第三章 そして友と――神倉高校山岳部の遠征
夕陽に叫ぶ
2003年4月21日放課後。
絵里たち山岳部の四人はジャージ姿に着替えると、パンパンに物を詰め込んだメインザックを背負い、いつものように千穂ヶ峰を登っていく。土曜日に登ったばかりなので、今日は少しルートを変更していた。神倉神社から登り、遊歩道に入ってから牛の背中ではなく逆方向の登山道へ。展望台で少し休憩しているときに、絵里は昨日の重畳山ソロ登山のことをみんなに話した。
「――ということがあったんだ。こことはまた違う、熊野灘の景色を堪能できたよ」
「なるほど。休日だというのに自主練とは、絵里も成長したな」
「えへへ。これも、大会のためなんだから。まあ、そもそも重畳山はハイキングコースのようなもので、本格的な登山を楽しむ人には絶対物足りないと思うけど……」
「それでも、大会に臨む意識を鍛えるのは良いことだよ」
あきらがうさぎのようにぴょんぴょんと跳ね、運動しながら絵里に言う。
「私も昨日は家で、料理のレシピを考えていたんだー」
「あたしも、この前もらった予想問題集を元に、図書館に行って山の知識を深めてきたよ」
「あきら、優華……」
休日でも各々レベルアップに励んでいたことを知り、みつきは頬をほころばせた。
「みつきは昨日何をしていたの?」
「ん、私だってあれだ。今週末に予定している縦走練習登山の候補地を探していたんだ」
そう言いながら、みつきはメインザックのポケットから「奈良県の山」を取り出す。
「もしかして、金剛山に直接乗り込んで下見するとか?」
電撃的な着想が訪れた絵里がみつきに尋ねるが、彼女は首を振った。
「それはできない。橋本市は……単純に遠いし、スタート地点とゴール地点が別々なので先生の車の移動が面倒だ」
「そっか……」
「そこで、私たちは『釈迦ガ岳』に向かいたいと思う」
みつきが奈良県の山から選定した釈迦ガ岳のページをみんなに見せた。
釈迦ガ岳は奈良県の南部にある、大峰山系でも第一の秀峰として知られる山だ。途中まで車で登ることになるものの標高は1800mと高い。山頂には山の名の通り、青銅の釈迦如来像が立っており、山行者を見守っているという。
「釈迦ガ岳かー」
「一応聞いておくけど、登ったことある人は……」
「ない」「ないね」「ないよ」
「なら決まりだ。今週末は釈迦ガ岳を縦走! 読図の練習もしたいから、地図を印刷しなければ……」
楽しくなってきたとみつきは胸を弾ませ、「奈良県の山」をメインザックに仕舞った。
「それじゃ、下山だ。いつもと逆方向だから、ちゃんと足場を見て下りよう」
「うん」
山岳部は再びメインザックを背負い、山を下りていく。重心に注意しながら、ホームグラウンドとはいえ慎重に足を動かし、難なく下山。住宅地の道を通って神倉高校に到着。
しかし、今日の練習はこれ終わりではない。
「幕営の練習をしよう」
少しでも四人の練度を高めるために、山岳部は中庭の芝生の上でテント設営を始めることになったのだ。メインザックに分担していた各パーツやブルーシートを取り出し、芝生の上に並べて準備完了。
「よーし、僕が計るぞ」
腕の時計の針に注目しながら、顧問の岡島先生が言った。
そしていつの間にやら、中庭には視線が集中していた。職員室から出てきた先生たち、三階の美術室の窓を開けて見学する美術部員たち、他にも各教室から、何をやっているんだと興味津々に生徒たちが顔を覗かせる。
ちょっとしたプレッシャーを感じるが、大会のときほどではない。
「はじめっ!」
岡島先生の掛け声とともに、山岳部の四人はテントの設営を始めた。
「ふう、今日の練習も楽しかったな」
時刻は18時前。絵里とみつきは帰りの電車に乗り込み、サイダーを飲んで疲れを癒しながら発車まで待っていた。また、絵里の疲労を回復させるのは、これだけではない。
絵里はWAYで買った雑誌を取り出す。
「さて、ニンドリ読もう」
