醒めない夢なら寝てればいい

春木のん

したり顔の今朝

 今日は、朝になるとやってくる。僕が生きてきた三十年間くらい、それが狂ったことは一度も無い。たまに雲がすごく厚くて、太陽が昇っているはずなのに夕方のように暗い朝はあったけど。夢のように楽しくて一生続いて欲しい夜の後でも、死にそうなくらい辛くて絶望しきった夜の後でも、朝は知らん顔でやって来るし、今日も当然の顔をしてやって来た。

 だから僕は、少し諦め気味に今日を過ごし始める。

 温もりが恋しい布団を剥いでベッドから降り、似たようなデザインで何着も揃えたシャツとネクタイとスラックスと靴下から適当なものを選んで身に着け、あくびをしながら用を足しに行く。週の五日くらいは、このスタイルだ。


 トイレから出るとリビングダイニングへ行き、木製の長四角テーブルの新聞が置いてある席に座る。開いた新聞の一面を軽く読んでからひっくり返し、テレビ欄をめくった次の見開きから順に読み始める。そうしている間に、妻が朝食のトーストと珈琲を、テーブルの上に並べてくれた。

 僕は目線をトーストまであげて、それに手を伸ばして口に運ぶ。トースターで焼かれた食パンは、毎日同じ場所に同じような焦げ目が付いていて、こいつも我がもの顔で今日を主張しているようだった。どうだっていい。そう思いながら、僕はほんのりバターの風味と塩気がするそいつを、珈琲で喉元から奥へと流し込む。


「ねぇ、気付いてる?」


 僕の向かいに座った妻が、少しくぐもった声で話し出した。


「何が?」

「あ、やっぱり気付いてないのね。そうだと思った。あなた、いつもと変わらないものね」


 何の話をしているのか全くわからなくて、僕は珈琲を新聞の横に置いて、顔を上げた。


「当たり前のこと過ぎたり、近くに居すぎたりすると、細かな変化に気づいても、大きな変化を見逃してしまうものよね」


 妻はそう言った後、痰が絡んだような咳をした。珈琲の香りで気付かなかったが、微かにメンソールの煙草の臭いがする。妻は僕と同じ、非喫煙者のはずだったはずだが。


「そうなのか?」

「そうよ。例えばね、あなたは毎日、珈琲を飲むじゃない。ずっと同じ瓶に入っているから、同じインスタント珈琲だと思ってるでしょう? でも実は、瓶の中身が無くなって詰め替える時に、私は前のとは違う銘柄のインスタント珈琲を入れているの。だからあなたが最初に好きで買った珈琲と、いま飲んでるそれね、インスタント珈琲であること以外は全然違うの。いつから変わっていたか、あなた、わかってたかしら?」


 一気に話をした妻は、再び激しく咳込んだ。

 そういえば、いつから妻はこんな咳をするようになったのだろう? 最近のような、でも随分前からのような気もする。

 あと、いつから妻はこんなに痩せ細ったのだろう? 結婚した当初は中肉中背で、僕と一緒になって専業主婦になってからは、だんだんふっくらしていたはずだった。

 目の前にいるのが、誰だかわからなくなるくらい。妻の目は窪み、頬はこけて、鎖骨が強く浮き上がっている。

 それに、化粧。

 付き合い始めから全く化粧っ気が無くて、すっぴんのまま一緒に買い物へ行くのも平気だったはずなのに。僕しかいないこんな朝早くから、濃いブルーのアイシャドーと、赤い口紅を付けている。


 それは、小さな変化のはずだった。そんな気がする。だから僕は見過ごしてきた。

 でも、こんなに大きな変化になるまで気付かなかったことに、僕は大きなショックを受けていた。さっき飲み込んだ珈琲が、実は泥水だったんじゃないかと思えた。突然、強烈な吐き気に襲われる。


「ちょっと、ごめん」


 僕は口元を押さえ、トイレに駆け込んだ。今日食べたトーストと珈琲を、全て吐き出す。今日をリセットするかのように。

 でも僕の人生にも今日にも、リセット機能は付いてない。


 ピンポン、と。

 玄関のチャイムが鳴った。こんな朝早くに。


 妻が出るかと思ったが、なぜかリビングから出た妻は、玄関では無く僕がいるトイレの方へ来る。トントン、と小さなノックが鳴った。


「あなた、大丈夫?」

「ああ、ちょっと気持ち悪くなって。吐いたから、少し楽になったよ」

「そう。じゃあ、私は迎えが来たから行くわね」

「行くって、どこへ?」

「じゃあね、あなた」


 答えの無いまま、トイレの前から妻の足音が遠ざかる。玄関の扉が開き、バタンと閉まった。


 トイレの静かで狭い空間は、インスタント珈琲と胃液の酸っぱい臭いが充満している。

 今すぐ、ここから逃げ出したい。

 しかしこの扉を開けた時、僕は今朝の出来事を受け入れなくてはならなくて。

 時間が止まったようなそこで、僕は震える肩を自分で抱いた。

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