第二章外伝 風吹いて気高まる――神倉高校山岳部の休日

絵里の休日

 2003年4月20日。

 縦走練習を終えた次の日。つまりは神聖なる日曜日

 今日は山岳部も休みで、絵里は家でゆっくりごろごろとくつろぎ、ゲームでもしながら体を癒そうとしていたのだが、


「絵里、今日はお婆ちゃんの家へ顔を出しに行くわよ」


 と母親から言われ、休息計画はあっという間に頓挫した。


「のんびりしたかったけど、いっか。お婆ちゃん、わたしに会いたがっているだろうし、お小遣いもくれるだろうし……」


 祖母はずっと一人暮らし。一月に一回くらいは会っているのだが、そろそろ寂しくなっているころだろう。


 そうして父親が運転する車に乗り込み、山岡家は祖母のいる古座へと向かった。

 古座町は本州最南端の町、串本町の隣町だ。出身の有名人は明石家さんま。水爆実験で被爆したマグロ漁船第五福竜丸が作られた街としても有名である。街に流れる川は清らかで広く、夏休みになるとよく絵里は泳いだりエビを捕まえたりしていた。

 古座川沿いの道。酒屋や雑貨屋に混じって絵里の祖母の家はあった。


「絵里ちゃん、いらっしゃい」


 80歳を越えても、まだまだ元気な祖母。絵里の健やかな顔を見ると、頬の皺を増やした。


「おばあちゃん、こんにちは」


 父親が居間でソファにもたれながら、読売テレビの「いつみても波瀾万丈」で今井雅之の半生を見ている間に、絵里は祖母に山岳部の今までの活動を語る。


「絵里ちゃん、山登りは楽しいかい?」

「うん。友達も一緒だし、練習はちょっときつくなるけど、楽しいよ」

「よかったよかった。体に気を付けて、がんばるんだよ」


 絵里の話を聞くと、安心したかのように温かい表情を見せる祖母。祖母は昔から、他の孫の誰よりも一番に絵里を可愛がり、その成長を見守ってくれていた。山岳部に入ったと聞いたときは、山で危険な目に遭わないかと心配して電話までかけてきたほどだ。

 祖母と話しているとあっという間に正午の鐘が鳴り響く。

 絵里はのど自慢を聞きながら四人でテーブルを囲み、昼食の蕎麦をすする。

 と、ここまでは絵里も退屈することがなかったのだが――


「お婆ちゃんと一緒に、おばちゃんの家に行ってくるわ」

「あっ、うん」


 母親は祖母とともに、近くで暮らす親戚の家に行くと言い、出て行った。

 父親はごろごろとテレビを独占し、新婚の惚気話を聞いている。


「…………」


 退屈だ。暇だ。

 時間が無駄に過ぎて行く感覚。お金をどぶに落としたようなもったいない意識が絵里の中で生まれていく。


「ゲームでもしよう……」


 ゲームボーイアドバンスでメイドインワリオのプチゲームの新記録に挑戦しようかと思い、絵里は自分の鞄に手を伸ばすが……。


「しまった……メインザックの中だ……」


 うっかり家に置いてきてしまったことを思い出す。

 激しい後悔の渦に飲み込まれ、絵里は思いっきり肩を落とした。


「……何かしないと、もったいない! 一度きりの2003年4月20日に、何かしたことを残さないと……!」


 そう思い立ったとき、絵里の目に入ったのは電話の近くにある古座町の地図だった。


重畳山かさねやま……」


 いつからか、絵里は地図を見ると真っ先に山を見るようになっていた。


「標高は300mくらいか、なだらかで、散歩気分ででかけるにはいいところ……」


 そして、等高線から瞬時に地形を読み取れるようにも。

 ちなみに重畳山とは古座川河口に聳える山。弘法大師開基の霊山としても知られる山だ。


「自転車を借りればすぐに行って戻れそう。よし……」


 思い立ったが吉日。絵里は山岳部の一員としての矜持を見せるがごとく、重畳山への山行を突発的に決めたのであった。今の服装は当然ながら登山服ではないが、幸いシャツとジーンズ着用だ。少しくらいなら活発に動ける。

 納屋から昔母親が使っていたというママチャリを取り出すと、絵里はそのままサイクリングを実行。少々油が必要な気もするが、ギコギコとペダルを漕ぎ、絵里は古座の町へと飛び出した。


 人口の少ない古座の町では穏やかに時間が流れる。縁側で語らう老夫婦やバドミントンをする小学生、ジョギングをする青年が充実したような時を過ごしている。絵里もその一部になるべく、自転車を進める。

