夫婦の思惑

 宝くじに当たる確率は、飛行機事故に遭う確率よりも低い、と聞いた覚えがある。


 まあ、どっちも当たる事が無い一般市民だから、期待も不安も今まで抱いた事が無かったが、当たってしまった。年末ジャンボ、三等の壱百万ひゃくまん円。なんだ少ないじゃないか、と言われたら、一等六億円からみると雀の……いや犬の涙くらい少ないかもしれないが。我が家の年収の五分の一も貰えるのだ。しかも税金無しで。

 しかし疑り深い私は、当選番号が書いてある新聞を四社分並べて、インターネットを使って公式ホームページも見た。最終的に田舎の父親にまで電話して、新聞で当選番号を探してもらって、ようやく当たったのだと確信できた。


 壱百万円、当たった!


 早速、会社の有給休暇を使って、銀行へ行った。しかし誰に聞けばいいのかわからず、銀行窓口の受付番号を機械で受け取り、待ち合いのベンチに座り新聞を開く。目に飛び込んでくるのは、紙面の下で広告を出している国内と海外旅行のツアー情報。

 海外旅行、いいかもしれない。国内の高級旅館は、自分が退職した時に妻とふたりでのんびり行けば良い。子供たちは高校生と中学生で、ふたりとも思春期な女学生だ。温泉のような他人と風呂に入ることも、家族……というか私の後の順で風呂に入ることも断固として拒否する年頃だから、有り難みを感じないだろう。

 しかも何でも欲しい年頃でもある。子供たちには宝くじが当選した事は黙っておくことにしよう。きっとあれもこれもと使い過ぎて、あっという間に諭吉百人斬りをされるに違いない。むしろそのノリのまま、更に十数人の諭吉も犠牲になりそうだ。

 この特別臨時収入は、妻とよく相談をして使い道を決めようと、私は思っていたのだが。


「あなたの好きなように使って下さい」


 一センチ以上の厚みがある茶封筒を、妻は突っ返した。

 私は信じられない、という目で彼女を見る。


「熱でもあるのか?」

「ありませんよ」

「何か怒っているのか?」

「怒ってませんよ」

「喜ばないのか?」

「喜んでますよ」

「俺なんか、銀行から出てスキップしたぞ?」

「会社休んで、何してるんですか」


 娘たちが塾に行っている時間。私はお土産で買って帰った特上寿司と生ビールを嗜みながら、妻と不毛な会話をしている。

 おかしい。

 私のイメージでは、ブランドバッグやアクセサリーの一つや二つねだられるつもりでいたのに。それを断り、いやいや家族みんなでこれは使おうじゃないか母さん、と格好よく言うつもりだったのだが。


「何が気に食わないんだ?」

「そんな事、一言も言ってません。ただ、あなたの当てた宝くじなんだから、あなたが自分の為に使えばいいじゃないですか、って言ってるの」


 よく見ると、私の前の特上寿司の奥に並んだ、肉じゃがとみそ汁と白飯を彼女は黙々と食べている。夕飯に特上寿司を買ってサプライズ作戦は、既に夕飯を作り終えていた彼女には逆効果だった可能性がある。


「あの……勝手にお寿司買ってきて、悪かった」

「いいえ。あなたの好きな肉じゃがも美味しいですから、残さず食べて下さいね」

「驚かせてやろうと、思っていたんだ」

「十分、驚きましたよ。今日会社を休んでいた事も、宝くじに当選していた事も」


 これはまずい。

 私が思っているよりも、妻はかなり怒り心頭だ。


「夫婦で隠し事なく何でも相談しながら、これからも仲良くやろう、と。先月の結婚記念日に言ったのは、あなたでしたよね?」


 その後の沈黙。

 妻も私も食事を止めて、泡が無くなって不味そうなビールの入ったグラスを見ている。

 沈黙に耐え切れず、胃も痛くなってきた私はもう一度、妻に茶封筒を差し出した。


「わかった。俺が全て悪かった。だからこれは、お前に任せる。もう勘弁してくれ」

「いいんですか?」

「いいよ。どうせあぶく銭だ。好きに使え」

「怒ってますか?」

「怒ってないよ」


 ふふふ、と妻の笑い声が聞こえて、私は顔を上げる。


「仕方ないから、預かりますよ。ありがとうございます」


 茶封筒を両手に持ち笑顔で頭を下げる妻に、私はようやく安心して胸を撫で下ろした。


「今まで通り、よろしく頼むよ」

「かしこまりました」


 そうして私の当選した宝くじの使い道は、特上寿司四人前を買っただけで終わった。


 それからしばらく経って。

 妻に約壱百万円をどう使ったかを聞いてみると、一部を私の田舎の親父に軽トラの車検代として渡し、国債を少し買ったそうだ。


「本当はね。あなたから宝くじの当選番号の電話があったって、お義父さんから聞いていたのよ」

「親父から? そうだったのか」

「当たってません、とも言えないし、あてにされても困るから。車検代で済ませちゃったわ」

「なるほどな」

「あと慈善団体へ寄附する義務も無いから、国債にしておいたの。景気が良くなったらすぐ売るけど、社会の為に何かしましたっていえば、そういう所からうるさく言われないかなって」

「そういうものか」

「そういうものよ」


 約二十年、家計を預かっている妻は、私よりも社会経済に詳しいように見えた。


「お母さん!」


 頭に黒くてまるい耳を付けた娘たちが、手を繋いで私たちの座っているベンチにやってきた。


「あそこのお土産屋さんの、ガッフィーのぬいぐるみ、買ってもいい?」

「限定なんだって!」


 目を輝かせる娘たちを見てから、妻は私の目を見た。


「お父さん、いいですか?」

「お父さん!」

「お願い!」


 たかがアヒルだかクマだかのぬいぐるみの為に私に懇願する娘たち二人が、なんだか久しぶりに可愛いく見えた。


「いいよ。好きなの買いなさい」

「やったー! ありがとうお父さん!」

「お父さん大好き!」


 私は財布から壱万円を出して二人に渡すと、二人はとびきりの笑顔で私に手を振って、走っていった。


「良かったですね」

「ああ。良かったよ。娘たちがまだ遊園地でこんなに喜ぶなんて、思ってもいなかった。ところで、あとどのくらい残ってるんだ?」

「何がですか?」

「宝くじの賞金だよ」

「さあ。だいたいはいくつか口座に振り分けて貯金したので……あの子たちの今後の学費用と、成人式用と、あなたと私の老後用と。数えましょうか?」

「いや……やっぱりいいよ」

「今日明日、好きに遊ぶくらいは大丈夫ですよ。あ、私八時からエステの予約入れてあるので、六時までにはホテルに戻ってディナーにしましょうね。あの子たちナイトパレードも見たいはずだから、あなた代わりに連れていってあげてください。お願いします」

「うん、いいよ」


 三等の宝くじが当選したくらいで人生が変わらないのは、我が家では妻の役割が多いからなんだなあ、と。私はしみじみ思った。


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