花園に憧れる
僕は
なぜなら彼は山ほど高くなく、海ほど低くないところに住んでいるからだ。
僕たちが通う中学校は、少し小高い場所にある。寝坊して朝ごはんを抜いた僕は、血糖値が低空飛行のまま、はい上がるように急勾配の坂を登る。対して花園は、軽やかな足取りで長いスロープのような坂を下ってくる。まさに雲泥の差だ。
「おはよう、
壁のような坂道を登り終えて校門にたどり着いた僕に、その名前に相応しい花の香りをふわりと纏った花園が、爽やかに話しかけて来た。
僕は「おはよう」と返し、「慣れれば大変でもないよ」と額にかいた汗を手の甲で拭う。学校から予鈴が鳴り響いて、僕たちは急いで玄関で上履きに履き替え、教室に入った。
花園が教室に入ると、男子や女子から「おはよう」と声がかかる。彼は人気者だった。四字熟語で例えるなら、容姿端麗と文武両道。声をかけてくれたひとりひとりに笑みを浮かべて挨拶を返しながら歩く。去年も同じクラスだったが、ここまで八方美人な奴では無かったはずだけど……と思いながら、僕はその後ろを黙って歩く。
教卓と真向かいの列の一番後ろの席に僕が座り、その前の席に花園が座ると、本鈴が鳴って担任が入ってきた。
「おはようございます、みなさん」
眼鏡をかけた三十代独身の先生は、今年この中学に赴任してきたばかりだ。そのせいか、出席を取るときは名簿を手に持ち、返事をする生徒の顔をしっかり見て覚えようとしている。
「
「はい!」
「はい、元気そうですね……
「はい」
「
「はい」
でも僕は、先生と目が合ったことが無い。
背が低く小柄な僕は、花園の影になるため、教卓から見えない。そして僕も先生の姿は見えていないし、黒板もほとんど見えない。
授業を聞かずにこっそりと昼寝するには良い間仕切りになるが、僕にとってこれは、ただの黒い壁でしかない。
だから教室にいる間はずっと、僕は彼の背中に出来た制服のシワの模様を見ていた、のだが。
ある日、気付いた事がある。
花園の制服の後身頃の合わせ部分に、ファスナーが付いているのだ。
それは制服と同じ色で、糸のように細長い。こまかい目をかみ合わせ、きっちり閉じている。間近よくよく目を凝らさないと、見えないようなものだ。
背中にファスナーが付いている人を、僕はその時、初めて見た。
それから花園の事が気になって、休み時間中も観察していたら、彼は人前で制服を脱いだり、着替える事が決して無かった。体育の前は、トイレに行って帰ってくるとジャージ姿に変わっている。夏服に衣更えするまでは、どんなに暑い日でも制服の上着を脱がない。そして夏服に変わった後は、白いワイシャツの後身頃の真ん中の合わせに、白くて細長いファスナーが付くようになった。
その頃には席替えをして、僕と花園の席は離れてしまった。しかし彼とは毎朝同じ時間帯に登校してきて挨拶をする、それなりに良好な関係だった。
しかし、ある朝。
「おはよう」と声をかけてきた花園の様子が、何かおかしい。
具体的に何がおかしいのかわからないが、例えて言うなら、数日前に膨らませたゴムの風船が少し萎んだような、そんな印象だ。
「おはよう」と僕も返事をして、会話もなく玄関まで並んで歩く。
そして上履きに履き替える時に、気付いた。
花園の背中のファスナーが、少し開いているのだ。
僕は驚いて心臓がドキンとした。見てはいけない、正しく秘密の花園を覗いてしまった気分だ。
「なあ、花園……」と声をかけたが、言葉が続かない。
ファスナー、開いてるぞ?と言って、伝わるのか。僕が花園の背中のそれに気付いていた事を教えるのは、これからも同じ教室で過ごしていく仲間として、付き合いにくくなるのではないだろうか。
