海外移住人

「そろそろ飽きましたか?」

「いいえ。そんなことは」

「ふふ。アンジェラは正直ですね。そろそろ中に入りましょう」


 私の隣にいる白いえりなしワイシャツを着た男性が、さりげなく私の肩に手を回す。


 シンガポールで知らない人はいない、三棟ならんだビルの上に豪華客船が乗っかったようなホテルの、ナイト・レーザーショーが終わった後。

 対岸のホテルの屋上でそれを見ていた人たちの多くは、屋内のバーに戻るために移動をしていた。






 婚活という言葉は日本語だけど。その活動範囲は海外にも進出していて、私はいまシンガポールの婚活パーティに参加していた。しかもまた、代理で。


「アカリ! グランマが亡くなって、トゥモローのパーリーに行けなくなっちゃった!」と、同じ職場のアンジェラに言われたのはつい昨日のこと。ちなみ私は英語、アンジェラは英語に近いシンガポール語で話しているけれど、アンジェラの言葉は私の脳内でなぜかルー語に変換される。


「おばあさまの件、お気の毒さまです」

「それはそうと、明日のパーリーが! アカリ、代わりに行ってプリーズ!」

「私、パーティに行けるような服を持っていないから無理よ」

「私のドレスを貸すわよ! シンガポールのリッチメンたちが参加するパーリーだから、ハイグレードなホテルのレストランで、ドレスコードもあるの。ライトグレーの清楚なドレスも、ホワイトパールのアクセサリーも、全部おニューにしたのに! オーマイガッにしたくないわ!」


 身振り手振りを交えて、自分がどれだけ混乱していて焦っているのかを表現するアンジェラに、私は苦笑いする。


「でも、私は相応しくないわ。いい年だし、シンガポール人じゃないし」

「アカリは見た目が若いからオッケーよ。シンガポール人は華人が多いだから、イングリッシュを話せればジャパニーズでも関係ナッシング! プリーズ、アカリ。私と同じサイズのドレスが着れて、結婚していないのはアカリしかいないの」


 まあ、確かに三十代半ばで結婚していないのは、うちの旅行代理店では私だけ。アンジェラは二十代後半だけど、女性社員のほとんどは二十代前半で、しかも既婚率が高い。だからこそアンジェラとは、私がシンガポールに赴任してから一番仲の良い友人になれた。その友人の頼みとあれば。


「レストランでディナーしてくるだけでもオッケー?」

「ワオ! ありがとうアカリ! あなたは最高のフレンドよ!」


 そんなわけで、私は婚活パーティに来ている。パーティ主催者にはアンジェラの名前で申し込みがされていたので、私はアンジェラの名前のままで参加している。

 彼女との約束通り、美味しいディナーを堪能したらすぐに帰るつもりだったけれど。パーティ主催者のサプライズサービスで、ホテルの屋上にあるバーのドリンクが無料提供されるとの案内がされた。パーティ参加者は二次会を兼ねて、全員バーへ移動することに。その移動中に、パーティから抜ければ良かったのに。私はつい、お酒の無料提供に釣られてバーへ行ってしまった。


 だって! シンガポールで売られているお酒、高いんだもん!!


 しかもシンガポールはお酒が売られている時間が夜間から早朝までと厳しく規制されていて、仕事が休みの日に昼から外で一杯ひっかける、ということが出来ない。海外赴任希望でシンガポールに来て約十ヶ月。ご飯は美味しいし、シンガポール人も良い人ばかりだけれど。お酒に関しては、かなりストレスが溜まっていた。

