神が宿る山
2003年4月19日。
快晴。
降水確率0パーセント。
「絶好の登山日和だね」
澄み渡る蒼穹を見上げながら、去年の大会のときと同じ登山服の絵里が山岳部部長に声をかけた。
「ああ、まさに空青し……そこにある、佐藤春夫の歌の通りだ」
くいっとみつきが顎を動かし、絵里の視線が追従。その先にあったのは、新宮市出身の佐藤春夫が残した詩『望郷五月歌』の一節が書かれた看板だった。
ここは新宮駅。和歌山の一番東にある駅。紀勢本線のJR西日本側の終点であり、ここから三重方面へはJR東海が管理する電車に乗り換える必要がある。
ガラス張りが特徴的な駅舎。その新宮駅の広場には、大きなソテツの木があり、ここが南国であることを教えてくれる。そのソテツの下にあるベンチで、二人は他のメンバーが来るのを待っていた。
休日の新宮駅は観光客でおおいに賑わっていた。さもありなん。この新宮駅周辺だけでも、観光スポットは数多くあるのだ。
まず、新宮駅から目と鼻の先にある徐福公園。不老不死の霊薬があると信じて海を渡ってきた秦の僧徐福の伝説が残る場所だ。さらに、熊野川の方面へ向けて市街を歩けば、佐藤春夫記念館や、西村記念館があり、大正時代の息吹を感じることができる。また、浮島の森も有名だ。沼地にある島が泥炭浮遊体という泥炭層で構成されており、文字通り浮いているのである。
そして、これらより多くの人を集めているのは、熊野三山の一つである、熊野速玉大社だ。他の熊野那智大社や熊野本宮大社と違い、市街地にあるので参拝がしやすい。
「あっ……わたしたちみたいに登山用のザックを背負っている人たちも。どこかの大学のサークルかな……」
絵里の視線の先にはサングラスを着用したがっしりとした体格の青年。
「おそらく、熊野古道へ行くんだろう。大雲取小雲取か、近露か……」
「熊野古道も人気だね」
「ああ。世界遺産の推薦書が提出され、次はいよいよ実地調査。そこで、熊野古道が世界遺産として登録されるか否かが決まるんだ」
「決まったら、もっと多くの人がここに来るのかな」
「まあ、そのとき私たちは高校を卒業しているだろうが……」
「…………」
絵里がぱたぱたと足を動かし、時間を潰しているときだった。
「おはよう、みつき、絵里」
「お待たせー」
現れたのは山岳部の残りの二人、優華とあきらだ。
「買い出しお疲れ様」とみつきがあきらを労う。
あきらは今日の練習の調理で使う食材を優華とともに買いに出かけていたのだ。そして、入手した食材は背中にある大きなメインザックに詰め込んである。ぱんぱんに膨らんでおり、とても動きにくそうだが、運動神経が抜群なあきらは平気そうな顔だ。
なお、メインザックで登下校を始めた絵里だが、今日は当然ながら中に百科事典やらゲームキューブやらは入っていない。
テント本体、ポール、防水シート、調理シート、ガスコンロ、ガスカートリッジ、包丁やまな板などの調理用具、調理用の水が入ったポリタンク、救急箱、ラジオ、などなど。実際の大会と同じように装備品を四人で分担してメインザックに入れているのである。
「神倉高校山岳部、ファイトー!」
「おおー!」
初めての本格的な縦走練習だ。四人は円陣を組んで、檄を飛ばした。
「きみたち、山岳部なのかい。どこの山へ行くんだい? もしかすると、僕たちと同じ本宮方面かな?」
そう声をかけてきたのは、先ほど絵里が見つけた大学生らしき青年だ。
「いえ」
みつきが新宮駅の向こうを指差し答える。
「千穂ヶ峰です」
「……そうか。なるほど、察するに大会の練習か。それじゃ、道中気を付けて」
回答が近所だったので拍子抜けしたのか、乾いた笑いを浮かべる青年。そのまま軽く手を振ると、観光バスに乗り込み去って行った。
「よし、行動開始。まずは神倉神社へ向かおう」
「うん」
四人は縦一列になって行動開始。まるでMOTHER2のようなRPGのパーティーのごとく、距離を保ちながら市街地を行く。
新宮駅から国道42号線方面まで、人通りの少ない住宅地を抜ける。国道42号線に出たところで、三重県方面へ。やがて、絵里には馴染みのあるゲームショップが見え、その隣には裁判所。この辺りから、四人は山沿いへと進んで行く。
熊野速玉大社の摂社である神倉神社。御燈祭で有名な磐境信仰の神社。そして、今日の登山コースのスタート地点だ。
初めてこの神倉神社を訪れる人は必ず驚愕するに違いない。
538段もある、石段に――
「ホント、いつ見ても壁だねー」
境内に入り、その灰色の石壁を見つめてあきらが感嘆の息を吐く。あまりにも急勾配な石段は階段ではなく壁と表現するのが的確なのだ。
「ここを登って、登山道に入るんだ。さあ、絵里。覚悟はできた?」
「うん」
ぎゅっと両手を握って覚悟完了。
そこへ、
「おお、お前ら。待ってたぞ」
気さくに声をかけてきたのは、近所のおじさんでもなんでもなく、
「岡島先生、おはようございます」
四人が揃って挨拶をしたように、山岳部の顧問岡島先生だ。みつきの縦走練習の監督役を引き受けてほしいという急な依頼を快く承諾し、この神倉神社で四人の到着を待っていたのだ。
「今日の昼御飯は私たちが作りますからね。弁当とか持ってきていませんよね?」