考えあぐねて、僕は自分の背中に手を回し、背中を掻くマネをした。
「なんか、背中痒いんだけど、ちょっと手貸してくれないか?」
僕は花園に背を向けて、彼のファスナーが開いている辺りを掻いてもらった。
「おーそこそこ。サンキュー」
そして教室に入る前に花園はトイレに寄ると、半開きになっていたファスナーはしっかりと閉められていて、ほっと胸を撫で下ろした。
その日の放課後、僕は花園に声をかけられた。
「今日、うちに遊びに来ないか?」
断る理由はなく、僕は花園がどんなところに住んでいるのかずっと興味があったので、いいよ、と返事をした。
校門を出るとすぐに右に曲がって坂を下る僕は、今日は真っ直ぐ進んで緩やか上り坂を花園と歩く。
「和弥は、帰りは下り坂でいいよな」
「上り坂より、急な下り坂の方が足にくるんだよ」
「そうなんだ。大変だな」
「まあ、慣れれば大変でもないよ」
二〇〇メートルほど坂を上って、左に曲がる。そこから緩やかなカーブの上り坂を上がって、海の水平線がよく見える場所に建った白い家。一階部分が車庫になっているらしく、少し長い石の階段を上がった先に玄関がある。
ここが、僕が憧れていた花園の家だ。
家には誰もいないのか、彼が玄関の鍵を開けて、中へ入る。
おじゃまします、と言ってから僕は家に上がり、そのまま階段を上って部屋に案内された。玄関も廊下もアレンジメントされた花が飾られていたり、ドライフラワーになったラベンダーが壁にかけられており、花の香りだけで頭がぼんやりしそうだった。
「お茶持ってくるから、適当に座ってて」
机の上に鞄を置くと、花園は僕を部屋に残して下に降りてしまった。
僕は壁際に鞄を置いて、部屋の中を見回した。机とベッドと押し入れがあり、物がそんなに多くない簡素な部屋だ。でもひとつだけ、本棚だけがやけに大きい。僕の部屋にある三段のカラーボックスを縦に二つ、横に四つ並べたくらいの大きさがある。そこに入っている本はジャンルがバラバラだ。猫型ロボットの漫画や、キャトルなんとかの真相と題したオカルト本や、精密機械工学と書かれた専門書まである。
しかしそこに興味はなく、僕はベッドの奥にある、出窓になった窓から見える風景に興味があった。先ほど、家の前で見たよりも更に海が綺麗に見える。
同じ市内に住んでいても、僕の家は海抜が低いところにあり、周りは住宅地なので山も海も一望することが出来ない。
花園は毎朝、海から昇る綺麗な朝陽に起こされているのだろうか。
毎日違う色合いを見せてくれる海を見ながら、学校に行くのだろうか。
僕はベッドに上がり、出窓に寄り掛かって外ばかりを見ていた。
だから部屋に戻っていた花園には気付かず、後ろから殴られて気絶して、目が覚めても何が起きているのかわからなかった。
---少し、狭くないお兄ちゃん?
---お前が大きくなったら、また探すよ。ほら、閉めるぞ。
***
「おはよう、和弥」
「おはよう、聖」
次の日も、僕たちは校門の前で会って、横に並んで玄関に向かう。
「昨日、ごめんな。なんか寝ちゃったみたいで」
「なんもだよ。ちょっと下に行ってた間に俺のベッドで寝ていてビックリしたけど、きっと毎日、坂を登ってた疲れが溜まってたんだろう?」
「そうかもな。でも今日は全然疲れなかったよ。なんか身体が軽いというか、動きやすいというか。自転車から電動自転車になったくらい、坂道が楽だった」
「そうか、良かったな」
花園が笑いながら、僕の背中にさりげなく触った。
トイレから出た後に、ズボンのファスナーを閉め忘れていないか、こっそりと確認するように。
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