 ホテルの屋上のオシャレなバーで、私は真っ先にカウンターへ行き、バーテンダーに注文した。


「何になさいますか?」

「ビールとビールとビールで」

「おひとりで?」

「もちろん」


 グラス三杯のビールなんて、ただの水のようなもの。

 駆けつけ三杯のビールをすぐに飲み干して、ワインをボトルで注文して待っていると、隣の席に滑り込むように男性が座った。


「少しよろしいですか?」


 そう言って男性は、私の座っている椅子の背に手を回した。

 そして私が注文したボトルワインが、バーテンダーによってふたつのグラスに注がれて、勝手に乾杯される。後ろで数人の女性の悲鳴が聞こえた。


「ちょっと、なんですか?」

不躾ぶしつけなお願いで申し訳ありませんが、今だけあなたのパートナーにしてください」


 綺麗な英語で話す彼の胸元に、ウォン・ジョエルと書かれた名札が付いていた。そういえば、先ほどのレストランのテーブルで、向かいの席に座っていたような気がする。長めの黒髪、切れ長の目。白い襟なしワイシャツがとても爽やかな印象で、年齢は二十代半ばくらいだろうか。声がかなり低く、ゆったりした優しい話し方がどことなくエロスを醸している。日本にいれば、理想の彼氏と結婚したい相手ランキングのどちらも一位になりそうな感じのウォンさんは、シンガポール女性にももちろん大人気のようだった。彼を追いかけてバーに来た女性たちが、私の背中に鋭い視線を刺してくる。


「お断りします」


 ワインボトルとグラスを持って、私はウォンさんから離れるようにテラス席へと移動した。グラス一杯分、飲み損ねたわ。

 しかしウォンさんはまるで私をエスコートするように、テラスへ通じる扉を開けて、私が座ろうとした席を引いてくれた。


「アンジェラ、良い席を見つけましたね。もうすぐあのビルのレーザーショーが始まりますよ」

「ここの席しか空いていなかっただけです。それと私は……」

「どうしましたか?」

「……なんでもありません」


 私の名前は澤村さわむらあかりです、と言おうと思ったけれど。

 私の胸元に付いている名前はアンジェラだし、私がなぜアンジェラと名乗ってパーティに参加しているか説明するのも面倒臭いし、そもそもこういう婚活パーティで知り合って連絡先を交換しない場合は、相手の名前なんて覚えていないものだろう。


 そういえば。以前、友人の代わりに日本でお見合いした時も、私は友人の名前をそのまま名乗っていたことを思い出した。

 その時にお見合いをした人は、私の本当の名前を知らかった。私がどこの何者なのかも、全く情報が無かったはず。私は友人にも協力してもらい、自分の素性を一切明かさないまま結婚の申し込みをお断りした。それなのに、彼は私の職場に突然やってきた。


 もし自分が、名前も素性もわからない人に一目惚れをしたら。


 もう一度会いたいという気持ちだけで、その人を探すことができただろうか。


 私はワインをボトルのまま一気飲みをした。

 ウォンさんが驚きの目で私を見た後に、手を叩いて大笑いした。


「すごいですね、アンジェラ。そんなワインの飲み方をする女性に初めて出会いました」

「おそれいります」

「でもまだ飲み足りなさそうですね。新しいワインを持ってきましょう」


 空のワインボトルを持って、ウォンさんは先ほどのカウンターに向かって歩いて行った。

 そういえばあの人も。友人の代理で行ったお見合いの席で、結婚の申し込みを断った後。あの人は私の職場の旅行代理店に来て色々なツアーを申し込み、国内を客と添乗員という立場で一緒に旅行して、いつの間にか酒飲み仲間になって。私のグラスが空になると、すぐにビールでもワインでも注ぎ足してくれたっけ。ザルのようにお酒を飲む姿に惚れるとか、お酒を飲んで出てくる本性に惚れ直したとか言いながら。


「うわあああっ……」


 お酒が飲みたい。

 そういうことを忘れれるためにも、もっともっとお酒が欲しい。


 ウォンさんが戻って来る前に、向かいの豪華ホテルのレーザーショーが始まって、屋上にいる人たちが歓声を上げた。

 みんながそうするように、私も携帯電話を取り出して、そのショーを写真に撮った。結構キレイに撮れている。

 私はその写真を、いつものようにメッセージで送った。

 私がシンガポールに移住後、毎朝届いていたあの人からのメッセージが来なくなってから半年が経つ。

 私からあの人に送ったメッセージはずっと既読きどくスルーのままで、最近は綺麗に撮れた写真置場みたいになってきている。

 時系列に並んだメッセージをさかのぼると、新しく飲んでみたお酒と、その辺に咲いていた綺麗な花と、美味しかった屋台飯と。自分の生活感が丸見え過ぎる。


「アンジェラ、お待たせしました。シャンパンも飲めますか?」


 ワインとシャンパンの瓶を一本ずつ持ってきたウォンさんが戻って来た。


「ありがとうございます。すみません」

「大したことじゃありません。あなたの飲む姿に、惚れ惚れします」

「ご冗談を」

「さあ、どうでしょう」


 肩をすくめて爽やかに微笑むウォンさんは、手なれた手つきでシャンパンの栓を抜いた。


「私はお酒を飲むことが好きです。自分の配偶者になる人は、私と同じくらいお酒を飲める人がいいと思っています。しかし、シンガポールは飲酒に対して厳しい規制があります。特に酔っぱらった人間には、悪い印象を持たれます。自分の家にいる時くらい、嫌味を言わずに一緒にお酒を飲める人がいれば、私は幸せになれるでしょう。アンジェラは、どう思いますか?」


