第六章 心ひとつに――神倉高校山岳部の聖戦

平成15年度春季登山大会開幕!

 古佐田丘高校の体育館の壁は神倉高校の体育館と違い、茶色の防音・防振材が使われていた。


 14時45分。


 絵里たち山岳部はこの体育館で行われる春季登山大会開会式に参加していた。

 周囲には当然、和歌山各地から集まった山岳部の面々が列を作り並んでいる。向陽、桐蔭、日高、和歌山市立……参加高校は20を超えるだろう。その中にはもちろん、ホームである古佐田丘高校の山岳部がいた。男子だけでも30人以上が参加しており、そのうち24人が縦走競技に参加するようだった。さすがは強豪校だと思わざるを得ない。そして、参加している高校はほとんどが田辺以北。和歌山県南部――熊野から参加しているのは神倉高校のみなので、途方もないアウエー感を抱いてしまう。

 ぴりぴりとした緊張感の中、和歌山高体連の先生が開会の挨拶。


「台風接近により、大会が一日順延になるという非常に稀な出来事が起きましたが、そのぶんこの三日間の天気は快晴が見込まれます。皆さん、信じ合った仲間と心を一つにし、その力と技と明朗な精神を見せてください」


 他にも金剛山・大和葛城山のコース説明などがあり、大会のマナーの注意が加えられた。

 指示違反をしないこと。起床時間や消灯時間を守ること。審査のテスト時に不正行為をしないこと。もちろん、山にゴミを捨てたり、木の枝を折ったりなど自然を汚してはいけないということ。他校を挑発したり、迷惑をかけたりしないこと。

 山を愛する岳人として、正々堂々と大会に臨むことを言い渡され、山岳部たちは全員それを胸に誓った。

 

 開会式は解散となり、ほんの少し自由時間が与えられた。他校の山岳部も散り散りとなり、体育館外の日陰などに待機を始める。岡島先生たちも大会の運営の審査の手伝いのため、山岳部の前から離れることとなった。


「とうとう始まっちゃったね。熱い戦いの日々が」


 影の中にメインザックを下ろし、登山するわけでもないのにあきらはストレッチを始めた。


「私たちはできる限りのことはやった。人数が少ないからって、経験が足りないからって言い訳はもうしない。熊野の代表として、力を見せるのみだ」


 みつきが行動計画書を手に取り、強い戦意を見せる。


「……では、私はリーダー会議に出席する。絵里は天気図審査。優華は知識審査。あきらは、留守番かつ炊事審査の準備を頼む」

「了解!」

「健闘を祈る!」


 にっとみつきが微笑んで、再び体育館の中へと向かっていく。


「さあ、絵里。がんばろう!」


 ぱんぱんっと優華に背中を叩かれ、絵里は激励を受ける。


「うんっ……!」


 今の絵里の武器は天気の知識と筆記用具だ。愛用しているペンをぎゅっと握ると、絵里は天気図審査の会場となる古佐田丘高校の校舎の中へと進んだ。



 天気図審査の会場となっているのは、一年生の教室。絵里は「ちょっと借りますよ」と顔も知らない持ち主に向けてそう言うと席に座る。他の山岳部の天気図担当も次々と着席。中には緊張からか目を瞑り過ぎている者もいた。一年前の自分を見ている気にもなり、絵里は心の中でがんばれと先輩風を吹かす。


「では、天気図を配ります」


 審査役の先生も教室に入り、白紙の天気図を配っていく。教室は静寂に包まれ、かちっかちっかちっと時計が時を刻んでいた。

 そして、教室のスピーカーから、高体連の手配によりラジオ放送が流れ出す。

 

