VS.ダル

「絵里は安倍晴明を知っているかい」


 継桜王子を出てすぐのところで、みつきがそんなことを訊いてきた。


「あれでしょ。野村萬斎の映画」


 ぱっと思いついたのは2001年に公開されたばかりの、夢枕獏原作小説「陰陽師」の映画だった。内容自体は観ていないので詳しくは知らないが、あの妖しくも美しい雰囲気の呪い師のイメージは強く頭に残っている。


「シャーマンキングに陰陽師が出るから観たかったけど……なんか怖そうだから観なかったなぁ……」


 それで、唐突に何を言い出すんだろうこの幼馴染は。雑談の割には話題が脈絡なさすぎる。そう思っていると、


「この近くに民家には『安倍晴明のとめ石』っていう石があるんだ。別名は『安倍晴明の腰掛け岩』」

「え。安倍晴明って、この辺にも来てたんだ」

「那智山にこもっている花山天皇のもとへ訪れる途中、晴明は土砂崩れを予知したんだ。そこで石に式神を封じて土砂崩れを未然に防いだそうだ」

「へえ、その石が残っているんだ」

「そういえばさ、さっきも秀衡桜が水害でやられたって言ってたなー」


 話を聞いていた優華がぐいぐいっと二人の中に割り込んだ。


「この辺って、水害だとか土砂崩れだとか多いんだね」

「だね」

 

 みつきは神妙な顔つきで頷いた。


「この先の本宮大社もまた、水害で一度社殿を失っている。熊野はきのくに……木の国と言われているけど、水の事故も多く起こっているんだ」

「裏を返せば、その安倍晴明のとめ石も、水害に対するお守りや記録として伝説が語り継がれていたんだろうねー」


 あきらの考察ももっともかもしれないと絵里は得心した。故事の中には教訓として残るものも多くあるのだから。


「それにしても、秀衡桜といい、一方杉といい、安倍晴明のとめ石といい……こんな小さな場所でもいろんな話が集まっているんだね」

「……つまらなかったかい?」


 自信なさげにみつきが言う。


「そんなことないよ。面白い。わたし、みつきの話いっぱい聞きたいな。この土地のことを知れば親しみも湧くし、うきうきしてどんどん足が進むかも」

「そうか。ならいろんな話を仕入れなきゃね」


 ふふっと微笑み合う絵里とみつき。お喋りをしていると、不思議と体の疲れも残らなくなっていく。


 そうして、穏やかな道を進み続ける山岳部である。天気も良く、爽やかな五月の風は心地良く、すれ違う古道を歩く人にも元気よく会釈を交わせる。熊野古道の中枢だけあって、要所要所には石碑などが立ち、山道にはまったく飽きが来ない。


「わたし、全然疲れていない」


 去年の踏査競技のときより、重いメインザックを背負っているが疲労感は皆無。やはり、ここ最近の特訓の成果が如実に表れているのだろう。この継続力こそ、体力や持久力、精神力を増強させていたのだ。

 草鞋峠を下り、仲人茶屋跡に到着。


「ここから先が男坂……岩神峠だ」


 岡島先生が山道を指差す。その先は、登り坂。勾配が割とあるように見える。


「男坂ってことは、女坂もあるんですか」


 優華の疑問に答えたのは、またもやみつき。


「女坂は今下ってきた草鞋峠だよ。草鞋峠と岩神峠。女坂と男坂の間にあるから、ここには仲人茶屋が建っていたらしい」


「へぇ~」と口をすぼめて口笛を吹くあきら。


「よし、どんどん登っちゃおう!」


 と元気よく絵里が声を弾ませた。 


 が、


 何もかも順調にいくほど、世の中甘くないことを絵里は知るのだった。


「はあ……はあ……」

 

 体が重い。当然だ、10kg以上あるメインザックを背負っているのだから。

 顔から体中から玉のような汗が滲み出し、服をびっしょりと濡らす。首からかけたタオルで拭き取るものの、次から次へと汗が出る。


「これが……男坂!」


 男坂こと岩神峠は九十九折の急な坂だったのだ。時速60kmの車が急カーブでスピードを必ず落とすように、好ペースを維持していた絵里も男坂相手では歩行速度が落ち、歩幅も狭くなっていく。