 シャンパンが注がれたグラスが、また勝手に乾杯される。

 私はグラスを一気に空けて、ウォンさんを見る。


「自分の好きなように、お酒を飲めないのはつらいです」

「アンジェラも同意見なのですね」

「シンガポール以外の国へ行きませんか? ウォンさんがどうしてもこの国から離れられない理由が無ければ。自分らしく生きることは、それほど難しいことでは無いかもしれません」

「素晴らしい考えですね。アンジェラ、私はどこの国に行くことが相応しいように見えますか?」

「そうですね、ウォンさんの場合は……」


 シャンパン、ワインとハイペースでボトルを空けながら、私とウォンさんは、携帯電話のインターネット検索機能も使って、様々な国のお酒事情について話し合った。

 いつの間にか、向かいの豪華ホテルのレーザーショーが終わり、再び屋上に拍手と歓声が起こった。


「そろそろ飽きましたか?」


 空いた二本のボトルを見て、ウォンさんが微笑む。


「いいえ。そんなことは」


 とは言ったものの。そろそろ他のお酒も飲みたい。日本酒、あそこのカウンターにあったかな。どうかな。ちょっと記憶があやしい。さすがに勢いよく飲みすぎたかも。でもまだまだ飲み足りない。


「ふふ。アンジェラは正直ですね。そろそろ中に入りましょう」


 席を立つと、さすがに少しアルコールが回ったのか。足元がふらついた私の肩を、ウォンさんが支えるように手を回した。

 レーザーショーが目的で屋上に出ていた人たちの多くが、バーの屋内へ移動しようとする中。人波に逆らって、こちらにやって来る男性、植田うえだ裕二ゆうじが、私たちに向かって叫んだ。


『ちょっとー! ちょっとちょっと!』


 屋外に響く、懐かしい日本語。

 その言葉を発した彼は、白のVネックシャツの上にグレーのジャケットを羽織り、黒のスキニーパンツとローファーを履いている。私が最後に見た姿と、同じ服装のまま。頭の後ろで結った髪型も、瓶底の黒縁眼鏡も。

 あの人は、あの日のまま、ここにいた。


そこの君hey YOU! 彼女からget away離れなさい from HER! 彼女は僕のSHE is my婚約者ですよFIANCE!」


 早口の英語で、彼は私の隣にいたウォンさんを指さして怒った。

 目を見開いて彼と私を見るウォンさんに、私は苦笑いする。

ごめんなさいsorry...」と言うと、彼は「幸運をgood luck」と言って私に軽くハグをした、そして、すぐに離れてくれた。


「あー! ハグした!! ボクもまだハグしたことないのにー!!」

「植田あああああ!!!」

「はいいいっ!!」


 私の声に、思わず直立不動した植田さんに、私は抱きついた。


「来るのが遅いわっ!!!!」

「すみませんでした!!!!」


 ぎゅううううっと抱きついた勢いで、植田さんの後ろ髪をまとめていたゴムが切れた。無造作に跳ね上がる長い髪が広がり、見た目よりもふわふわな彼の髪に、私の指が初めて触れた。


「あの、あかりさん」

「なに?」

「その、キレイですね」

「シンガポールの夜景が?」

「いいえ、あかりさんが」


 植田さんの瓶底眼鏡を外す。

 至近距離で初めて見る植田さんの目は想像していたのと全然違って(数字の3が並んだ感じかと思ってたごめん)くっきりした二重で、まつ毛の長くて、とても綺麗な目だった。

 唇が触れる。それから互いの頬を、ぴったりとくっつけた。


「やっと、あかりさんのところに来れました……会いたかったです」

「私も植田さんに会いたかったです。ずっと、待ってました」

「ほんとに、お待たせしてすみませんでした。実は半年前にボクのパパが急死して」

「植田さんのお父さんって、ウエダグループの社長さん?」

「そうですそうです。うちはママを亡くしていないので、一人息子のボクが喪主や、パパの仕事の代理をしていたんですけど。葬儀が終わった後くらいに、パパの子だと名乗る人が十一人ほど現れて」

