大和葛城山
「はあっ……はあっ……」
ここさえ登ればキャンプ場のある葛城高原。そこへと至る急な階段で、絵里は息を荒げていた。
「絵里、大丈夫?」
みつきが立ち止まり、振り返る。間隔を広げるわけにはいかないので、全員が絵里に合わせて足を止めた。
「うん……まだ、まだ大丈夫」
そう言う絵里の表情は硬い。
「これまで練習を繰り返してきたんだもん。これくらい、なんてことはないよ」
「って言ってるけど、すごい辛そうだよ」
あきらが指摘したように、絵里はただ強がっていただけだった。これまでの登山行動での疲労が蓄積し、足も棒のようになっていたのである。その上でこの急な坂道だ。絵里の体力は限界に近付いてしまった。
自惚れていたのかもしれない。今まで各地の山や熊野古道で縦走の練習をし、もう大丈夫だろうと思い込んでいたのかもしれない。しかし、いざ踏み込んだこの大和葛城山は絵里の想像以上に過酷な山であった。
「しんどいなら、休憩にしよう。いや、するんだ。絵里のためにも」
そう言うと、優華はどかっとメインザックをその場に置いた。
「ほら、私の分の水も飲みなよ」
あきらがペットボトルを渡してくれる。
「絵里、無理して先へ行こう行こうと思わなくてもいい。ただ、歩き続けるだけでいいんだ。これはレースじゃないんだから」
みつきの優しい声。絵里は汗を流し、俯いた。
「それはわかってる。だけど、どうせなら休んだりせず、気持ちよくゴールしたかったから。そうじゃないと、今までの練習はなんだったんだって思われるから……」
そう答えると、みつきの表情が曇り、眉間にわずかに皺が刻まれた。
「……仮にこのままゴールしたところで、絵里はばてて倒れてしまうだろう。そんな様子の絵里を見て……私は満足すると思うか?」
「それは……」
「私はそんな光景を見たくはない。きっと、何年か、何十年か経って今日のことを思い出したとき、胸が痛むと思う。絵里に無理に歩かせて、踏破したって」
「…………みつき」
そんなみつきの言葉こそ、絵里の胸を刺す棘だった。理想的な山岳部の像――順調にゴールし優勝を目指すということに囚われてしまっていたことを悔やみ、絵里は唇を軽く噛んだ。
「そういうわけだ。ゆっくり、確実に登っていこう。休みたかったら、隠さずに言ってくれ」
「はーい、じゃあ私は疲れたので五分ほど休みます!」
体力が余りまくっているようなあきらもメインザックを下ろして休憩。
「みんな……ごめん。ありがとう」
絵里は胸の中がちりちりと焦げていくのを感じた。
それからは、ゆっくりとじっくりと、小休憩を繰り返しながら無理なく急な道を進んで行く。心ひとつに。メインザックで揺れる梛の葉のストラップで結ばれた絆を確認しながら――
他のパーティーに追い越されることもあったが、間隔を広げることなく、走ることなく、自分たちのペースで大和葛城山を登っていく。
足が熱く、体もふらふらする。それでも、今までの経験が絵里の体を支えた。
「絵里、この先足場が悪い。用心して進むんだよ」
優しい声が絵里の耳に届く。それを聞くだけで、活力が蘇った。
やがて木々も低くなり、見通しの効く道へと変化する。涼しくもなく、暑くもない不思議な風を浴びながら、絵里は進んで行く。道はなだらかになった。自然と歩調が回復する。
「わあっ」
そして目に飛び込んで来たのは、山も空も青い世界だった。ふと、佐藤春夫の歌が脳裏を過ぎる。
空青し
山青し
海青し
熊野ではないが、この山々も空も、海のように煌めいていて綺麗だった。山の神がいるのならば、この青の世界を龍のように泳いでいるに違いない。
自然と、絵里の目元から涙が零れる。心が洗われるような天上の世界を歩み、感動で心が震えた。そう思えるのも、仲間と一緒に長い道のりを歩んだからだ。タオルでそっと顔を拭き、絵里は前進を続ける。脳内ではZARDの「負けないで」が流れた。自分で自分を励ましながら、絵里はみつきの背中を追いながら歩いて行く。
「みつき……」
思えば、ずっと彼女が先を行ってくれていた。成績もみつきのほうが優秀で、体力があって、責任感も強くて、ついでにスマブラもうまくて、頼りになる我らが部長。
みつきがいたから、引っ張ってくれたからがんばれた。
視界が滲んでも、絵里はみつきのメインザックに貼られているゼッケンをずっと見つめ、歩き続けた。
やがて――
「がんばったね、絵里」
みつきが穏やかな表情でそう言ったように――
目の前には葛城高原ロッジ。キャンプ場を擁する、今大会の終着点。
「着いたー!」
優華とあきらがそろって万歳。
神倉高校縦走女子パーティーは無事に金剛山・大和葛城山のコースを踏破したのだ。
時刻は13時10分。実に七時間にも及ぶ道のりを終え、疲れが高波のように押し寄せた。
「神倉高校縦走女子、到着確認」
高体連の先生が四人の姿を見て微笑む。
「では、地図と記録を取った行動計画書を見せてください」
「はいっ」
そして、読図に使用した地図と、みつきが懸命に記録していた行動計画書を提出。
そこへ、馴染みのある声が降りかかる。
「ようし、お前ら。よく頑張ったな!」
キャンプ場に着いた四人を歓迎したのは、運営に協力していた岡島先生だった。
「これが褒美だ。好きなジュースでも買ってこい」
さらに角先生が一人一人に二百円玉を渡して労う。
「ありがとうございます、先生」
みつきが深く腰を折る。その顔はこの空のように晴れやかだった。
「お疲れ様、絵里」
「さ、幕営審査までゆっくり休もうよ」
優華とあきらがぽんぽんっと絵里の肩を叩く。すると、絵里の体がふらりと揺れた。その様子を見て――
「もう歩けないなら、騎馬戦みたいにして運ぶけど?」
にししと笑いながらあきらが言った。
「そ、それは恥ずかしいよ。大丈夫、大丈夫だからっ!」
まだまだ力は残っているとアピールするかのように、ずんずんっと絵里は歩いてキャンプ場の芝生にメインザックを下ろす。さらに、ロッジの自動販売機でコーラを購入。爽やかに弾けるコーラの味は、いつもよりも美味しく口の中に広がっていった。
シートを広げ、メインザックを枕にして横になっている優華とあきら。
みつきもまた大きく背伸びをすると、シートの上で体育座りを始め、体を休めた。
ふと、みつきの眼鏡越しの視線が絵里と合わさった。
「絵里、どうかした?」
何故だか頬が熱くなる。
「ううん。なんでもない、その……ありがとう。いろいろと。みつきやみんなのおかげで、ここまで来れたから……」
「どういたしまして」
にこりと笑顔を作る幼馴染。
「大会は苦しくて、つらいものだと思っていたし、実際今日も順調とは言えなかった。それでも、みんなと一緒にいられたから……山の景色はとってもきらきらして見えたし、心も晴れやかになったよ」
絵里は穏やかな表情で、みつきに言った。
「山は……楽しいね」
「そう言ってもらえて、光栄だよ」
ふふっと、絵里とみつきは微笑み合う。
長い、過酷な道のりを経てついに辿り着いた大和葛城山。
しかし、これで全てが終わったわけではなく、幕営審査もある上に、就寝などマナーも審査として残されている。
大会は丸一日残されており、最後まで気が抜けない。
〝――本当にありがとう。みつき……〟
それでも、絵里は多幸感に包まれ、今の状況を心の底から楽しんでいた。
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