さらなる高みへ

「さあ、後半戦のスタートだ」 

 

 みつきの号令を受け、三越峠での40分間の休憩を終えた山岳部は縦走を再開した。

 昔の関所のような木製の門をくぐって山の中へ。

 

 三越峠からは約3kmは、なだらかな道をただ下って行く、ある意味ボーナスコースであった。熊野川の支流である音無川に沿っていると、この先に本宮大社が待っているのだという実感が湧いてくる。昔の人もこの川の流れを頼りに歩いていたのだろうと、絵里は胸中で思いを燻らせる。


「まあ、暇なので読図の練習もするか」

「できました、先生」


 特に難所もないので、岡島先生が気まぐれに読図の練習をさせるが、川沿いなので絵里たちも簡単に現在地を読み取ることができる。


 その後、一行は船玉ふなたま神社に到着した。


「船玉神社だって。山の中なのに、なんで船の神社なんだ?」


 もっともな疑問を優華が呟く。


「伝説によるとだな」


 みつきが口を引き結んでいるのを見計らって岡島先生の先制攻撃。


「昔、この辺りに玉滝という滝があり、神様がその滝壺で修業をしていたそうだ。すると突然大雨になり、滝壺に浮いていた蜘蛛が溺れそうになっていた。そこへ神様が榊の葉を蜘蛛に乗せ、陸地まで助けたそうだ。これを見て、神様は『船』を思いつき、楠をくり抜いて丸木船を作った。これがこの世界に初めて造られた船だと言われている」


「65へぇ~」とあきら。


 つまりこの船玉神社が船の発祥地ということらしい。


「それで山なのに船の神社があるんですか」

「ちなみにだが、今言った玉滝という滝は、明治の水害で埋まってしまい今はない」


 岡島先生が補足すると、絵里の顔が蒼褪める。


「また水害……。本当に多いですね……」


 辺りを見回す。そこには小さなせせらぎを生む音無川。


「まあ、熊野と水は切っても切れない縁だろうね」


 みつきがくいっと眼鏡を上げると、また岡島先生に対抗するかのように薀蓄を披露し始めた。


「この音無川は、古くは熊野詣へ行く人の心身を清めるポイント――垢離場として知られていた。草鞋を濡らして、徒渉する濡藁沓ぬれわらうつの入堂が行われていたんだ。今は痩せたような音無川だけど、これは熊野川でダムが造られたから。昔はもっと水量があったそうだよ」

「へえ……」


 絵里は古代の熊野に思いを馳せる。今よりも清涼で神々しい音無川に、一人ずつ徒渉する光景を思い浮かべる。あの峠を越えて辿り着いた場所がここなのだ。きっと、想像するような癒しを得ていたに違いない。


「さて、熊野本宮大社へ行くなら、猪鼻皇子、発心門王子、水呑王子を経由するんだが、僕たちのゴールは川湯だ。ここから、南へ進んで赤木越あかぎごえを行う」

「なんだか、裏道って感じがしますね」


 あきらがそう言うと、岡島先生は軽く頷く。


「確かに、古くは裏街道と呼ばれていたそうだ。本宮大社への道より、狭く、通る人も少ない。だが、途中は分岐が多いからな、迷わないように気を付けるんだぞ」

「はいっ」


 船玉神社での分岐点。

 左へ行けば本宮大社。右へ行けば湯の峰温泉を経由して、川湯だ。

 広場の横を通って、山岳部は赤木越ルートへと進む。

 そこで絵里を待っていたのは、


「またか!」


 と叫びたくなる、九十九折の急な登り道だった。

 だが、これで三度目。

 絵里もさすがに慣れてきた。

 力の入れ方、歩幅の取り方、足の置き方。今はそのバランスが箸を使ってご飯を食べるように身に沁みついている。

 どれだけ曲がりくねっていようと、どれだけ急だろうと、この足がある限り進むことができる。

 かくして、


「や、やったぜ……」


 杉と桧の人口林に囲まれた九十九折の坂を克服し、絵里はペースを切らすことなく登り切った。その先は尾根道。ただひたすら、なだらかな尾根道だった。

 坂を登り切った熱を冷やすかのごとく、特に難所もない道だ。口笛を吹き、スキップしたくなるほど快適な道。途中、見晴らしのいい場所から民家のある集落を覗くことができた。久し振りに生活感のある家を見つけ、ゴールが近くなっていることを実感する。


「きもっちいいー」


 絵里は自然と笑顔になっていた。

 釈迦ガ岳のときも感じたが、やはり見渡しの効く尾根道は開放感があって気分がいい。

 防鹿ネットが施された道を進んで行くと、鼻を硫黄の匂いがつんと刺した。おまけに見えてくるはもくもくとした湯気である。


「湯の峰だ」


 ぱあっと顔を明るくしてみつきが言った。

 熊野詣を旅する人々の休息の場。小栗判官の伝説やつぼ湯で有名な湯の峰温泉である。絵里も昔からよくドライブ感覚で親に連れて行ってもらい、つぼ湯で家族全員仲良く浸かった思い出がある。

