図書館へ行こう!
絵里の登校がハードモードとなったその昼休み。
「ごちそうさまでした」
そう言って弁当箱に蓋を締めると、絵里はてきぱきと素早い動作で弁当箱を袋に包む。そして、メインザックから分離していたサブザック(普段使っている鞄だが)に弁当箱を入れ、がばりと立ち上がった。
吹奏楽部が演奏するイギリス民謡がBGMとなっている中庭。神倉山からの風を浴び、草木の匂いを嗅ぐと絵里はきりりと表情を引き締め、今にも駆け出しそうになり――
「絵里、慌ててどこへ行くつもり?」
訝しげな顔のみつきに足を止められた。眼鏡をきらりと輝かせると、
「もしかして、WAYにファミ通を買いに行くんじゃあないね?」
「ぎくり」
WAYとは神倉高校前にある、ビデオのレンタルやCDショップも兼ねている本屋であり、ファミ通とはもちろんあのファミ通だ。
みつきは浮気を感じ取った嫁のような口ぶりで、
「今週号は烈火の剣発売前特集に、MOTHERの記事も載っているはずだ。気になって仕方がないんだろう。だけど、近所だからと行って高校を抜け出すのは感心しない。放課後まで大人しく待つんだ。そして、私が食べ終えるのを待ってほしい」
「あっ、うん……わかりましたとも。わかりましたとも!」
むうっと口をすぼめて絵里はその場に座り込み、みつきが「ごちそうさま」と言い終えるまでルロイ修道士のような面持ちで待った。
みつきは弁当箱を片付けると、
「待ってくれてありがとう、絵里。それじゃあ、図書館に行こうか」
「図書館……? 何か読みたい本があるの?」
「まあ、これも春季大会に向けての対策。そう、知識審査のための調べものをするんだよ」
「知識審査……」
「登山に関する基礎的な知識から、登山コースの読み方、救急法に関して問われる。去年優華が受けたから、どのような傾向で出題されたのかは聞いている。満点を取るために、私が予想問題集を作ろうって塩梅だ」
「予想問題集を……作る……!」
絵里の体に電撃が走った。
顧問の岡島先生ですらやろうとしないことをみつきはやろうとしている。その眼差しはまさに真剣そのもので、大根なら切り落としそうな鋭さだ。
「面白いと思わないか? 子供会で作っただろう。オリジナルのなぞなぞ本を。それと同じ要領だ」
「う、うん。そうだね。山岳部の知識を深めるためにも……わたしも協力する」
「善は急げだ。絵里、歩幅を一定にして、リズムよく、図書館まで競走!」
びしっと姿勢を整えると、みつきはそのまま山を登るときと同じような体勢で歩き出し、中庭から図書館へと向かった。
――図書館。そう、神倉高校にあるのは図書室ではなく、校舎とは別に敷地内に建てられた図書館なのである。蔵書量は約四万冊。三階には視聴覚教室があり、日本史の授業でNHKの歴史番組を見るために利用することがある。図書フロアでは新書はもちろん、神倉高校出身作家のブースなどがあり、昼休みや放課後はたくさんの生徒で席が埋められていく。絵里はよく窓際にある映画雑誌を読んだり、ケルト神話や北欧神話の本を読んだり、柳田國男の本を読んだり、『フルメタル・パニック!』や『宇宙一の無責任男』といったキャラクター小説を読んだりしていた。だが、今回は娯楽ではなく、「勉強」のためにこの昼休みの時間を消費する。
絵里とみつきが向かったのは、スポーツに関する本棚だ。サッカーやバスケの参考書、スポーツ選手の自伝などで埋め尽くされているように見えるが、
「あった。『登山ガイド』に、『縦走入門』……」
本棚の隅も隅。それこそかくれんぼでもしているのかと思いたいくらい目立たない場所に、山に関する本が眠っていた。みつきはぱらぱらっと登山ガイドをめくっていく。
「よし、知識審査で問われる、救急法についても載っている。絵里はそうだ……この本がベストだろう」
みつきが本棚から引っ張り出し、絵里に手渡す。ほんの少し埃が綿毛のように舞った。
「『天気の読み方』……って、1983年出版? ほほう、昭和生まれの本だ」
「私たちも昭和生まれだ。とにかく、天気図審査を受ける絵里にはうってつけ。そこで得た知識を、優華のために抽出すれば一石二鳥というわけだ」
「なるほど」
「そして……私が持っている『奈良県の本』から金剛山と大和葛城山の知識を深める。さっそく読もう。そして、大事なところはノートに写して、問題を予想するんだ」
近くの机に本を広げ、絵里とみつきは内容に目を通し始める。
「基本的なところから押さえて……温暖前線、寒冷前線、停滞前線、閉塞前線の違いから……。それと、雲の形から天気を読み取れるように……そうすると、ここも大切かな……」
あまり自主勉強をしない絵里だが、これも山岳部のため。必死になって知識を吸収し、地道に経験値を上げていく。
「毒蛇に噛まれたときの対処法……本当にそんなことが起こるかはわからないけど、安全登山を順守させるために大会は行われるんだ。出題されるかもしれない。優華の話だと地図記号も問われたそうだから、金剛山一体の地図から出そうな部分を抽出して……」
くるくるとシャーペンを回しながら、みつきは目を光らせる。
そして――あっという間に昼休みは終了。
みつきは本を閉じると、机の上でトントンと鳴らす。
「……本を借りて、続きは家でやろう。絵里、明日も高校に来てくれるかい? 情報処理室で実際に問題を印刷してまとめたいと思うんだ」
「うん、わかった。明日も付き合うよ。優華とあきらも呼んで、勉強会だね」
その日、絵里はファミ通を買うのも忘れ、メインザックを背負って下校。家に着くなり『山の天気』を熟読した。いつも汚く、テスト前のときくらいしか使っていない机の上も整理し、本気で予想問題集制作に取り掛かったのだ。汗が額から滲み、眉間と鼻筋を通過して顎先からノートへと落ちる。これもまた、絵里の努力の証明であった。
「うっ、もう24時か……。今日は、メインザックで登下校したから疲れたなぁ」
瞼が重くなり、絵里は椅子にもたれると大きく伸びをする。
「……だけど、もう少しがんばってみようかな。みつきも、今ごろはまだ机に向かっているだろうし……」
ぱちんと頬を叩くと、気合を込めて絵里は『山の天気』の本文へと目を向ける。
やがて、目を閉じても山や雲の情景が浮かび上がり、山の中で雨に打たれる自分の姿が浮かび上がった。寒さで体を震わせ、レインコートから漏れる雨粒が服に染み渡り、不快さで思わず悶える。足元の道はすっかり泥と化し、あるけばびちゃびちゃと水が跳ねる。そして、首筋には絵里の血を吸い取ろうと忍び寄る魔物――ヒルが忍び込み――
「ひっ」
絵里は声を出して机から飛び上がった。
「って、勉強しているつもりが夢を見てしまった!」
大きく欠伸をすると、絵里は本を閉じて、机の明かりを消す。
「やっぱちゃんと寝よ……」
そうして、ベッドにダイブ。沈みそうなほどふかふかの布団に包まれ、絵里の意識は再び夢の世界へと落ちていき、そこでまたもやヒルに血を吸われた。
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