わずらわしいもの

 うちに到着する少し前に、救急車のサイレンが止まった。

 アイドリングする救急車のドアが開く音。玄関まで敷いた砂利の上を、駆け足でやってくる足音がふたつ。まもなく玄関のチャイムが鳴った。


「鍵は開いています、どうぞ」


 白いヘルメットを被り、水色の制服を着た救急隊員たちが家の中へ入ってくる。

 まず名前と住所の確認。

 それから電話でも説明したが、改めて救急車を呼んだ理由の確認。


家内かないはこっちです」


 短い廊下の先のドアを開けると、台所と居間のある真四角の部屋。その両隣に、ふすま戸で仕切られた部屋があり、妻は右側の部屋のベッドの上に寝ていた。

 ベッドすぐ脇にある二段のカラーボックスの上には、普段から妻が飲用している常温の水が入ったペットボトルが一本。それと不眠症で病院から処方されている睡眠導入剤が二十錠分、無くなった形跡であった。


 救急隊員の一人が、家内の意識や脈の確認をしている間。

 もう一人の救急隊員が、私に聞き取りを始めた。


「奥様が大量に薬を飲んだことに、ご主人はいつごろ気付かれたのですか?」

「救急に電話をする、少し前です。それまで私は居間でテレビを見ていました」

「奥様は何時頃にこの部屋へ?」

「夜の十時頃だったと思います。夜ご飯の洗い物や洗濯物が終わって、疲れたから寝ると言っていました。家内かないは十二時くらいに一度起きて、トイレに行って、また部屋に戻って寝ました」

「その時に、何か変わった様子はありましたか?」

「いえ、特に。いつものように眠れないらしく、少し不機嫌な様子ではありました。私が居間のテレビを見て笑っていると、にらんできたので。その時に何か言っていたような気もしますが。私は耳が遠いので、よく聞こえませんでした」

「この薬は病院で処方された物ですか?」

「はい。不眠症と医者に診断されて、月に一度まとめて処方されているようです。普段は一錠しか飲まないのに、どうしてこんな」


 家内かないの血圧や心拍数に問題は無く、ただ深く眠っているようだと救急隊員が言った。

 もしかすると、胃の洗浄が必要であったり、起きた時にふらついて転んだりする危険性があるので、このまま救急車で搬送して何日か入院してもらった方がいいかもしれない、と提案される。


「入院するんですか?」

「その方がいいと思います」

「そうですか。ではお願いします」


 救急車から担架が運び出された。ベッドで寝ていた家内かないが救急隊員たちによって担架の上に乗せられ、毛布を掛けられた後、動かないよう太いゴムバンドで固定される。


「ご主人も一緒に行きますか?」

「は……いや、自分の車で行きます」

「わかりました。こちらも搬送先の病院の手配ができるまで少し時間がかかるので、ご主人も早急に準備をお願いします」

「わかりました」


 家内かないが救急車の中へ入っていく。

 騒動に気付いた近所の人たちのが、パジャマに上着を羽織った姿でうちの玄関先に集まっていた。


「ねえ、どうしたの奥さん?」

「ちょっと。まあ大丈夫だよ」

「そう? 今朝会った時も、具合悪そうだったけど。やっぱりどこか悪かったの?」

「まあ。神経質で、眠れなかったみたいで」

「まあ、そうよね。お宅のテレビの音、夜中でも外に聞こえるくらい大きいものね」

「え? そうかい?」

「だって旦那さん、いま補聴器つけているでしょう? でも家にいる時は補聴器はずしているんじゃないの?」

「まあ、わずらわしいしなあ」

「でしょう」

「ご主人、病院の手配ができたので出発します!」

「はい! じゃあ、私は病院へ行くので」

「気を付けて。奥さん、お大事に」


 家内かないが緊急入院した後。

 入院手続きをしてから、入院に必要な物を取りに家に戻った私が、家内のお薬手帳を探してベッドの横のカラーボックスを探っていると。

 離婚届が出てきた。


 いつだ? いつからだ?

 時計の音もしない家内の部屋で、私は茫然ぼうぜんと立ちすくむ。



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