登校ハードモード
「よいしょ……よいしょ……」
制服を着たままメインザックを背負ってもいい。自由とはそういうものである。
「はあ……重い……」
四月の朝の陽射しを浴びながら、山岡絵里は家を出て駅に向かっていた。くすくすと、すれ違う小学生の笑い声が聞こえる。わたしは見世物じゃないと心の中で叫びながら、絵里はにこにこと近所のお姉さんスマイルを放った。
春季大会への課題の一つ。体力。
一年前の踏査競技で参加したときですら、絵里は他のパーティーメンバーとの体力差を感じてしまっていた。このままでは縦走で参加しても恥をかく未来が待つのみと嘆いた絵里は、体力アップのために、常日頃からメインザックを背負い、体に馴染ませようと考えたのだ。
もちろん、メインザックは空などではなく、縦走競技を想定して「重く」してある。教科書、ノート、辞典の類を全て詰め込み、まだ重量不足だったのでペットボトルに水を詰め込んだり、ゲームキューブを入れたり、ろくに読んだことのない叔父からもらった百科事典を入れたりしてどうにか縦走競技本番と同じ重量にしてある。
「ひいっ、ひいっ……う、汗が……まだちょっとしか歩いていないのに……。み、水……いや、飲んだら重量が減る!」
メインザックを左右に揺らしながら、四苦八苦する絵里。
「これじゃあ、縦走じゃなくて重装だ……。アーマーナイトみたい。ふだんの移動力が6なら今は4くらいかも……アーダンも恋人ができないわけだよ」
そんなくだらないことを考えていると、
「やばっ……電車、遅れちゃう。このままじゃ。急げ、わたしっ! ファイトっ、わたし!」
自分で自分を応援しながらできる限り駆け足で絵里は駅へと向かう。そこで絵里を待ち構えていたのは歩道橋。つまりは、階段だった。
「こ、ここを登らなきゃ……ホームに行けない……」
ぱちぱちっと膝を叩き、鞭を入れ、絵里は階段を登り始める。足に相当の負荷がかかるがそれがどうした。これこそがこの鍛錬に必要なものではないか。一歩一歩慎重かつ大胆に踏み込み、姿勢を正し、ここが人工物の階段ではなく草木の匂いが漂う山の中と思い込みながら絵里は進み……
「よしっ。登頂成功! やったぜべいびー!」
たったの三十段にも満たない階段を登りきりはしゃいだ。
「……急ごっと……」
我に返った絵里はそのまま駅の中に入り、改札でメインザックが引っ掛かりそうになっては駅員さんに助けてもらい、にやにやと登校中の男子生徒に笑われ、無事にホームにゴール。
だらだらと流れる汗をハンドタオルで拭き取っていると、ちょうど電車が汽笛とともにホームに到着した。
絵里が登下校に使っている紀勢線の一部であるきのくに線の普通電車はいわゆるワンマン電車であり、たったの二両編成。そこに神倉高校の生徒と、商業高校の生徒が乗り込むので大変混雑するのである。
「なに、あの子。旅行の最中?」
ドアが閉まると同時にどこからかそんな声が聞こえた。それが自分に向けられたものだとはっきりわかる。
メインザックは子供一人分と同じくらいの体積があるため、満員電車を嫌がる生徒からは白い目で見られたのだ。絵里はごめんなさいごめんなさいと心の中で頭を下げながら、電車の隅っこに移動し、メインザックを網棚の上へと力を込めて押し出して置いた。
「ふう、軽くなった……」
そんな一苦労の合間にも電車は進み、隣の駅へ。
ぞぞぞぞと電車が生徒を飲み込み、その中には絵里が一番よく知る人物の姿もあった。
「おはよう、絵里」
「お、おはよみつき」
知的でありながら、体力も兼ね揃えている幼馴染だ。
みつきは普段と違って何も背負っていない絵里の姿を確認すると、すぐに視線を網棚に移して全てを察した。まるで古畑任三郎のような愉快さを顔に滲ませて、