「絵里、すごい汗だ。水を飲みなよ」


 そう言うみつきも汗だくである。


「いや……ここで飲んだら、あとで後悔するかもしれない。もう少し我慢して……」


「駄目だ。部長命令だ。給水しなさい!」


 母親のような声音でみつきが怒った。


「でも……」


 絵里がためらっていると、みつきはメインザックの横に挿していたペットボトルを取り出し、蓋を空けてごくごくと飲み始める。


「みつき……」

「……私でさえ、これだけ汗をかくんだ。体を壊さないためにも、必要なときには絶対飲むこと。いいね」

「……うん」


 みつきの眼力に気圧され、絵里は大事にしようとしていたペットボトルの水を一口飲み、喉を潤した。


「さ、一緒にがんばろう」


 絵里が体勢を整えたところで、みつきはぎゅっと絵里の手を握ってくれた。「ファイト一発」と言いたくなるようなシチュエーションだ。

 絵里は、自分を見守ってくれているみつきの優しさに感謝し、男坂を登り切ることに成功した。

 そして、この一帯は峠と呼ばれているように、登りがあればまた下りがある。

 岩神王子を通過してしばらくすると、またもや九十九折の坂。


「みんな、下りだからって飛ばしたりしないように。下りのほうが体にかかる負担は大きいんだ。ちゃんと踵から接地して歩くこと」


 リーダーシップをいかんなく発揮してみつきが呼びかけ、無理なく山岳部は峠を下って行く。谷川に沿った道を進み、湯川川を渡ると、そこは湯川王子だ。この周辺にも、湯川一族の墓や、石碑や鳥居が点在している。暗く鬱蒼とた山の中から何かの力を感じながら、絵里たちは次の要所、三越峠を目指す。


 のだが、

 またしてもここからが難所だった。


「また……九十九折の……急な坂!」


「前半の山場ですね」と、頭の中でスターフォックス64の台詞が蘇る。

 ここさえ越えれば、ちょうどお昼なので長時間の休憩となる。

 だから、もうひと踏ん張り!

 絵里は顔を下げない。ひたすらに前を向いて、友の背中を――今はメインザックだけど――を見つめる。


「足手まといには、なりたくないからっ!」


 今までの練習の成果を足に込める。歩幅を乱さず、的確に接地地点を予測して歩き続ける。止まらない。もう止まれない。

 確かな強い思いは、少女に力を与えた。

 そして――絵里は無事に三越峠に到着。


「や、やったぜべいびー……」

「がんばったな、山岡。それじゃ、ここで昼食休憩だ。大会と同じように、約四十分間な」


 登山競技大会では、昼休憩を想定したチェックポイントで強制的に休憩時間が取られることになっている。到着した時点から四十分間は必ずその場に留まらなければならないのだ。もちろん、四十分以上休憩してもいいのだが、それはそれで審査に響いてしまう。

 三越峠は舗装されており、近くには停車中の車の姿もあった。人によっては、ここから熊野古道を歩くこともできるというわけだ。トイレもあるので、休憩地点としては最適の場所である。


「さて、昼食昼食」


 と言っても、今日は千穂ヶ峰や釈迦ガ岳のときのように炊事をするわけではなく、大会と同じようにカロリーメイトを頬張るだけだ。


「絵里、がんばったね」


 みつきが近寄り労う。絵里と同じようにカロリーメイトをもぐもぐと噛んでいた。


「ダルに憑かれないか心配したよ」

「ダル……? 何それ」

「黄金の太陽のエナジーじゃないの?」


 飄々として答えたのはあきらだ。ちなみに、黄金の太陽とはGBA用ソフトのRPGだ。


「ダルは山の妖怪で、人に憑りつくと、脱力させたり意識を朦朧とさせたり、あげく死に追いやるんだ」

「なにそれこわい……」

「南方熊楠も大雲取・小雲取を越えるときに、ダルに憑りつかれたらしい。でも、米を一粒でも食べれば、ダルが退くそうだ」

「……それって……」


 絵里ははっとして男坂での出来事を思い出す。あの疲労感は、もしや妖怪ダルの仕業だったのでは。そして、水を飲んだことで退散に成功したのでは。


「いや、そんなわけないか」


 きっとダルの話もまた、何かの教訓として存在しているのだろう。疲労回復には何かを食べるのが一番だとか。

 思案に徹していると、みつきが顔を覗き込む。


「どうした、絵里」

「なんでもないよ。そうだ、休憩中も暇だから、何か話してよ」

「いいよ。それじゃあまた、安倍晴明が那智山に行ったときの話をしようか」


 穏やかな五月の昼下がり。

 絵里はみつきの話を聞いて癒されていた。

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