 ピッ

 ピッ

 ピッ

 ポー――


 やがて16時になり、時報が鳴った。


『16時になりました。気象庁予報部発表の、6月1日正午の気象通報です』


 聞き慣れたNHKのアナウンサーの声が流れ出し、


「はじめっ!」


 審査役の先生の号令とともに、絵里の戦いが始まった。


『はじめに、今日正午の各地の天気です』


 一瞬の気の緩みも許されない。全神経を耳に集中して、絵里は放送を聞く。


『石垣島では北東の風、風力1……晴れ。1013hPp……』


 日本とそれを覆う海、アジアの一部のみが描かれた天気図。そこへラジオの情報を次々と書き込む。

 素早く記入を終えると、ペン先は那覇の位置へと進んだ。

 自分の天気図を作り上げながら、絵里はライバルたちの動きも耳で探った。規則的なペンを走らせる音が重なっているので、みんな書けているのだろうと察する。

 そうして各地の天気、風向き、風力、気圧、温度などを書き終わり、20分が経過。


『以上で気象通報を終わります。時刻は間もなく16時20分になるところです』


 ラジオの放送が終了。このあとは、書かれた情報やメモから等圧線を結んでいく。


〝――東に1028hPaの高気圧に覆われている。北海道からは992hPaの低気圧に覆われ、寒冷前線が南へ伸びている……〟


 すすっと天気図に円を描き、さらに線を伸ばして寒冷前線を描く。放送等圧線を滑らかに、気圧に考慮しながら引いていく。この等圧線の引き方は天気図審査でも重視される点であり、多くの者が苦手としているだろう。また、観測地の解釈によって等圧線の書き方が分かれることもあるので、正解は一つでもない。


〝――わかる、天気が読める……〟


 真っ白だった天気図に各地の天気を書き込み、等圧線を描く。今なら潮岬の空も、稚内の空も、富士山の空も手に取るようにわかる。浮かぶ雲の形も連想できる。絵里は天の世界の神の気分を味わった。これも、今まで積み重ねてきた修練の賜物でもあった。

 最初はちんぷんかんぷんだった天気図。それを自分のものとできたのも、単純に山を楽しみたいという気持ちからだった。山の天気は変わりやすいと言われるように、山と天気は密接な関係がある。天気が読めれば、悪天候によりコース変更を余儀なくされてもスムーズに対応することができる。そして、安全に登山を楽しむことができるのだ。


 そして――


「そこまで!」


 審査役の先生の指示を受け、絵里はペンを置き、納刀する侍のようにすっと筆記用具入れに仕舞った。

 絵里の個人としての戦いは、こうして終わりを告げたのだった。



「天気図ちゃんと書けた?」

「わからなかったー」

「難しいよね」


 教室から出てあきらの元へ戻る途中、他校の山岳部がそんな会話をしていた。おそらく、一年生同士なのだろう。まだ初々しく、絵里のように楽だからと理由で入部したような顔だ。彼女たちがこのあとも山岳部に残り続けるかどうかはわからない。それでも、絵里は心の中で声を送る。「来年、また天気図審査で会おうね」と。


「絵里、どうだった?」


 移動中に、知識審査の教室から出てきた優華が声をかけてきた。


「できる限りのことはやったけど……点数がすぐにわからないのがもどかしいよね」


 山岳部の大会は野球やサッカーのようにリアルタイムで点数が表示されるわけではない。結果は閉会式までわからないので、どの高校が優勝に近いかなど誰にもわからないのだ。この点もまた、登山競技は体育部の中でも異質であると言える。


「優華はどうだった? 知識、いろんなことを問われたと思うけど……」

「ふふ、自信はあるよ。絵里やみつきたちが作ってくれた予想問題集のおかげで、金剛山・大和葛城山のコースとか、地図記号とか、雲の形とか、救急とか、全部わかった」

「おおー」


 ぱちぱちと拍手。


「でも、まだまだ審査は始まったばかりだから、気が抜けないな」

「そうだね。だけど、わたしはもう気持ちが高揚しているよ。一年前にできなかったことができるようになったから。ちゃんと高みを目指して歩いていけてるって実感したから」

「あたしもあたしも」

「大会は確かに競技だし、勝ち負けはある。だけど、野球やサッカーみたいに刹那に全てを賭けるわけじゃない。だから、ちょっとは余裕を持って楽しみたいな」

「確かに、ピリピリしすぎるとかえって気が悪くなるからなぁ」

「……一仕事終えたら、お腹が空いちゃった」

「さて、次は炊事審査か。慌てず焦らず、最高の調理を審査の先生に見せつけてやろう!」

「だね」


 笑い合いながら、絵里と優華は校舎の外へ。外はまだ明るく、夕焼けの気配すらない。橋本の少し涼しい風を浴びて、絵里は緊張をほぐした。

 かくして、二つの戦いが終わった。しかし、休む間もなく次の戦い――炊事審査が始まるのである。

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