今日、21日は絵里が愛読している雑誌ニンテンドードリームの発売日だ。その名の通り任天堂系のゲームの情報が載っているゲームマガジンであり、重厚なインタビュー記事や読者ページ、賞に入選したこともある編集部員が描く漫画が人気だ。特に今号は、烈火の剣とMOTHER1+2の記事が載っているので絵里には必見だった。
大きなどせいさんが描かれた表紙を絵里はめくっていく。
「ふむふむ、ほうほう。あ、大山功一さん、それにばかぶーんだ。イマクニ?にサインもらったなぁ。あっ、テイルズオブシンフォニア続報出たんだ。ふーん……。はっ。みつき、エアライド載っているよ」
「まじか」
記事を読んでいると、みつきの好きなカービィシリーズの最新作も載っていた。みつきは絵里に肩を寄せて記事に目を通す。
「夏発売だって。買ったらわたしにもやらせてね」
「私が買う前提か。まあ、いい。夏までは死ねないな」
「それはわたしも同じ」
微笑み合う絵里とみつき。電車が動き出し、絵里は烈火の剣開発者インタビューを読み、「CMの子堀北真希って言うんだ」とか「次回作はゲームキューブなのかな」とか呟き時間を潰した。
そして、その途中――
「次は那智駅、那智駅」
そのアナウンスとともにみつきは席を立った。絵里はきょとんとしながら幼馴染の顔を見やる。
「みつき? 降りるの? 早くない?」
みつきがいつも乗り降りしている駅は隣だ。
「ああ、私だって少しは自分のレベルアップをしたい。今日は那智の浜を歩いて帰るんだ。それじゃあ……」
「待ってよ、わたしも行くから」
そう言って、絵里はメインザックを引き寄せ背負うと、みつきとともに下車。
いつもとは違う那智駅に降り立った。
那智駅は那智大社への玄関口。バスに乗り込み、那智山へ向かう観光客が毎日訪れる熊野の重要な拠点だ。また、那智駅の赤い駅舎の前には、サッカーボールのオブジェと石碑がある。これは日本サッカーの始祖、中村覚之助がこの地で生まれたことに由来する。日本代表のユニフォームに熊野三山のシンボルでもある八咫烏が描かれているのも、熊野出身の中村覚之助にちなんだものなのだ。
絵里とみつきは地下道を通って、那智駅から那智の浜へ。
茜色に染まるビーチ。ここがブルービーチ那智とも呼ばれる那智浜海岸海水浴場だ。
全長約800mにも及ぶ砂浜は、夏になると多くの海水浴客で賑わうが、今この時刻でもぽつぽつと訪れる人は多い。犬の散歩をする者や、ゴルフの練習をする者、そして、ジョギングをする者だ。
みつきは砂浜へ躊躇することなく踏み出し、絵里も続いた。
「この砂浜は足を取られるから、いい運動になる」
「えっさ、ほいさ」と声を出し絵里も一歩一歩進んで行く。
「足跡も残るから、歩幅や癖を確認するのにも役に立つ」
「なるほど」
そうして夕焼けを浴びながら、砂浜を二人は進んで行く。まさに、昭和の熱血スポ根ドラマのワンシーンのようだった。もっとも、二人はゆっくり歩いて行くだけだが。
やがて、那智の浜の端にまで二人は到達。
「うん、絵里がメインザックを背負って登下校しているように、私も那智の浜を毎日通過することにしよう」
「はは、いいアイディアだね」
絵里とみつきは石段を登り、更衣室のある広場へと向かった。
噴水やベンチ、シャッターの閉まった店の数々が散見できる広場。なんとも寂しい空間だが、ここもかつては人で溢れていた。
「南紀熊野体験博」――そのシンボルパークの一つがこの那智の地に造られていたのだ。
南紀熊野体験博とは、熊野の市町村が協力し、熊野の魅力を伝えるために行った大イベント。1999年の4月から9月まで開催され、300万人を超える人々が熊野を訪れたという。
みつきは足をピタリと止め、感慨深くシンボルパーク跡地を眺めた。
「なつかしいと思わないか、絵里?」
「うん? 熊博のこと?」
絵里とみつきもまた、地元の住人ながら南紀熊野体験博へと遊びに行っていた。夏休みになると、屋台が出ていたので、毎日のように通っていた覚えがある。
