醒めない悪夢




 今日がどんな日であっても。

 明日は当然のようにやって来ると思っていた。


 なのに私の今日は、いつまで経っても終わらない。

 何度も何度も何度も何度も気が狂うほど繰り返し続けている。






「おはよう、お母さん」

「おはよう。朝ご飯できてるよ」

「今日のお弁当なあに?」

「もう巾着に入れちゃったから、学校に行ってから見なさい」

「はーい」


 三つに仕切られた白いプレートの上には、ロールパンがひとつ。インスタントスープが入ったマグカップ。キャンディー包みの小さなチーズと、ミニトマトと、ウインナーがひとつずつ。中学生といえば食べざかりのはずだけど、幼少よりアレルギー持ちで小食の恵子けいこの朝ご飯は、いつもこれだった。


「お父さんは?」

「もう仕事に行ったよ」

「今日は帰ってくる?」

「今日は出張じゃないから帰ってくるよ。なにかあった?」

「うーん。別に。早く帰ってくるならいいや」


 恵子は毎朝決まったニュース番組を見ていて、そのミニコーナーで行われる星座占いを欠かさずチェックしていた。


『七月九日。今日一番運勢の悪い星座は――ごめんなさい、かに座のアナタ!』

「げっ。かに座、最下位だー。昨日も最下位だったよ?」

「そういうこともあるのね」

「最悪ぅー。今日のラッキーフード、ハンバーグだって」

「お弁当に入れてあるわ」

「マジ? ラッキー! お母さん大好き!」


 そんな小さなことで喜ぶ恵子に、思わず笑ってしまう。


「ごちそうさまでした。じゃあ、いってきますー!」

「ちょっと待って。今日はお母さんが送ってあげるから、玄関で待ってて」

「あれ? お父さん、今日は車で仕事に行かなかったの?」

「今日はお母さんの用事があったから。タクシーで行ってもらったの」

「へー。お母さん、どっか出かけるの?」

「ちょっとね」

「もしかして、浮気?」

「バカ。ほら、靴はいて待ってなさい」

「はーい」


 お気に入りのピンクのスニーカーを履いて、恵子は私に言われた通り玄関で待っていた。

 私はガスの元栓を閉め、エアコンを切ってコンセントを抜き、車と玄関の鍵を持って外に出る。

 車の鍵を開けて、恵子を助手席に乗せてシートベルトをかける。

 家の戸締りを二度確認して、運転席に乗ってエンジンをかける。

 ふう、と息を吐く。


「お母さん」

「なに?」

「なんか調子悪い?」

「ううん。大丈夫」


 


 シフトレバーをドライブに入れて、アクセルを踏む。

 恵子の通う中学校まで、ほんの五分のドライブ。


「あれ? 今日はこっちの道に行くの?」

「あそこの通学路、いまの時間帯は人が多いから。車通りが多いのに、歩道が無くて。居眠り運転のトラックが突っ込んで来ないか、心配だから」

「たしかに車も人も多いよね」


 目の前の信号が赤になる。

 通勤時間帯の交通量の多さはあるけれど、どの車も人も、交通ルールを守って動いている。

 信号が青になる。

 私はブレーキペダルを踏んだまま。


「お母さん、青だよ?」

「うん。ちょっと待ってて」


 直後。

 左から猛スピードで赤信号を突っ切っていく一台の車が目の前を横切った。


「うわ! こわっ!」

「本当にね」


 私はブレーキペダルから、アクセルペダルに右足をずらす。


「信号変わってすぐに動いてたら、こっちも危なかったよねお母さ」


 衝撃と轟音。


 ああ、


 かすむ目で、左を見る。

 跡形あとかたもない。

 暴走車は、







 目覚まし時計の音が鳴る。

 ベッドから降り、レギンスパンツとTシャツを着て、すぐに一階のリビングダイニングへ行く。

 テレビを点け、今日の日付の確認。


【七月九日 六時三分】


「おはよう」


 すぐに夫も起きてきて、朝食の準備を始める。

 マーガリントーストとインスタントコーヒーを食卓に出す。


「あれ? バター無かったっけ?」

「ごめんなさい。間違えてマーガリン塗っちゃった」

「ふーん。いいよ、どっちも美味いし」


 夫が読む新聞の日付も、七月九日。

 大丈夫。

 


 夫にお願いして、車を使わずタクシーで出勤してもらう。

 恵子の朝ご飯とお弁当を作っていると、制服姿の恵子が一階に下りてきた。


「おはよう、お母さん」

「おはよう。朝ご飯できてるよ」

「今日のお弁当なあに?」

「もう巾着に入れちゃったから、学校に行ってから見なさい」

「はーい」


 恵子の朝ご飯は、変えられない。

 ほかの物を食べさせようとした結果、家が火事になったり、ガス漏れしたり、アレルギーのアナフィラシキーショックを起こしたり。


 


 学校を無理やり休ませたら、また家が火事になり、強盗が押し入ったり。

 お弁当の中身を変えても、学校でアレルギーのアナフィラシキーショックを起こしたり、教室の窓から転落したり。

 恵子の履いている靴を変えたり、学校へ行く道を変えても駄目だった。工事現場の足場が崩れて下敷きになったり、自転車とぶつかって縁石に頭を打ったり。


 この事を夫と恵子に、話したこともあったけれど。

 全く信じてもらえなかった。

 それはそうだろう。

 なんて。

 そんなこと言う母親の私の頭がおかしいと思われて当然だった。


『七月九日。今日一番運勢の悪い星座は――ごめんなさい、かに座のアナタ!』

「げっ。かに座、最下位だー。昨日も最下位だったよ?」

「そういうこともあるのね」

「最悪ぅー。今日のラッキーフード、たまご焼きだって」

「お弁当に入れてあるわ」

「マジ? ラッキー! お母さん大好き!」


 変わらない毎朝でただ一つ。

 今日のラッキーフードだけは、毎回違っている。


 私はテレビを点けた時に、データ放送で星座占いだけを先にチェックする。

 そのラッキフードを、お弁当の中に入れておく。


 今日のラッキーフードを入れなかった日は、恵子が起きてこなかった。

 心臓発作、脳梗塞。恵子はベッドの上にいたままだった。


 何回、娘の死に立ち会っても、慣れることはない。

 もっと私に出来ることがあったはず、と後悔しかない。

 枕を濡らして、自分を呪って、意識を失うと。


 また目覚まし時計のアラームが鳴る。


 


 



「お母さん」

「なに?」

「なんか調子悪い?」

「ううん。大丈夫」


 私はルートを一つに絞った。

 そこを何度も繰り返して、この悪夢から抜け出す方法を探す。


「うわ! こわっ!」

「本当にね」


 左から猛スピードで赤信号を突っ切っていく車が目の前を横切った。

 私はブレーキペダルを踏んだまま。


「お母さん、行かないの?」

「うん。ちょっと待ってて」


 直後。

 左から猛スピードで赤信号を突っ切っていくが目の前を横切った。


「うわっまた! すぐに動いてたら、こっちも危なかったよねお母さん」

「うん。待ってて良かったね」


 私はブレーキペダルから、アクセルペダルに右足をずらす。

 この交差点は、この方法で通過できた。


「そういえば明日、お母さんの誕生日だけど」

「そうね」

「お母さんは、誕生日プレゼントに欲しいものないの?」

「明日」

「明日?」

「明日があることかな」


 左車線を走っていると停車しているトラックがいて、私はウインカーを出して右側に車線変更した。

 前方を蛇行しながら走っていたトラックが、対向車線に飛び出してきた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る