VS.不眠

 空にはきらきら星の空。絵里は山岳部の練習を終え、これから駅に向かい電車に乗って帰ろうとしているとき、


「うーん」


 とつい口に出して唸ってしまった。


「どうしたんだい、絵里。練習は好調だったのに、何か悩みがあるのか?」


 隣を行くみつきが怪訝な表情で絵里の顔を覗き込む。


「何か不安なことがあるなら言ってほしい。私が力になるよ。それが、山岳部部長としての当然の務めだから」


 ぐっと拳を握って絵里を安心させようとするみつき。その優しさに心を打たれ、絵里は常日頃考えている悩みを口にした。


「この前の行動計画書を作っているときから思ったんだけど……大会の日、ちゃんと寝れるかなって」

「ああ……」


 一年前、神倉高校の武道館で就寝したときは、なかなか寝付けることができなかった。縦走競技は当然ながら体力勝負。快眠してコンディションを最適にしなければ、競技内容に響いてしまう。


「今度の大会は20時に就寝、3時に起床。最大で7時間寝られることになっているけど……。わたしはどうも大会を前にすると寝付けないから……」


 絵里の脳裏に過ぎるのは、中学三年生のときのポケモンカードの大会だ。あの日も、従姉妹の家で寝させてもらったのだが、緊張からか朝早くに起きてしまい、その後眠れないまま本棚のHUNTER×HUNTERを読んで時間を潰していた。


「快眠できる方法、か」


 顎先に手を添え、熟考するみつき。


「よし。こういうときは、本で調べるに限る」


 友の悩みを解決しようと躍起になったみつきは、絵里を本のある場所へと導いた。国道42号線を進み、辿り着いたのはかつて山の地図を手に入れたジャスコの書店だった。みつきはぱらぱらと本を立ち読みすると、役に立ちそうな情報を調べ始めた。


 そして、二階のフードコートの空いたテーブル席に座り、作戦会議開始である。

 みつきはメモ帳を開き、収集した情報をまとめて絵里に聞かせる。


「眠れるようになるコツだけど、大事なのは心身をリラックスさせることだとわかった」

「うんうん」

「昼の神経である交感神経を、夜の神経である副交感神経に切り替えることが大事。そのためには、腹式呼吸をするといいらしい。さ、絵里。練習だ。仰向けになって」

「え、ここフードコートだけど……」

「眠れなくなってもいいのか?」

「あっはい。やります」


 半ば強制的に、絵里は近くにあったベンチに仰向けになる。近くを通りかかった清掃員に、「どこか気分が悪いんですか?」と訊かれたが、「大丈夫です」とみつきが答えた。


「足を肩幅程度に開き、手のひらを上に向ける。そして、リズムよく鼻で息を吸って、お腹を膨らませる」


 みつきの言う通りのポーズをしてみる。


「そのあと息を吐き、三秒間息を止める」

「――!」

「これを三分ほど繰り返す」

「まだやるの?」


 たまらなくなって絵里は上体を起こした。これ以上ショッピングセンターの中で講習を受けたくはない。


「もう覚えたから、続きは家でやるよ」

「筋弛緩トレーニングも効果的だそうだ。手のひらをぎゅっと握って広げるを繰り返すとこりがほぐれて良くなるらしい」

「…………」 


 これくらいなら今でもできるかも、と絵里は両手を握ったり開いたりを繰り返す。


「あとはそうだな、ぬるめのお湯に浸かるといいらしい」

「……大会の日はわたしたちお風呂に入れないよ?」

「だな。まあ、日常では役に立つかもしれないから覚えておくんだ。あとは、夕食後にウォーキングをするといいらしい。深部体温が上がり、寝たいと思ったころには体温が下がるので寝つきがスムーズになるという」