「覚えているかい? 開会の日に、二人で『くろしおエキスプレス1999』に乗ったことを」
「うん。あったね」
「くろしおエキスプレス1999」とは南紀熊野体験博のパビリオンの一つ。3Dヘッドギアを着用し、映像に合わせて椅子が揺れるモーションライド式のアトラクションだった。あの銀河鉄道999のメーテルと鉄朗が案内人となり、熊野の自然の魅力について映像とともに紹介する内容だ。
開会と同時に二人は「くろしおエキスプレス1999」を体験。ライドマシンは二人乗りだったので、一緒に乗り込んだ。熊野の山、川、海を映像で体験し、あまり遊園地に行ったことのない二人は、風が吹くヘッドギアや大きく揺れるマシンに興奮した覚えがある。
「……あのときに、私はこの熊野の住人でありながら、熊野のことをあまりにも知らないということを思い知ったんだ」
「え……そうだったの? 普通に楽しんでいただけだと思っていた……」
「だから、もっと熊野の自然に触れ合いたいと思うようになって……それが可能となる山岳部に入ったんだ」
「それが、本当に山岳部に入った理由……? 楽しそうだからとか、勉強時間が作れるから……って言っていた気がするけど……」
「その、なんだ。説明するのが面倒で、恥ずかしいから言わなかっただけだ」
そう言うとみつきはぷいと横顔を見せた。
「これから熊野古道が世界遺産登録されるとなると、もっと熊野の地は賑わうと思う。そんな重要な時代の節目のときに……私は熊野に生まれた人間として『記録』を残したいと思ったんだ」
眼鏡に夕陽を反射させながら、みつきは心情を吐露する。
「みつき……」
「……熊野の地に精通している神倉高校。その伝統のある高校の山岳部が、何も残せなくなるのは悔しい……。だから、私は勝ちに行きたい。神倉高校山岳部が、大会に優勝したという結果を残したい。和歌山に、全国に思い知らせたいんだ。熊野を代表する山岳部がいるということを」
ぎゅっと拳を握り、みつきは熱弁を振るう。
「神倉高校山岳部の未来はどうなるかわからない。今年の新入部員もゼロだった。だけど、もし大会で優勝するという実績が付けば、未来に繋ぐことができるかもしれない。だから、私は……登りたいんだ。この
「みつき……なんか、かっこつけてる……」
絵里がそう言うと、みつきはばつが悪そうに口角をひくひくとさせた。
「その、なんだ。やっぱり恥ずかしいな。まあいい、一度、言ってみたかったんだ。こういうこと」
「わたしはかっこ悪いなんて言ってないから。十分、リーダーらしい発言でかっこいいと思うよ、みつき」
「そ、そうか。うん。それじゃ、言ってよかった。私もなんだか体が軽くなった気がする」
「うーん、せっかく那智の浜まで来たんだから、もっと言いたいことは大声で言わない? ドラマみたいに」
絵里が日に染まる海を指差した。寄せては返す波が静かにメロディーを奏で、心を和ませてくれる。
「……いいだろう」
みつきは頷くと、手のひらを口元に寄せて拡声器を作り、夕焼け空に向けて、
「神倉高校山岳部は、大会で優勝するぞー!」
腹の底から精一杯叫んだ。続いて絵里も、
「優勝するぞー!」
今年一番になるかもしれない大声を風に乗せて拡散する。
絵里はみつきと顔を合わせると、また微笑んだ。
その日、絵里は帰宅すると夕食を摂り、再放送中のアニメ「冒険航空会社モンタナ」を見て、再びニンドリを読み始めた。
その夜、絵里は自分でも驚くほど快眠ができた。
もしかすると、幼馴染の本音を知ることができて、嬉しかったからかもしれない。
夢の中で絵里は中学一年生になっていた。賑わう南紀熊野体験博の会場で、友とともに遊んでいた。
過去の思いを胸に、少女は未来へと大きく足を踏み込んでいく。
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