姉の美乃里(元兄)
お腹が痛い。
どういう風に痛いかと言われると、胃腸が内部からねじり上げられて針の山に投げ込まれたような痛さだ。
トイレと二階の自分の部屋を行き来していたが、三度目でもう階段に上がる気力は無くなり、トイレの前の廊下にうずくまっていた。
「いぃぃたぁぁぁいぃぃぃぃ!!」
叫んだところでどうにもならないが、黙っているのも耐えられない。顔の血の気が下がり、唇が冷たくなっているのがわかる。
ヤバイ。
これは、死ぬかもしれない。
「ねーうるさいよ
階段から、姉の
夜の仕事をしている美乃里は帰宅したのが今朝で、さっき二階に上がって寝たばかりで機嫌が悪そうだ。ウィッグを外したボサボサの髪に、くたびれたグレーのスウェットの上下をだらし無く着ている。あと、アゴにうっすらヒゲが生えている。
俺が腹痛で
「いっそ死ぬ?」
「ほんと……死にそうなんだけど……助けて姉ちゃん……うおぉぉぉっ!!」
「えーめんどくさいしー。ママとパパは?」
「二人とも仕事だって……平日だし……いててててて!!」
「ていうか、なんで隆志はウチにいるのよ」
「春休みだよ! マジいてえ死ぬ!!」
そんな気はしていたけど、美乃里は全く頼りにならなかった。寝起きだし酒抜けてないし眉毛無いしヒゲ生えてるし。
俺の腹痛を治してくれそうな、希望のカケラも見当たらない。
「もういいから、救急車呼んでよ救急車……マジ痛い……」
「えー! うちに救急車来るの? ヤダー恥ずかしいー」
「じゃあタクシーでいいから! ひとりで行くから、タクシーだけ呼んで! 早く!」
「はいはーい」
ようやく動いてくれた美乃里は、なぜかゆっくりとした足取りで二階に上がっていく。一階の部屋には固定電話があってここから近いのに。わざわざ二階に上がりやがった。きっと自分のスマホから電話をかける気なのだろう。
あいつは、俺のお腹の緊急度を、まるで理解していない!!
来年は大学受験をして家を出るつもりだったが、その決意を俺は更に固いものにした。絶対、この家から出て行く!!
あいつは高校卒業後。進学した専門学校を途中で辞めて、成人する前から女装して駅前のキャバクラで働き、昼夜逆転の生活をしながら稼いだ金で勝手に性転換して。実家通いでもすれ違いの生活で、今だって一ヶ月ぶりくらいに会ったのに助けてくれなくて。
そんな美乃里と一緒にいるのはもう限界だ!
ていうか、なんだよ、次男だった俺が長男になるって!?
腹痛のせいか悔しさのせいか悲しさのせいかわからない涙を流して
「おー。さすが救急車は早いなー」
二階から美乃里が降りてきた。ちょっとキレイめのシャツとレギンスに着替え、ボサボサだった髪をシュシュでまとめて、化粧はしていないが眉毛を書いてヒゲを剃っていた。
「姉ちゃん、救急車……呼んでくれたの?」
「病院行ったら、若くて良い男がいるかもしれないしねー。ほら行くよ。よいしょっと」
うずくまった俺の腕を取り、中高と柔道部部長だった美乃里が俺を軽々と背負う。
おんぶしてもらうのは、まだ美乃里が兄で、俺が小学生だった時以来だ。
「隆志の保険証がどこにあるかわからなかったから、病院着いたらママに電話して持ってきてもらうわ」
救急車のサイレンが消えて、玄関のチャイムが鳴る。
美乃里は営業用の、鼻にかかった高い声で返事をして玄関を開けた。
若い女性が男子高生をおんぶしている姿に、救急隊員は明らかにギョッとした顔をしたが、担架の準備をする手間が省けて、俺は迅速に救急車内のベッドの上に寝かされた。
「大丈夫ですか? 話せますか? どこら辺が痛いですか」
「はい……みぞおちが……すごく痛いです……」
それから、救急隊員にいつから痛いのか、何回トイレに行ったか、昨日から今日にかけて何を食べたかなどを聞かれて、俺はお腹の抱えながらなんとか答えた。
「食中毒か、盲腸かもしれないですね。はっきりとしませんが、病院へ搬送します。出してください」
ピーポーピーポーとサイレンを鳴らして、救急車が走り出した。
「隆志さあ。医者を目指しているのに、自分が食中毒って。大丈夫?」
付き添いで救急車に乗り込んだ美乃里が、にやにやしながら小声で言った。
きっとこの後、SNSで呟かれる。
【医大目指してる弟、食中毒で救急搬送。一足先に病院見学?】
とか、絶対に呟かれる。
救急車を呼んでもらったり、おんぶして運んでもらったりした時、美乃里がちょっと頼もしく思えたけど、気のせいだった。気のせいだったと思うことにした。
ところで腹が痛い時って、なんでいつもより頭が回って特に昔から今までの事を色々考えちゃうんだろうな。不思議だ。
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