「ウォーキングだね。って、わたしはず~っと歩いているけどなぁ」


 メモ帳をぱらぱらと開いて、みつきはアドバイスを続ける。


「朝食はバナナと牛乳にする。バナナには睡眠ホルモンであるメラトニンを作るトリプトファンという物質が含まれているんだとか。それもしっかり噛めばいいらしい」

「なるほど。それは覚えておこう」


 朝食は食パンをかじっている程度だが、これからはバナナを生活の始まりだ。


「日中は適度な運動……」

「してる。毎日してる」

「夜は酒とたばこは控える」

「からかっているの?」

「寝る前にパソコンの画面を見ない」

「パソコンは持ってないけど……もしかしてゲームをするのもだめなのかな?」


 だとしたら、日課となっている寝る前のゲームも控えなければならなくなる。今は、烈火の剣の三周目の最中なのだが。


「何かしらの入眠儀式を慣習にすればいいらしい。寝る前に本を読む、ということを繰り返していれば、いつかは本を手に取るだけで眠くなるとか。特に推理小説がいいらしい」

「推理小説を読む……なるほど。何か買っておこうかな」

「だけど、一番大事なのは『寝たい場所』を『寝る場所』だと思うことだよ」


 みつきがぴんと人差し指を立てて言う。


「どういうこと?」

「ベッドは寝る場所だと最初から知っているから寝付ける。自分の部屋ならなおさらだ。だけど、武道館を寝る場所だとは思わないだろう? だから、一年前はうまく寝付けなかったんだ」

「たしかに」

「今回は古佐田丘高校の体育館で寝ることになる。その写真を手に入れて、ここは寝室だと思い込ませるといいと思う」

「まさに催眠術だね……」


 難易度は高そうだが、効果はありそうだ。パソコンを借りて古佐田丘高校のホームページから体育館の写真をダウンロードしようと絵里は決意した。


「それともう一つ、大会当日は寝袋で寝るから、今のうちから寝袋に体を馴染ませておくと入眠儀式が成り立つと思う」

「……わかったよ、みつき。今のうちから大会に備えた睡眠環境を整えてみる」


 こうして、大会の不眠対策会議はつつがなく終了した。


 あとは実践あるのみである。

 絵里はさっそく、書店で推理小説を、食料品コーナーでバナナを購入。ジャスコから神倉高校へと戻り、職員室に残っていた担任中田先生に無理を言って古佐田丘高校のホームページにある体育館の写真をプリントアウトしてもらった。

 


 絵里の入眠儀式はその晩から始まった。

 部屋の中に寝袋を敷き、古佐田丘高校体育館の写真を目に見える位置に貼り、腹式呼吸も繰り返し行い、筋弛緩トレーニングを試みる。そして、寝る前にゲームを控えて推理小説を少しずつ読むことにした。

 すると、あっという間に眠気が訪れた。この感覚を大事にして、大会に備えねばと思う絵里だった。

 目が覚めて、その日からはバナナ生活が始まった。牛乳もしっかり飲むと、絵里はいつも通りメインザックを背負って登校する。


「おはよう絵里、よく眠れたかい?」

「おはようみつき。ばっちりぐっすりだったよ」


 電車の中でみつきと朝の挨拶を交わし、成果を報告する絵里。


「だったら、もう安心だね。昨日は言っていなかったけど、不眠対策で大事なのは心の悩みを吐き出すことだったんだ。それを絵里は行ったんだから、きっと大会でも快眠できる」

「心の悩みって……あっ」

「絵里は大会で眠れないだろうって不安で余計に眠れなくなるところだったんだ」

「それをみつきに打ち明けたから、寝付きやすくなったってこと……」


 ふふっと得意気にみつきは笑った。どこまでも仲間思いなみつきの好意に、絵里は感激するのだった。


「それじゃあ、今日もがんばろう、絵里」

「うんっ」


 不安の種が取り除かれ、心が軽くなった絵里。そして、支えてくれるみつきのためにも精一杯がんばろうと決意する。


 ――春季登山大会まで、あと10日。

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