 ゆっくりしたいのもやまやまだが、ここは通過点に過ぎない。

 民宿横の階段を下りて行き、車道へ飛び出す。長く続いた山道は、これにてピリオド。

 山岳部は車道を通って、川湯の野営場を目指す。

 といっても、湯の峰から川湯までは目と鼻の距離だ。

 のんびりと30分ほど歩くと――


「川湯よ、わたしは帰ってきた!」


 そんなことを言いいたくなるような、初めての大会の閉会の場として使われた川湯の野営場へと到着した。


 川湯の芝生を見るたび、建物を見るたび、胸に訪れるのは去年の出来事だ。


「また、来たねぇ」と優華も感慨深くその景色を目に刻む。


 すると、天女のような甘い声が耳朶を打った。


「お疲れさま、みんな。お茶を用意しているわよ」


 山岳部を待っていたのは、車を移動させていた岡島先生の奥さんだった。その隣では木のベンチに腰掛けた角先生が小説本を片手に寛いでいた。


「ありがとうございます!」


 天を仰げば、青々とした空に朱が混じり始めていた。熊野古道の中枢を制した興奮が体の底から湧きあがり、胸の鼓動を早めていく。その体をクールダウンさせるように、岡島先生の奥さんが入れてくれたつめた~いお茶を飲んだ。


「だけど、まだ終わりじゃないぞ。幕営審査の練習を、本番さながらに行うからな」

「はいっ!」


 そう、喜ぶのはまだ早い。

 到着して全てが終わるのが山岳部の大会ではないのだ。

 山岳部は岡島先生が手配してくれたキャンプ場の一角に集まると、高校の中庭でやっているときと同じようにメインザックからテントのパーツを取り出し、芝生の上に並べた。

 審査役の岡島先生の合図をじっと待ち――


「はじめっ!」

「よしっ!」


 気合を入れる山岳部。今日は一味違うテント設営を見せてやると心に決めていた。

 絵里たちは釈迦ガ岳で出会った城内高校の山岳部から、大会での審査のポイントなどを聞いていたのだ。

 テントの形状、機能を理解し、手際よく設営するのが幕営審査。

 張り網を強く張り過ぎていたり、テントが破損していると大きく減点になることも聞いた。

 設営時に重視されるのは、チームワークのよさ、ポールの状態、土足で踏むなど、テントの扱いが悪くなっていないか、物が無闇に散乱していないか、ちゃんとペグを打つ手は軍手をしているかなど。そして、意外だったのはザックの状態である。これも散乱していたり、雨蓋の処理が疎かになっていたりすると減点になるというのだ。幕営審査だからと言って、テントだけを見るわけではないのである。

 それらに気を付けながら、四人は力を合わせて、特に混乱することなくテントの設営に成功、緑色の我が城が川湯の野営場に造られた。


「うん、時間も申し分ない。見事だな」


 岡島先生に労われ、ほっと一安心。

 ようやく山岳部の体に自由の翼が舞い降りた。


「絵里、お疲れ様」

「どういたしまして、みつき」


 無事にテントを設営し、大きく体を伸ばしたところでみつきもまたにこやかな表情を見せ、絵里の疲れを吹き飛ばした。


「絵里、自分でも気付かないかい? 成長したってことに」

「成長って……」

「去年の踏査競技のときは、到着してからもくたくただったじゃないか。だけど、今は違う。ピンピンしていて、表情も和やかだ」

「あっ、確かに。あれだけ重いメインザックを背負っても、まだ力が余っている。日頃の練習の成果かな」

「そうだよ。九十九折の坂に苦労していたけど、その後ペースを取り戻したように、絵里のレベルアップを今回見ることができた。私はそれが嬉しい」


 じんと胸が痛くなる。苦しみではなく、喜びの痛み。


「みつき……。わたしも嬉しい。みつきがそんなに喜んでくれるほど、自分が役に立てたかと思うと……」

「だけど、油断は禁物だ。継続も必要だし、審査は他にもそれこそ山ほどあるんだから。この感覚を忘れずに、がんばろう」

「うんっ!」


 長年付き合ってきたみつきだが、今日の彼女はいつも以上に満開な笑顔を見せていた。普段はクールを気取っているからこそ、この柔らかい表情は宝石箱に入れたくなるほど貴重だ。


「さて、去年を思い出しながら……」

「次は炊事だね」


 熊野の山々に日が沈み、夜の帳が下りてくる。

 生ぬるい風が肌を触る川湯の野営場。GW中だからか、他にもキャンプ中の客が多く見られていた。バーベキュー中の大家族の姿も見られる。

 そんな他の客の食欲を横取りするような、立派な炊事をさせてみせよう。

 絵里は小さく光る金星にそう誓った。

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