私のノートとお風呂の精

 毎日、日記を書いていた。

 内容は決まってない。

 その日の予定と出来事だけ。朝昼晩に食べたものだけ。思ったことだけ。様々だ。

 ただ、毎日なにかを書くというだけを目標にしていた。

 本当に面倒くさい日や、風邪をひいて寝込んだ日は「ああああ」しか書いていない。いや、「あ」だけの日もあった。


 ノートはA6サイズのものが、私の手に収まりが良い。

 筆記用具はボールペン。油性とジェルの真ん中くらいのインクで、太めの軸が好み。

 大きな鞄でも、小さなバッグでも、そのくらいの大きさの文具がふたつくらいなら、どこにでも入り込めたし、いつでも取り出せた。


 日記を書く時間も、決めていない。

 朝、起きたらすぐに書くこともあるし、日付をまたいだ深夜に書くこともある。

 仕事へ向かうバスの中。お昼休みのランチ中。仕事帰りに立ち寄ったファーストフードの店内。

 一番多かったのは、やっぱり私の部屋の中。

 テレビの前の丸テーブルの前と、枕元のデスクライトの下が特に多かった。


 まれに、お風呂の中で書くこともある。

 半身浴をしている時は、音楽を流して歌うこともあるけれど、歌わないで書いていることが楽しい時もあった。

 お風呂中は、いつも日記を書いているノートは使わず、同じ大きさの薄っぺらいノートを使っていた。百円で買ったもので、もしお風呂の中へ落としてしまっても「あ~あ」で終わってしまうもの。

 


 その日も、私は半身浴をしながら日記を書いていた。

 ほんとうにほんとうに、なんにも書くことが無い平和な日。

 あまりに書くことが無さ過ぎて、自分の名前が綺麗に見えるペン字の練習をしていた。

 音楽プレイヤーのプレイリストが一周して、スピーカーの音が止まる。お風呂に入る前に新しい曲をプレイリストに追加したので、曲のリピートの設定が外れてしまっていたようだ。


 浴槽から少し体を持ち上げた時、ノートが湯船ゆぶねに落ちた。

「あ~あ」と口からため息が漏れる。でもすぐに拾わなかった。

 一度お風呂から上がり、バスタオルを体に巻いてついでに手も拭いてから、ふたを閉めた洗濯機の上に置いてあった音楽プレイヤーを操作する。

 すぐに、スピーカーから音楽が流れ始めた。

 もう体もすっかり温まったし、半身浴は止めてお風呂のお湯を抜こう、と浴室を振り返ると。


 私と同じくらいの背格好の、北欧系の美女が浴槽に立っていた。

 しかも私の落としたノートをまじまじと読んでいた。


「あの~」

「あ、すいません。私、お風呂の精と申します。はじめまして」

「はじめまして。日本語、話せるんですね」

「ええ。見た目は仕様というか。ほら、妖精って北欧系の方がウケがいいじゃないですか。私、生まれも育ちもバリバリ渋谷区なんですけど」

「ああ、そうなんですね」

「あ、すいません。私のことはどうでもいいっていうか。話を戻しますね。私、お風呂の精です」

「存じております」

「えっと、山内やまうち深雪みゆきさん、でよろしいでしょうか? それともこちらのノートに書かれたお名前はハンドルネームでしょうか?」

「いえ、本名です」

「さようですか、良かったです。苗字とお名前、どちらでお呼びしましょうか? 私としては、深雪さん、という方がお話を進めやすいのですが」

「じゃあ、それでいいです」

「ありがとうございます。では、深雪さん。私は、お風呂の精です」

「三回目ですね」

「大事なことなので、再三申し上げました。お風呂の精とは、泉の精のさらに範囲を狭くしたような存在なのです」

「ああ、泉の精さんなんですね」

「おっしゃる通りです、深雪さん。お風呂の精は、泉の精と同じ効用があるのです」


 北欧系の美女に微笑まれると、ちょっとひるんでしまう。

 あまりに堪能な日本語と話術で、ゆるんでしまっていた警戒心が引き締めた。


「早速、本題にうつりますが、よろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「深雪さんが湯冷めしないうちに終わらせますね。それでは、あなたが落としたのは、お名前の書き取りのポイントを赤ペンで修正したノートですか? それとも「今日は何もなくてつまらない」日常感が出ているノートにお風呂の精である私のサインと日付と写真を添付した非日常ノートですか?」

「どちらも違います」

「ではこちらの、ただただ自分の名前をいかに上手に書けるか書き連ねただけのノートですか?」

「そう……です」

「深雪さん。あなたは正直者で、素晴らしいですね」


 お風呂の精は、本当に美しい微笑みを浮かべている。

 でも、なんだろう。その美しい唇からは、猛毒が吐き出されていた気がするし、私の心はもうすっかり冷めきってしまった。


「正直者の深雪さんには、この三冊のノートを全て差し上げます」

「いらないです」

「そうおっしゃらずに。今なら私のブロマイドをもう一枚……」

「いらないです! 最初に落としたノートもいらないから、帰ってください!!」

 

 ガシャン!! と大きな音を立てて、私は浴室のドアを閉めた。

 それから急いで服を着てから、浴室のドアをそっと開ける。

 お風呂の精はもういない。

 湯船の中に落とした私のノートも無くなっていて、ボールペンだけが浴室に残されていた。


 お風呂の精は、残念ながら現実だったらしい。

「あ~あ」と、さっきよりも深いため息を吐く。

 賃貸物件だから、明日でも引っ越そうと思えば引っ越せるけど。面倒くさい。


 とりあえず、お風呂の中でノートを書くことは、今後止めようと誓った。


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