「もちろん。お前らを信じてるからな。相当やる気があるみたいだし、期待してるぞ」
「はいっ」
「僕は四人の後ろに付いて、体勢に乱れがないか、ちゃんと歩けてるかチェックする。よーし、レッツゴーだ」
飄々とした声をかけられ、四人は石段へと向かった。
傾斜45度の石段。普段の練習でも登っているが、メインザックを装備して登るのは初めてだ。装備に振り回され、足を崩せばあっという間に石段を転がり、病院へ直行すること間違いなし。そんな危険が、この地上十メートルにも満たない地点に隠れているし、それを克服する安全登山こそ大会の意義なのだ。
「……もし足を滑らせたら、岡島先生に助けてもらおう」
そんなことを考えながら、絵里は一歩一歩慎重に石段へ足を乗せ、体重を移動し、体全体とメインザックを意識しながら登っていく。ここで決して後ろを振り返ってはいけない。怪談のように聞こえるが、事実だ。あまりの断崖めいた光景に眩暈を催し、滑落してしまう可能性があるのだ。
「……古佐田丘高校には負けられない……!」
ライバル校のホームページに載っていた、古佐田丘高校山岳部の練習風景を思い出す。古佐田丘高校になくて、神倉高校にあるもの。それは、この神倉神社の石段! この絶壁のような石段を登り降りできる山岳部は、神倉高校だけ! そんなアドバンテージを強引に導き出し、絵里は活力にしていたのだ。
そうして、山岳部は小さな鳥居と祠のある『中の地蔵』と呼ばれる地点に到着。ここは広場になっており、ここから先は石段もなだらか。ごく普通の道となっているので危険は皆無だ。
「ふう、疲れた……」
さっそく中の地蔵で休息。しかし、まだ全然登山コースを消化していない。
「まだまだ序の口だからな。これくらいで疲れたって言ってたら、本番も苦しいぞ」
「っ! がんばります!」
岡島先生にそう言われ、絵里はびしっと姿勢を正した。
四人はそのままペースを保って進んで行く。
この緩やかな石段の先にあるのが、神倉山に鎮座している巨岩『ゴトビキ岩』である。ゴトビキとはヒキガエルという意味であり、確かにそう見えなくもない。涼しい風を浴び、ゴトビキ岩にある拝殿にお参りすると、山岳部の一行はいよいよ草木が生い茂る山の中へと突入する。
千穂ヶ峰の遊歩道は剥き出しの岩があるのも特徴的だ。苔が生えており、正しく踏み込まないと転倒する恐れがある。おそらく、春季大会でもこういう岩場が審査のチェックポイントとなっているだろう。
みつきが難なく進み、絵里が続いていくが、
「おっとっと……」
メインザックが揺れ、バランスが崩れてしまった。お陰で岩に足を乗せたとき、
「あっ!」と声を出して、絵里が転倒してしまう。
「絵里!」
地面にぶつかりそうになる絵里の体を、みつきががっしと支えた。メインザックの重量がプラスされ、普段以上に重い絵里を受け止める幼馴染。顔を赤くしながら絵里はしっかりと踏み込み、体勢を整えてみつきの体から離れた。
「ご、ごめんみつき。ありがとう」
「ヒヤリとしたぞ、山岡。ちゃんと、リズムよく、姿勢を整えて、足を置く場所も考えて歩かないとだめだ」
「はい……」
岡島先生にそう叱られ、しゅんと身を縮ませる絵里。
そんな心臓が冷えるアクシデントもあったが、その後は何事もなく慣れた遊歩道を進むことができた。岡島先生の六根清浄をBGMに、一行は『牛の背中』と呼ばれる地点に到着する。
『牛の背中』――牛が寝そべっているように見える露岩があるのでその名が付いた場所だ。この岩は花崗斑岩と呼ばれており、ガラスのような石英、白っぽい長石、黒くて艶のある黒雲母を含んでいる――と、看板に書いてあった。
「うわー、絶景絶景!」
メインザックを背負ったまま、絵里は牛の背中から新宮の市街地を見下ろす。まだ山頂ではないものの、ここから雄大な熊野灘を一望することができるのである。
「なんだか、これだけ重装備だと普段とは違う景色に見えてくるな」
優華が汗をびっしょり流しながら言った。
「いい感じに体が熱くなってきたね。さあ、このまま山頂を目指そう!」
まだまだ元気いっぱい。疲れを知らなさそうなあきらが絵里たちを激励する。
牛の背中からさらに登っていくと、尾根道である。
左の断崖絶壁にはS字状にうねる熊野川と緑の山々。
右には青い熊野灘。
緑と青の景色を一気に味わうことができるのがこの千穂ヶ峰の尾根道だ。四人はリズムよく、間隔を維持しながら進み――
「山頂だ!」
標高253m。古来から神々が降臨したとされる千穂ヶ峰。その山頂に、山岳部は到着したのである。三角点と、積み重ねられた石の山。そして、別名である権現山の説明をする看板もある広い台地である。
「よし、ここで休憩」
みつきの声で、四人は一斉にメインザックを下ろす。とてつもない開放感を得て、絵里は羽が生えたような心地を得ることができた。このまま空へと飛んでしまいそうだったが、それを阻止するかのごとく、腹の中で鐘が鳴った。
本日お待ちかねであり、山岳部の新たなレベルアップのための試練。
「これより調理を開始する!」
「おー!」
そう――
登山の醍醐味の一つでもある、炊事の時間がやって来たのである。
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