「さっそく実践してみたのか。メインザックの登下校を」
感心感心と満足そうに頷く山岳部部長。
「電車に乗り込むまでに何回笑われたと思う?」
「ん? 三回くらいか?」
「まあ、数えていないんだけど」
「そうか」
「メインザックに潰されそうになったけど、がんばったよ」
「えらいな。だけど、メインザックに振り回されて、バランスを崩して転倒して、道に飛び出て車に轢かれないように気を付けるんだぞ。大会に出られなくなる」
「その前に烈火の剣ができなくなるのは嫌だよ」
そんな他愛のない会話をしていると、みつきは鞄の中から一冊の本を取り出す。教科書の類ではないが、今のみつきにとってはそれ以上の意味を持つバイブルだ。
表紙には山の画像。絵里は目を瞬いた。
「登山ガイド……『奈良県の山』?」
「そうだ。今から大会の舞台となる、『金剛山・大和葛城山』を調べておこうと思って。イメージトレーニングにもなる」
「……素朴な疑問なんだけど、なんで和歌山の県大会なのに奈良の山でやるんだろ」
「知らん。高体連に聞いてくれ」
「東京なんとかランドが千葉にあるようなものかな?」
「見てくれ、絵里。これが金剛山だ」
会話を一刀両断しながら、みつきは金剛山のページを絵里に見せた。
「南北朝古戦場の最高峰だって。わあ、幽霊とか出そう」
「役行者と縁が深い場所なんだ。もし幽霊が出たら怨敵退散。おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわかってね」
「なにその呪文。どういう意味?」
「知らん。役行者に聞いてくれ」
「ふーん、地名にも役行者と関係あるのが多いんだ。役ノ行者祈ノ滝に、西の行者に行者杉……」
地図と写真を見ながら、絵里はほうと息を吐いた。金剛山はなんとも古代の浪漫のある場所であり、熊野古道である大雲取や小雲取とは違う山岳の文化が色濃く残されていると。
「綺麗な花も咲いている。カタクリ……初夏のころ咲くって。それじゃ、大会のころには見られるのかな」
金剛山への思いを募らせ、絵里もイメージトレーニングを積んでいく。
「終点、新宮。新宮」
本に没頭していると、あっという間に電車は新宮駅に到着。
「お忘れ物のないようにご注意ください」
そんなアナウンスを聞きながら、絵里とみつきは激流に飲まれるように、生徒たちと一緒に新宮駅のホームへと降り立つ。
「うん、空青し山青し海青し! 春風とともに、今日も一日がんばろっと」
開放感とともに大きく深呼吸する絵里。そのまま地下通路を通って改札へと軽やかな足取りで進んで行く。そう、軽やかな足取りで……。
「待って、絵里」
みつきの一言で絵里の足がぴたりと止まる。
「なあに? みつき」
「メインザックは?」
端的な一言。しかし、絵里の顔を蒼褪めさせるには十分な威力を持つ言霊だった。
「あ……! そうだった! すいませーん、忘れ物っ! 待って待ってー!」
絵里は清掃員だけが乗り込んでいる電車に戻ると、慌てて網棚からメインザックを引き摺りおろし、その反動で尻もちを付き、ぎゃふんと声を出してから再びホームに降り立つ。
「やれやれ。大会では気を付けるんだよ、絵里」
「う、わかってるって……」
顔を真っ赤にしながらメインザックを背負う絵里。
「さ、ここから神倉高校まで約二十分。ファイトだ、絵里!」
ばんとみつきにメインザックを叩かれ、中身が絶妙に移動。「わわっ」と声を出して絵里は体を揺らすが、なんとかしっかりホームを踏み締めて転倒阻止。
制服にメインザックの少女はパートナーとともに、えっちらおっちらと歩き出すのだった。
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