 古座駅を過ぎ、そのまま道路の標識に従うように重畳山への道――林道神野川線へ。

 古色蒼然とした神社を通過し、近隣の小学生が描いた「山火事注意」の看板が目に付く。いかにも、な田舎の風景を裂くように自転車は走る。


「ふー、車も少ないし、気持ちいい」


 風との一体感を味わっていると、絵里の足に負担がかかった。

 坂道だ。

 舗装されているとはいえ、重畳山への道へは当然ながら勾配があるため、ペダルを踏み込む力が必要になった。

 ほんの少し前の絵里なら、すぐに疲れてやっぱ家に戻ってテレビ見ようと思ったかもしれない。だが今は山岳部。大会を控えた、運動ができる女子なのだ。


「これも……自主練!」


 足の肉が熱くなるのを感じ、絵里はサドルから尻を浮かせて懸命にペダルを漕いだ。

 やがて――


「や、やったぜべいびー!」


 到着。

 重畳山山頂――ではなく、駐車場に。

 ここからは自転車を下りて、ハイキングも可能な参詣コースを進むことになる。


「空気が澄んでいておいしい……」


 昨日、千穂ヶ峰を登山したばかりだが、山が変われば味も変わる。アカガシやウバメガシなどの樹木を目に収めながら、絵里は参詣コースを歩いて行く。

 石畳の参道脇には石仏が無数にあり、絵里を誘っていた。どうやら百体近くあるらしいが、全て数え終える前に神王寺に辿り着く。あの弘法大師空海はここを開いたあと、高野山へ行ったらしい。寺の奥には、重山神社。重畳山は那智山と同じく、神仏習合で神社と寺が並立していたのだ。


「……大会で優勝できますように」


 そっと神社でお参りをすると、絵里は再び石仏に案内されながら参道を登っていく。

 やがて――


「やったぜべいびー!」


 到着。

 重畳山山頂――ではなく、重畳山公園展望広場である。遊具やグラウンドゴルフ場などもあり、今も子供たちの遊んでいる声が絵里の耳に届いた。

 ここからは熊野灘の雄大な景色を眺望することができる。

 まず目に付くのは、串本町の大島だ。和歌山県最大の島であり、1890年に発生したエルトゥールル号遭難事件で島民が船員を救助し、トルコとの友好を築いたことでも知られている。

 視線を巡らせば、次に目に付くのは橋杭岩。その名の通り、大小40個もの柱状の岩が850mも並んでそそり立っている奇岩群だ。これもまた弘法大師の伝説が有名である。いわく、弘法大師が天邪鬼に大島までどちらが早く一晩で橋を架けることができるかどうか競い合うように提案。そして弘法大師が順調に橋の杭を立てていることに焦った天邪鬼は、鶏の鳴き真似をして弘法大師に朝が来たと思わせ、諦めさせた。故に、橋の杭しか残っていないと言われている。弘法にも筆の誤りとも言うが、弘法大師もけっこうなうっかりやさんなんだなぁと、伝説を初めて聞いたとき絵里は思ったものである。

 箱庭のような景観に見惚れながらも、絵里は山頂を目指す。


 展望広場から、ほんの五分ほど。 

 露出した岩と木々に囲まれた道を登り、


「やったぜべいびー!」


 到着。

 重畳山山頂――正真正銘重畳山山頂である。

 鬱蒼と茂った木々の隙間から、またもや熊野灘の景色が見える。そこに浮かぶは九龍島と鯛島。無人島として有名であり、よくバラエティ番組のロケに使われている島だ。

 振り返れば、古座の山々。御椀を逆さにしたような、仙人が住んでいそうな中国の山に似ているなと絵里は思った。


「いい景色。思い切ってここまで来てよかった!」


 足の先から湧き出る達成感を得て、絵里は微笑んだ。惜しいのは、完全にソロで登山をしたということ。


「……この感動を、みつきに伝えられればなあ」


 この景色を写真に収めたい。

 みつきと話がしたい。

 しかし、残念ながらこの時点では、絵里はそれらが可能となる携帯電話を持ってはいなかった。


「まあいいか。明日、みつきと話そう」


 大きく体を伸ばして深呼吸。体が軽くなったような心地を得た。


「それになんだか、『わたしだけのばしょ』って感じ。ネスだったら、パワーアップしている」


 そよ風が吹き、梢がゆらめき、さらさらと音を奏でる。

 絵里はきょろきょろと辺りを見回して、誰もいないのを確認してから、


「大人たちの半分も生きてはいないけれど」


 瞼を閉じると、口遊み始め、霊山と一体化した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る