初めての「大会」④
川湯はその名の通り温泉街でもある。
特に有名なのが掘れば温泉が湧く大塔川だ。冬場になるとこの川を掘った「仙人風呂」という超天然の露天風呂が作られ利用することができる。その開放感は抜群であり、野生の猿も入浴するほどだ。
そんな川湯の温泉街の中にある、公共浴場。
女風呂で絵里、みつき、優華は湯船に身を沈め、茹でタコになっていた。
「ふう、疲れがとれていくね」
眼鏡を外したみつきが微笑む。そのまま背筋を伸ばしてから両手で湯をすくい上げ、自らの髪を濡鴉色へと染めていく。ほくほくと湯気が立ち、体の芯から温もり、気持ちよくてたまらない。
絵里は湯船の中の足を揉みながら、この温かさを堪能していた。本当に心地が良い上、寝不足だったのでこのまま瞼を閉じれば眠ってしまいそうだった。
「それにしても、みんなすごかったよなぁ」
のほほんとした表情で優華が呟く。
「まさか、山岳部にこんな本格的な大会があったなんてなぁ」
「優華、後悔している?」
みつきが顔を顰めると、優華は手を振って湯気を飛ばす。
「いや、楽しいよ。いい経験になったと思う」
「明日、いよいよ審査発表だね。踏査のわたしたちは……どれだけ健闘したかな」
「天の星に祈りながら結果を待とう」
「うん……」
絵里の足を揉んでいた手が止まった。そして、その目には苦い雫が。
「絵里?」
「ううん。ごめん。わたし、足を引っ張っちゃったなって思って……」
「そんなことはないよ。私だって、近くに絵里がいたからがんばれたんだ。絵里じゃなかったら、優華もいなかったら、挫けてたさ」
「癒し系だからな!」
優華が豪快に絵里の肩をぱちんと叩く。湯の雫が跳ね頬を打った。
「いや死刑? ごめんなさいごめんなさい」
「相当疲れているようだね。それじゃ、絵里。体洗ってあげよっか。がんばったご褒美に」
「えっ、わっ、きゃっ!」
絵里の体を引っ張り、みつきが洗い場へと彼女を向かわせる。そのとき、みつきの眉が跳ねた。
「絵里、体重増えた?」
「……たくましくなったの」
そんな談笑を交えながら、絵里は幼馴染からのサービスをありがたく受け取るのであった。全てが終わったあと、みつきの手にした石鹸とタオルによって綺麗さっぱりつるつるてかてかとなったときの心地良さを、絵里は一生忘れないだろう。
その夜は静かで、思いのほか涼しかった。
絵里は自動販売機で売っていた500mlのコーラの缶を味わいながら、川湯の空を天体観測。目を閉じれば激動の一日が蘇り、意識はすぐにその中へと飛びそうだった。
コーラを飲み欲し、空き缶を捨ててテントの中へ。そこではラジオを聞きながらみつきと優華がトランプでババ抜きをしていた。絵里も参加し、しばらく遊ぶ。その最中、他のテントから他校の山岳部の笑い声が、雑談が常に聞こえていた。山行を終え、みんなリフレッシュしているようだ。山岳部ではないキャンパーがバーベキューを行い、その香ばしい燻製の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。こうした「環境音」を聞くのもまた山岳部の醍醐味かもしれない。
そうして、夜が深まり、三人は寝袋に包まれ、ランプの明かりを消す。
「おやすみ、絵里、優華」
みつきがそう言ったかと思った次の瞬間には寝息が聞こえてきた。
「お疲れ様、みつき、優華。お疲れ様、わたし」
そう呟くと、絵里はゆっくりと瞼を閉じ、意識は暗転していった。
2002年6月3日。
川湯野営場でテントを片付けた三人は、他校の山岳部たちと一緒に整列し、閉会式に参加していた。
厳正な審査の結果、今大会の勝者――近畿大会出場者やインターハイ出場者が決まるのだ。
「神倉高校踏査女子。踏破おめでとう」
「ありがとうございます」
高体連の先生から、みつきが代表して踏破の証である賞状を受け取る。
それだけ――
みつきたちには、ただそれだけの結果であった。
結局のところ、上位入賞も果たせず、ただ山岳部として大会がどんなものであるかをその身で覚えただけ。でも、それでもみつきは微笑んで結果に満足していたようだった。
そして――
「女子縦走優勝――古佐田丘高校。優勝おめでとう」
ぱちぱちと万雷の拍手を受けて、一つのグループが涙を浮かべながら賞状を受け取っていく。
「古佐田丘高校……?」
それは、和歌山の北端。橋本市にある高校の名前だ。新宮市にある神倉高校からはもっとも距離が離れている高校とも言える。そんな世界の反対側にいるような高校が、今回の縦走を制覇したらしい。メンバーはほとんどが三年生。しかし、一人だけ絵里たちと同じ一年生が参加していた。
絵里と変わらない、平凡な体格。ごく普通の女子という印象しかない。
だが、「見た目で人を判断してはいけない」と、春休みから遊んでいたゲーム「封印の剣」でフィルというキャラクターが言っていたのも思い出す。
「すごい、わたしたちと同じ一年なのに、縦走で優勝するなんて……。ねえ、みつき」
驚愕した絵里が部長に呼びかける。
「あ、うん……」
「だけど、縦走か……。踏査でさえ、あんなに大変なのに、もっと大変なんだろうな。重い荷物を背負って、あの道を行くなんて……」
「……うん……」
みつきは神妙な顔でしっかりと、古佐田丘高校の一年生女子を見つめていた。
日韓ワールドカップのグループ予選が始まり、日本がベルギー戦へと向けて闘志を燃やす中、小さな炎は確かに、この和歌山の片隅でも生まれようとしていたのだった。
これが神倉高校山岳部の初陣だった。決して好ましい結果ではない。だが、一年生しかいないのだから当然とも言えなくもない。
それからも神倉高校山岳部の活動は続いた。
七月にはみつきたちは夏季登山として富山県の立山へと向かった。初めての雪と氷の山を登り、絵里は広大な自然の景色を堪能することができた。
秋には秋季登山大会があり、滋賀県へと向かった。紅葉に染まる滋賀の山々は異世界のようで心が癒された。
冬にはロングハイキングという神倉高校特有のイベントがあった。これは二年生のみに行われる、小雲取を歩くという集団行事だ。山岳部はイベントの補佐という形で参加し、春に続いて三度小雲取を歩いたのだった。
なお、この間に山岳部には退部者が続出し、男子部員はとうとうゼロ。そして、代わりに女子部員に塩地あきらが追加されることとなった。
季節は巡り、年が明け2003年が訪れた。絵里の元に届いたみつきからの年賀状には、ポケモンのメリープのイラストが描かれていた。
そして、ついにこの春に絵里たちは進学。
神倉高校山岳部は新たなステップへと踏み出そうとしていたのだ。
「ほんと、あっという間だった……」
時計の針は戻り2003年4月中旬。
「みつき、本当に縦走に参加するのかな……」
だとしたら――あの古佐田丘高校の一年生も同じように進学し、縦走参加者としてまた現れるのだろう。前年度チャンピオンとして。強力な確固たるライバルとして。
「……ま、それより……烈火の剣が楽しみ……」
目の前に迫る大きな課題から目を反らすように、絵里は発売が迫るゲームボーイアドバンスソフト「烈火の剣」に思いを馳せていた。
二年生に進学しても――絵里はまだまだ楽天的。
その意識が変わるのは、ほんのちょっとあとのことだった。
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