「十一人もいる?!」

「ええ、まあ、ママが亡くなってだいぶ経っていましたしね。ほとんどは自白やDNA検査で嘘だってわかったんですけど。二人は本当に、パパの実子でボクの異母兄弟だとわかって」

「うわあ、修羅場の予感しかしない……」

「修羅場でしたよー。一応、うちの弁護士さんがパパの遺言書や遺産の管理を任していましたが、ボクはパパの仕事を継ぐつもりは無かったですし。相続税が大変だから相続をしたくないとは言ってあったんですよね」

「植田さん、ウエダグループは継がないんですか?」

「もちろん。ウエダグループはパパが築いた会社ですからね。ボクは自分で立ち上げた会社も事業もありますし。そういうことで、自分の大切な物を失うようなことにはしたくなかったんです」


 植田さんの、私を抱きしめる力が強くなった。


「こんなことを言って、ごめんなさい。ボクは、あかりさんと結婚していなくて、本当に良かった。あかりさんが、シンガポールにいてくれて良かった。あかりさんが、あんなところに呼び出されるようなことがなくて、本当に本当に、良かった……」


 震える声で、植田さんはそう言った。

 お金持ちの家の遺産相続がどれほど大変か、想像もつかないけれど。

 離れていた間に、植田さんがどれほど疲弊ひへいしていたのかは、くっついた肌から伝わってくる気がした。


「お父さんが亡くなったこと、お悔やみを申し上げます。大変でしたね。お疲れさまです、植田さん」

「ありがとうございます、あかりさん。でももう、大丈夫です。ウエダグループはパパの優秀な部下さん達に任せてきましたし、遺産相続は異母兄弟と弁護士さんに任せてきましたし。色々と面倒だったので、僕の仕事も終わらせてきました。それでうちの社員たちの再就職先を探したり、法的な手続きで時間がかかってしまい」

「え? 仕事辞めちゃったんですか植田さん?」


 思わず体を離して植田さんの顔を見ると、植田さんは片目を閉じて舌を出し「てへ☆」と言った。


「あ、でももうシンガポールで起業する準備はできたので大丈夫です! 安心してください、働きますよ!」

「え? ちょっと、待って下さい。シンガポールで起業?」

「はい。日本にいる理由が無いので、シンガポールに移住しました」

「うっそ!」

「本当ですよ」


 植田さんは私から体を離して、私の前で片膝をついた。


「澤村あかりさん。今度こそ信じてください。ボクはあなたとならどこへだって行けるし、一生あなたを愛し続けます」


 植田さんはグレーのジャケットのポケットから、ハンカチを取り出した。

 私が前に植田さんに渡したハンカチだ。

 そこを開くと、銀色で透明の輝く石が付いた指輪が乗っていた。


「ボクと結婚してくれませんか?」


 もう。

 こんなの。

 断れるわけがないじゃない。


「はい」


 植田さんが私の左手を取り、薬指に指輪をはめた。

 立ちあがった植田さんと再び抱き合って、キスをする。

 一連の私たちの行動を見ていた人たちが、祝福の拍手をしてくれた。


「ありがとうございます、あかりさん。一生、あなたを大切にします」

「私こそありがとう、植田さん。ずっと私のことを追いかけてくれて」


 幸せいっぱいな空気に包まれながら。

 私はふと、疑問に思ったことを彼に訊く。


「そういえば。どうして今夜、私がここにいることを知っていたんですか?」

「まあ。メッセージに送られた写真が撮られた方角などを計算すればそれくらいすぐに」

「いつからシンガポールにいたんですか?」

「うーん、一週間? 二週間前、くらい?」

「もしかして、アンジェラと知り合い?」

「ええっと、ですね」

「私の指輪のサイズ、アンジェラに教えてもらったんですか? そういえば二週間くらい前に、彼女と指輪のサイズの話になったんですよね」

「しゅ、守秘義務に抵触しかねます……」

「このドレスもアクセサリーも、アンジェラの物じゃなくて、実は植田さんが選んだものじゃないんですか?」

「本当に……あなたにはかないません」


 いつか植田さんにされたドヤ顔の仕返しのように、私は笑った。



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