最後の一本の煙草
湿気が強く、熱気の籠ったこの部屋は、あまり広くない。
布団と小さな机と箪笥とゴミを置くだけでいっぱいになる、四畳半一間の部屋。トイレと台所は共同で、風呂はない。
大学進学を目的に、梶本は上京した。親は特に反対もせず、長男に社会勉強をさせるつもりでそれを許した。
だが親元を離れた梶本は、すぐに羽を伸ばすように遊び歩き、ろくに講義も出ず単位を落とし、二年もせずに退学した。梶本は親に大学中退を伝えないまま、暮れも盆も帰郷せず、時々アルバイトをしながらこのアパートでひっそり暮らしていた。
家に帰りたくない理由は、単純に親と折り合いが合わないから。古く固執した考え方をする父と、それを三歩後ろから黙ってみている母。食卓を囲っても話題は無く、食器に箸が当たる音だけが鳴り響いていた。自分がいてもいなくても同じなら、いない方がいいのだろう、と梶本はいつしか思うようになった。
やっと手に入れた一人暮らしの自由だったのになあ、と梶本は短くなった煙草をまだ吸いながら、部屋の天井を見上げた。ぶら下がる豆電球が切れたのは一週間前だが、夜のバイトが続いていたため交換はまだしていない。今夜もバイトが終わった後に部屋に戻ると、また手さぐり足さぐりをしながら布団に入らなければならなくなるが。全身ずぶ濡れになるほど熱い部屋から出て、突き刺さるような日差しに焼かれながら豆電球を買いに行くのもしんどい。正午を過ぎる時間だが、梶本は布団の上から一歩も動いていなかった。
お腹も空いてきたが、冷蔵庫が無いので食べるものは無い。せめて廊下の共同台所へいけば水くらい飲めるが、起き上がることすら気だるい。
吸い終わった煙草の火を消して、最後の一本にすぐ火を点けようとしたが、梶本は考えた。煙草を吸うと空腹が紛れるが、食べたらどうなのだろうか。煙は腹の足しにはならないが、葉っぱなら少しは足しになるかもしれない。
そうして口に煙草を反対から咥えようとした時、壁際に敷いた布団のすぐ上にある窓が、コンコンと鳴った。誰かが叩いているように。
梶本は手を止めて、窓を凝視した。
このアパートは古くて小さいが二階建てで、梶本の部屋は二階にあるため、人の手で窓を叩くことは物理的に不可能だ。なのに、梶本の眼には鮮明に、窓を叩く白い手が見えていた。
その窓はカーテンを取り付けていないため、梶本は布団を頭まで被って今見えたモノを見ないようにした。蒸し暑かった部屋が一気に涼しくなり、だらだら流れていた汗は、ベタベタとした冷や汗に変わる。その時、自分の体の上に何かが乗っかった。押しつぶされた胸が苦しいが、声も出せない。凍えるほどの寒気がして、体がガタガタと震え始めた。
「
小さな声が、耳の奥に響いた。若い女の声だ。
「要らないなら、私に頂戴。頂戴。頂戴、頂戴。頂戴……」
まるで布団の上だけ地震が来たかのように、梶本の体が大きく揺れた。泣き声混じりの女が、何度も「頂戴」を繰り返し言い続ける。
一体何が欲しいのか、欲しいものをあげれば、この女はいなくなるのか。
得体の知れない恐怖に襲われる中でも、梶本は懸命に考え、いま自分が左手に持っているものに気付いた。
さっき食べ損ねた、火の点いていない一本の煙草。もしかしたら女はこれを欲しがっているのだろうか。
全身の力を左手に集中して、堅く握りしめていた左の手の平をゆっくりと開いた。そして手から煙草が落ちる感触がした途端、ふっと胸の重みが跡形もなく消えた。
何事もなかったのように、静寂の蒸し風呂に戻った部屋の布団の中で、梶本は爆発しそうなほど激しく鼓動する心臓が落ち着くまで、何度も深呼吸をした。
それからゆっくりと被っていた布団をめくり、まず部屋の中を確認した。小さな机と箪笥とゴミがいつものように散乱した四畳半の部屋は、何も変わったところはない。
次に上半身を起こして、恐る恐る窓を開ける。部屋の密封された空気が解放されるように外へ流れ、また外からは湿度の高い残暑の生温かい空気が、部屋に入ろうか入らないかうろうろするように、窓の枠で漂っている。
梶本は体を起して、窓の下を覗き込んだ。そこは古くて小さな墓地があり、手入れされている墓石から卒塔婆だけのものまで密集して並んでいる。
アパートの横がすぐ墓地なのは知っていたが、家賃が安いので梶本はここに住んでいた。自分は霊感が無いから気にする必要が無いと思ったからだ。
だが、いま起こった初めての出来事に、梶本は動揺していた。
今まで白かったものが黒に変わったような、自分の目に見える世界が変わってしまったような。
とりあえず落ち着こうと、梶本は布団の上に落ちているはずの最後の一本の煙草を探したが、見当たらない。
布団をひっくり返し、畳んで、周りに落ちているゴミも片付けて探した、どうしても見つからなかった。となるとやはり、梶本が体験したアレは、現実に起きたこととして、認めざるえない。
急いで着替えて財布を持った梶本は、窓を閉めて部屋から出た。
薄暗い廊下を歩き階段を下りて、真っすぐ玄関に向かい自分のサンダルを履いて外に出る。
焼けつくような日差しと熱気、甲高い蝉の鳴き声が梶本に降りかかるが、まるで振り払うように両手を大きく振って、足を前に踏み出し、梶本は豆電球と煙草を買うべく商店へ向かって走り出した。
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