭に立ち、


「それではこれより登山行動を開始します。途中で読図審査、装備審査もありますので、よく周りを見て、安全な行動を心掛けてください。それでは……はじめ!」


 6時10分。登山行動開始。

 神倉高校山岳部の長い一日が始まった瞬間だった。



 紀見峠駅周辺は舗装された道が続くので、スタートダッシュを試みるパーティーがいくつもあった。体力に優れた男子縦走のパーティー――古佐田丘高校山岳部がトップに躍り出ていた。明らかに早く、慣れた足並み。土地の相性もあり、古佐田丘高校はやはり今大会で有利なようだ。だが、これはどのパーティーが一番にゴールするのかを決める大会ではない。絵里たち神倉高校は自分たちのペースで進んで行く。

 神倉高校山岳部を次々と向陽や桐蔭などのパーティーが抜いていくが、気にせず絵里たちは歩き続けた。

 スタートすぐのところにある旅館、紀伊見荘を通り抜け、集落のある道を進む。金剛山への案内板が多くあるので、まずは迷わないだろう。山道へと入り、軽い坂道を登っていく。まだまだ、序盤も序盤だが足慣らしにはちょうどいい坂だ。


「……初めて来る場所だけど、熊野古道でよく歩いた道に似ている」


 足を温めながら、絵里はそんな感想を抱いた。


「中辺路まで行った甲斐があったね」とあきらもにやにやと笑いながら、山道を歩んでいく。スタートから30分近くが経ち、他のパーティーの姿はあまり見えなくなった。大会ではあるが、普段通りの気持ちで四人は金剛山を進む。木の階段を登っていくが、平坦な道と急な道の繰り返しがあり、山岳部の体力を大きく消費させた。


「絵里、大丈夫かい?」

「うん、平気平気。あの九十九折の道よりは楽だよ」


 先頭を行くみつきは何度も絵里の体調を確認する。その気遣いに感謝しながら、絵里はもっと足に力を入れた。長い階段の傍には、休憩を促すようにベンチが備えられている。絵里たちが通りかかると、そのベンチにメインザックを下ろし、パッキングの再調整を行っているパーティーも見られた。絵里たちは小さく頭を下げると、そのまま進む。


 歩き続けて約一時間。神倉高校山岳部は西ノ行者に到着。

 ここは分かれ道となっており、道を間違えると下山してしまうことになる。絵里たちはしっかりと地図で現在地と標高を確認。


「ここが733mの地点か……」


 みつきは行動計画書にパーティーの体調を記録する。


「こっちが杉尾峠だ。行こう!」


 薄暗い木々の中を進む。金剛山は各所にベンチが置かれているのが特徴的で、熊野古道とは大きく違うなと絵里は思った。だがまだまだベンチの世話になるつもりはない。

 その後、タンボ山という標高763mの地点に到達。そこから少し進むと杉尾峠だ。

 大阪と和歌山の県境、杉尾峠に到着し、みつきは行動計画書を手に取ると、


「杉尾峠到着、時刻は7時30分……」


 しっかりと時刻も記録。


「いいペースだろう。このままだと、昼過ぎにはゴールできるだろうな」

「そんなに早く着けるんだ。てっきりまた夕方になるかと思っていたよ」

「それだけ、私たちも成長したということだ。自信を持ってこのまま行こう」


 それからすぐのことだった。

 絵里たちの前に、何組かのパーティーが立ち往生をしていた。

 何か事件があったわけでもなく、絵里はすぐにその理由を察した。

 木に的のような丸い看板が取り付けられていたのである。


「最初の読図ポイントだ」


 他のパーティーは地図を手に、現在地を特定しようとしている。


「さっきの杉尾峠がここ、なだらかなアップダウンを繰り返したから……」


 等高線をじっくりと見つめ、方角も確かめ、みつきは答えを導き出す。


「ここだろう」


 ×印を記入。四人はこくりと頷くと、行動を再開。


 その後訪れたのは行者杉だった。ここは、和歌山、大阪、奈良の境目となっているらしい。


「まさに近畿の中心だね!」


 あきらがしっかりと行者杉の土を踏み締める。近くには祠も作られており、こういうのに目が無くなった四人はすぐさまお参りをすると、そのまま進む。ここも様々な道への分岐点となっており、国道へ通じる道や別の山への道があるという。今回は金剛山への道を歩いたが、いつか別の道も歩いてみたいと絵里は思った。


 下りの木の階段を進み、標高692mの金剛トンネル上へと到着。その名の通り、この地面の下を金剛トンネルが通っている。

 そこからは平坦な道だった。比較的楽な道が続く……かと思いきや。


「あっ……」


 と絵里が声に出してしまったように、突然剥き出しの岩場などが見える足場の悪い場所に出くわしてしまった。


「大丈夫か、絵里?」

「うん、ちょっとふらついたけど、大丈夫。これだけ平坦な道が続いていて、こんな場所が出て来るなんて、まるで軍師の罠だね」


 軽い冗談を言いながら絵里は体勢を整える。うん、まだまだ大丈夫だ。一年前ならこの辺りですでに疲れていたが、今はスタミナも十分ある。


 長い木の階段を進むと、標高784mの千早峠に到着。

 ここで本格的に小休止を取ることとなった。

 絵里たちは貴重な水を飲み、水分を補給する。


「現在時刻は8時45分……まだ、全体の三分の一程度の工程だ。みんな、体調は大丈夫か?」

「もちろん!」

「余裕余裕ってね」


 優華もあきらも順調そうだ。


「そういうみつきこそ、大丈夫? 実は、しっかりしているようで一番疲れているとか、そういうのは嫌だよ」

「もちろんだ。なんなら、この千早峠に関する話をしてやってもいい」

「それじゃよろしく」

「任された。この千早峠は幕末の天誅組も通った道でね……」


 ついに始まった金剛山・大和葛城山での登山行動。そして、他のパーティーの行動を気にせず、自分たちのペースで歩き出した神倉高校山岳部。

 役行者は16歳のときからこの山を駆け、修行していたという。自分たちと同年齢の役行者の姿を想像し、彼に近付こうと願いながら、絵里たちは長い道を歩き続けるのだ。

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